本稿の目的は、「文法の哲学的基盤―認知文法の観点から―」という表題が示すように、認知言語学(とりわけ認知文法)それ自体を掘り下げること、さらにそれを通じて、主体と世界の関係を言語がどのように取り持つのか、また、その過程において言語がどのように自らを作り上げるのかを探究することである。その際、言語理論や個別言語を分析するだけでなく、先行研究における議論を丁寧に読み解き、言語や主体と世界の関係についてどのような思考がなされて来たのかを明らかにすることを目指した。

 1章では、認知言語学的な研究が、生成文法が標榜する意味での(自然)科学ではないことを確認したのち、ありうる研究実践を示す。本稿での研究は大きく、基礎言語学と解釈言語学に二分できる。本章では前者の例として、認知言語学は弱い現実構成主義と両立可能であることや、使用基盤モデルにおける使用事象はあらゆる細部を保った実際の経験であり、そこから言語知識が立ち上がってくることを明らかにする。また、後者の例として不在因果やあや性を取り上げ、言語の分析が、我々の概念体系やコミュニケーションのあり方にかんする知見をもたらすことを確認する。最後に検討する哲学的言語学は、すでに言語を身につけた主体として、世界をより見通し良く捉えようとする営みとして、本稿全体の基層となるものである。

 2章では、認知言語学にとっての基礎的な問題を扱う。言語の存在論と、現実構成主義である。言語学の研究対象が言語であることに疑いの余地はない。しかし、研究対象である言語の存在論的な身分は必ずしも明らかではない。認知文法では言語は活動の一種であると考えている。ここでの活動には、脳の神経活動・心的な活動・社会的な活動のすべてが含まれる。ここには一種の緊張関係が存在する。たとえば、仮に心的な活動と社会的な活動が、いずれも脳の神経活動に還元できるのであれば、言語は究極的には脳活動だということになるからである。本章前半では、〈しっくりくる〉言葉を選び取る実践において働く、話し手が表す対象が属するカテゴリーの把握と、そのカテゴリーを表す言語記号の選択という2つのカテゴリー化の働きを掘り下げることで、言語にとって脳の活動と心の活動の両者がともに本質的であることを明らかにする。

 人間の生きる世界は「ありのままの現実」ではなく、人間の認知によって構成されたものだと考える現実構成主義は、(定義上)経験することができないはずの「ありのままの現実」に言及してしまっているという難点がある。本章後半ではこの問題を解消するため、弱い現実構成主義の観点から、それぞれの主体(が立つ場所)から開かれた世界の有視点的把握を位置づけるための無視点的な世界のレイアウトが「ありのままの現実」であることを示す。

 3章では、言語学においてしばしば重要なデータとして用いられる容認性の内実を主題としている。容認性は文が(言語使用者に対して)持つ性質だとされ、先行研究では、より規範的な表現との比較や、文脈・評定者との相関によって定まるものとされてきた。本章では、使用基盤モデル的な言語観を徹底し、文の容認性だと考えられてきたものは、実際には(文から想起される)使用事象の容認性であること、そして、使用事象の容認性は、言語表現の慣習性および言語表現による対象のカテゴリー化が適切である程度によって定まることを明らかにする。

 4章では、受身文は主語の指示対象の〈変化〉を表す構文であるという見通しのもと、日本語の受身文にかんする先行研究を詳細に検討する。はじめに、初期の生成文法における受身文研究として黒田成幸と久野暲による論争を整理し、論争が有意義なものとならなかった理由は、黒田が自身の提案した affectivity という概念を、誤ったしかたで再提示してしまったことにあると突き止める。この論争において提示された諸概念は、その後の受身文研究において、形を変えて様々に表れている。

 行為者をニによって標示するニ受身文と、ニヨッテによって標示するニヨッテ受身文の差異に注目する研究は、受影性や被影響などのaffectivity の読み替えとも言える概念によって、ニ受身文の意味を捉えようとする。しかしそこには、ニ受身文の中心は、有情者である主語の指示対象が感じる心理的影響を表すものであると考える強い傾向によって、主語の指示対象への物理的影響を表す受身文を適切に捉えることができなくなっているという問題がある。さらに、主語の指示対象の属性を表す(と考えられている)受身文を属性叙述受動文として、主語の指示対象の〈変化〉を表す文とは別立てにしてしまっていることも大きな問題である。先行研究における議論を見渡したうえで、本章では受身文は主語の指示対象の〈変化〉を表す事象を、被動者を中心に捉えた文であるという考えを提唱する。

