中国における近代的な意味での「児童文学」の成立は、一般的に、学校制度の普及や西欧的な教育理念の普及によって「児童」が「発見」された五四時期とされている。中国児童文学は成立の初期から、日本から「童話」という言葉を輸入し、西洋の作品を日本語から重訳するなど、日本からの影響が大きいことが先行研究で明らかにされている。しかし、戦争で社会が激動した1930・1940年代、国家イデオロギーの統制で児童文学が政治教育の道具と見なされた1950・1960年代、そして文化大革命の時代(1960・1970年代)には、日本を含む外国の児童文学の翻訳と出版はあまり行われず、中国児童文学も長い間その活気を失っていた。

 本論文が1980年代以降の中国における日本児童文学の影響に焦点を絞ったのは、1978年の「盧山会議」(全国少年児童読物出版工作座談会)を中国における現代児童文学の第二の出発点とし、1980年代以降を中国児童文学の「再建」の時代として認識することを前提とする。「盧山会議」以降、中国児童文学のインフラが迅速に整えられ、全国各地に少年児童出版社が設立され、新人作家が輩出し、児童向け新聞・雑誌の数も急増した。21世紀以降、児童書の市場はさらに拡大し、中国人作家が国際アンデルセン賞を授賞し、「絵本」、「ファンタジー」など、これまでになかった概念も中国の人々に受け入れられるようになった。現在、多くの日本作品が中国で翻訳出版され、日本の出版社も中国に進出している。

 しかし、学界では1980年代以降の中国における日本児童文学をめぐる研究は意外にも少なく、その全体状況は未だ十分に明らかになっていない。本論文は「盧山会議」の後の中国における日本児童文学の翻訳状況について、重要な作家の作品に着目しながら、できる限り調査した上で、中国人がどのように日本児童文学を選択し、翻訳者がどのようにそれを翻訳し、読者がそれを如何に読んできたのかを明らかにした。

 第1章では、中国児童文学の発展の歴史、特に1980年代以降の児童文学について簡単にまとめた上で、この時期までの中国における日本児童文学の翻訳受容について整理し、1980年代のエポックメーキングな意義を究明した。

 その上で、第2章では、出版資料の収集と整理を行い、1980・1990年代において、外国児童文学のアンソロジーが隆盛したという現象を前景化した。その中で特に孫幼軍翻訳『日本童話精選』(21世紀出版社、1991年)について詳細に分析した。孫幼軍は中国児童文学屈指の作家であり、特に幼年児童文学の領域で大きな貢献と影響を残した一人である。1980・1990年代、中国では「教育性」から脱却しようという声が出始めたが、児童文学者である孫幼軍の児童文学観の革新性と、当時「新潮」児童文学とも呼ばれた児童文学の胎動がこの一冊の出版から窺える。『日本童話精選』についての考察を通して、1980年代初頭の中国児童文学者たちが、日本の作品をお手本にし、そこに理想の児童文学を見出したこと、そして孫幼軍の作品をはじめとする中国幼年文学が日本から影響を受けたことを明らかにした。

 第3章では、1980年代以降の中国における小川未明作品の翻訳受容について考察した。「赤い蝋燭と人魚」は、「日本児童文学の父」と称される小川未明の代表作の一つである。五四時期にも未明童話は中国で翻訳紹介されたが、同作は当時の『小川未明童話集』には所収されなかった。しかし、1980年代以降に出た小川未明の中国語訳本では、この作品はむしろ表題作とされ、敬遠されていた状況から完全に逆転した。1980年代以降の中国児童文学界において、童話をめぐって「抒情」と「熱鬧 (ドタバタ)」論争が行われた。本章では、未明童話の受容とこの論争とを関連づけ、「赤い蝋燭と人魚」の翻訳及び中国での理解に対する分析を通して、中国の漢詩に深く影響された小川未明が、21世紀以降中国の読者に受け入れられ、詩情に満ちた未明の童話が、一種の見本として、中国児童文学に新たな影響を与えたことを明らかにした。

 第4章では、中国で翻訳紹介された新美南吉の児童文学作品の中でも「手ぶくろを買いに」について取り上げた。この作品は、中国の児童向け雑誌で最も頻繁に紹介され、最も多く市場に出回った南吉作品と言える。きつねの親子を描いたこの童話は、新美南吉の母親に対する複雑な思いが込められていると日本では評価されているが、中国語に翻訳された際に書き直しが行われ、「母親の愛」が、中国特有の社会背景のもとで前景化した。この作品の受容には、社会の現実と連動した21世紀以降の中国児童文学の投影が窺える。

 そしてその上で第5章では、中国の小学校国語教科書における翻訳児童文学作品の中から、新美南吉「去年の木」と椋鳩十「金色の足あと」を取り上げ、それぞれの改編の過程を明らかにし、そうした改編がどのような意図で行われたのかについて考察した。

 1980年代以降、教育改革の一環として中国の「教学大綱」が改編されたのと同時に、新美南吉の童話「去年の木」も教材化された。新美南吉の作品は、日本で長年多くの教科書に採用されてきた。21世紀以降の中国では、「去年の木」が教材化されたことで、新美南吉の名が広がった。新美南吉「去年の木」と椋鳩十「金色の足あと」は、中国小学校教材の司令塔と言える人民教育出版社の国語教材『語文』に採用された日本児童文学である。教材になるということは、毎年およそ1,800万の児童読者を獲得し、教育現場で繰り返し議論され、読者の理解が定着することを意味している。教材となった作品は、日本児童文学の中国における受容を考える上で非常に重要であり、教材テクストとしての書き直しには、中国における「教育性」、すなわち児童文学に対する要求の実態が反映されている。

 第5章の補論として、教科書の中の動物文学「金色の足あと」と対比して、中国動物児童文学のベストセラーである沈石渓作品を取り上げた。改編された「金色の足あと」に代表される「教育性」重視の価値基準と、沈石渓に代表される市場経済の中で大胆に探索する価値基準とが、中国児童文学において激突する様相を明らかにした。両者が平行線となっていることには、今後の中国が直面する「困惑」も伏在していると思われる。

 1980年代以来、中国の児童文学者たちは度々「思弁」や「困惑」に言及してきた。その内実は、この時期に行われた様々な疑問、例えば児童文学は児童を教育するための文学か、児童文学はどこまで書けるか、児童文学は抒情と楽しさのどちらを第一義とすべきかなど、児童文学のジャンルやスタイル、テーマや表現方法、教育と道徳の関係などに関わる様々な疑問をめぐる討論と実践である。

 中国における日本児童文学の翻訳出版状況、そして1980年代以降の中国社会における日本作品に対する理解から、中国の児童文学者たちが新しい児童に向かって、諸外国との格差を克服するために行った模索、および日本から与えられた刺激と啓発が窺われた。本論文は重要な日本児童文学作品の中国における翻訳受容状況を取り上げ、日中両国の児童文学の関連性と中国児童文学の変遷を究明しようとしたものである。

 「盧山会議」から40年以上経った現在、中国の児童文学は今もなお困惑に陥っている。例えば紙媒体の衰退がもたらす影響、絵本の商品化の拡大、「ファンタジー文学(幻想文学)」の意味合いの変化などが挙げられる。それと同時に、日本児童文学との相互交流もさらに拡大し続けている。中国の児童文学が直面している新たな困難、新たな時代における日本児童文学の受容などについては、今後さらに研究していきたい。