 さらにそれによって、どのような場合に、また、どのような理由で、受身文が主語の指示対象の被る〈悪影響〉を表すことになるのかを説明する。対象への働きかけと、それによる対象の〈変化〉には、働きかけが強いほど〈変化〉が生じやすいという相関があり、受身文は主語の指示対象の〈変化〉を表す構文であるために、働きかけが弱い場合には〈悪影響〉によって〈変化〉を埋め合わせるのである。

 5章では、4章の成果を踏まえ、受身文に関連する概念である「関与」と「排除」、および「譲渡不可能名詞」を検討する。「関与」と「排除」は、参与者と出来事との関係によって規定される概念である。参与者が自身を含む出来事と関係を持つ場合には「関与」となり、自身を含まない出来事と関係を持つ場合には「排除」となる。本章の議論によって、ある出来事が「関与」であるか「排除」であるかは、出来事それ自体の性質や、表現に用いる述語の種類によって完全に決定されるわけではなく、概念化主体が参与者と出来事(および、その関係)をどのように捉えているかに依存して決まることが示される。

 「譲渡不可能名詞」とは、全体部分関係における部分のように、基体が意味の内に含まれる名詞類である。ある名詞が「譲渡不可能名詞」かどうかは、世界において指示対象が部分として機能しているかどうかという基準ではなく、あくまで「意味論」的なものであるとされる。本章では 「譲渡不可能名詞」という道具立てによって、持ち主の受身の〈悪影響〉解釈を予測することはできないと指摘する。このように、言語分析を通じて道具立てへの理解を深めることは、本稿の主題の1つである解釈言語学の実践と言える。

 6章では、間主観性に基づく表現を手がかりに、客観・(間)主観という区別や、対象と対象に関する知識の峻別には理論的困難があることを指摘し、「変化の相対性」に注目することで、「体系変化」・「対象変化」というより妥当な線引きが可能であることを示す。私(たち)が対象を捉えるさいには、[認識原点-知識-対象]という視点配置が取られている。つまり、対象は様々な知識を見透して捉えられているということである。

 7章では、認知文法におけるレトリック研究を主題としている。レトリック研究の中心の1つである多義研究に対して、認知言語学の内外から様々な理論的問題が提起されている。はじめに、多義をある種のネットワークによって表示する研究への批判を検討し、研究手法には問題があるものの、多義ネットワークという知識のあり方自体は否定し難いことを確認する。次に、認知文法の使用基盤モデルに基づくネットワークモデルでは、単一フレーム内の隣接性に基づく比喩であるメトニミーは扱えないとする諸批判を検討し、いずれも誤解に基づくものであり、ネットワークはメトニミーの基礎となるフレームを適切に位置づけられるものであることを示す。本性で扱うこの種の批判は、言語知識を一種のネットワークとして捉えるメタファーと、それを図示する際に用いる表記としてのメタファーを混同したことに由来するところが大きいと考えられる。

 本章では比喩をコミュニケーションの観点から分析する。たとえば、類種関係に基づく比喩とされるシネクドキを、①話し手が提示する言語表現に慣習的に結びついた意味1と、聞き手が理解する意味2との間にずれがあり、②意味1と意味2に上位/下位カテゴリー(類/種)・下位/上位カテゴリー(種/類)関係が認められる。という条件によって規定したうえで、「上位カテゴリーで下位カテゴリーを表す提喩」とされた類はシネクドキと見なすべきではないと論じる。

 本章では最後に、コミュニケーションでは基本的に、伝えたいことのごく一部を言語化して示すという方策を取らざるを得ないため、能力としての代換が重要な役割を果たしていると主張する。能力としての代換とは、ある事物を、異なるカテゴリー化・言語化の可能性を踏まえつつカテゴリー化・言語化する能力のことである。認知言語学において、使用される言語表現は概念化主体の捉え方を反映するものだと考えられている。これは誤りではないが、この際の捉え方は、話し手が聞き手と独立に決定するものではなく、聞き手へと提示する手がかりであることを踏まえて形成するものである点に注意しなければならない。

 このように、本稿の議論は多岐にわたるが、そのすべてが世界と主体の関係を言語がどのように取り持ち、また、そのことを通じて言語がどのように自らを作り上げるのかという、文法の哲学的基盤へと迫るものである。