本研究は、19世紀末から20世紀最初の四半世紀にかけてのヴィーン大学における音楽学の歴史を、応答・構成・批判の三方向から成る、音楽学的知識の言語論的運動として記述する試みである。

 〈音楽学(Musikwissenschaft)〉は、19世紀後半に一つの独立した〈科学/学問(Wissenschaft)〉として誕生した比較的新しいディシプリンである。すでにドイツ語表記を用いたことに示唆されているように、この学問分野はとりわけドイツ語圏において大きく発展し、中でもヴィーン大学は、世界に先駆けて音楽を講じる大学正教授職を設け、制度面および理論面でこの学の黎明期を支えた一大拠点であった。1870年に最初の正教授職を授かったE・ハンスリックと、『音楽学季刊誌』の創刊ののちその彼を次いで1898年に正教授に就任して理論的・方法論的著作を発表するとともに、『オーストリアの音楽遺産』や『音楽学研究』といった学術成果の発信媒体を整備していったG・アドラーの名前はよく知られている。現在まで講座を守り続けているヴィーン大学音楽学研究所からは、定期的にこの学派の歩みを回顧するシンポジウムの開催や論集の出版がなされているから一層、黎明期のヴィーン音楽学を支えた彼ら二人の著作や事績は現在の音楽学者たちにとってごく自明な教科書的事項だろう。

 しかし、ひとたびその自明な業績群がそもそもどういった他の隣接諸学のテクストを参照するなかで作りだされていったのか、そして、特殊音楽学的な方法論や術語はいかにしてその輪郭を鮮明にしていったのかという理論生成に関わる学問史的問いを立ててみると、われわれはいまだ十分な回答をもたないことに気づく。また、歴史的音楽学だけでなく当時の体系的音楽学・比較音楽学の歩みをも視野に収めようとするといよいよ、〈音楽学〉という知的活動の基盤は果たしてどこにあったのだろうかという疑念に駆られる。

 本研究では、この学問史研究の欠如は、単に音楽学者たちの関心の欠如に帰すことのできる問題でもあるいはヴィーン大学に固有の問題でもなく、〈音楽学〉の存在様態と密接に関連した構造的問題であるとの立場から、音楽学史実現のための枠組みをはじめに序章にて模索する。アドラーが画期的論文「音楽学の範囲、方法、目的」(1885年)において、この学が扱いうる課題を歴史的部門と体系的部門とに大別し、さらに、それらの課題に取り組むにあたっての補助学を整理した際にすでに、〈音楽学〉は、特定の対象、特定の問題関心、あるいは特定の方法論に依拠して立ち上げられたのではなく、〈音楽〉に関わるおよそ当時想定しえたあらゆる〈科学的/学問的〉知識活動を原理的に内包し拒否しない、サブディシプリンの集合として構想されていた。これまで音楽美学史や音楽理論史、あるいは音楽史記述法といった個々のサブディシプリンに対する歴史的考察は試みられてきたものの当の〈音楽学史〉は実践されてこなかったのは、〈音楽学=音楽の科学〉がその誕生の時点から有していたこの〈メタ科学的性格〉に由来すると考えられる。言い換えれば、〈音楽学史〉を執筆するにあたってその主体たる〈音楽学〉を捉えようと考え始めた途端に〈科学〉とは何かという途方もない本質規定の問いに接近することになるか、あるいは、歴史叙述のための統一的主体たる〈音楽学〉の核を問うことをやめればひたすらサブディシプリンの歴史の並置としてしか〈音楽学史〉が実現しそうにないという〈音楽学史の困難〉を前にして、われわれはこの学の歴史を語ることを躊躇してしまう。

 本研究は、学の黎明期を支えた当の研究者たちは実際にいかなる知識を〈音楽学〉の名の下で生み出してきたのかという問いへ視点を転換することによって上述の困難を解消しつつ、第一に、音楽学的知識を個々のテクストの読解を介して立ち現れる言語的構築物と見なすことで、そして第二に、それでも学派という制度的まとまりを保っているヴィーン大学に対象を絞ることで、〈音楽学史〉を内からまとまりを紡ぐ言語論的運動として記述することを試みる。その際、個々のテクストを、問いの継承と展開からなる〈応答〉、まとまりある一つの理論への〈構成〉、そして、その理論を深層で支える認識論的基底を探る〈批判〉、これら三つの視角から分析し、テクスト間の具体的な連鎖・干渉の様子を記述していく。本論の構成は以下の通り。

 第1章「ハンスリックの『音楽美論』とヴィーン音楽学」では、ハンスリックの著作『音楽美について』(初版1854年)を導きにして、アドラーそして比較音楽学の基礎を築いたR・ヴァラシェクが新しい〈科学/学問〉を設計していくにあたって、この著作からどのような問いを受け取り自らの研究課題へと変換していったのかを明らかにする。

 続いて第2章から第8章までをアドラー編とし、アドラーの音楽様式論を一つのまとまりある理論として批判的に再構成することを試みる。

 はじめの3章ではアドラー様式論と〈歴史主義〉思想との関係が考察の主軸となる。第2章「美学批判と美術史学」では、アドラーが示す反美学の姿勢に込められた積極的意味を美術史学テクストとの対照を通じて明らかにする。第3章「様式の二重根源説と様式批判」では、アドラー様式論の基本骨子となる「様式の二重根源説」と様式史研究の具体的指針である「様式批判」のアイディアとを取り上げ、ハンスリックから受け取った音楽における〈形式・内容問題〉への〈歴史主義的〉回答を考察する。第4章「歴史的聴取と感情移入」では、〈歴史主義〉が抱え込むことになる認識論的相対主義のジレンマに対してアドラーテクストはどう応じてくれるのかを問い、同時に、アドラー様式論を〈歴史主義〉の標語の下に落ち着かせることの限界を指摘する。

 続く4章では、個別の学説からさらに視野を拡大してアドラー様式論の全体像を再構成する。このとき同時に、〈歴史主義〉と並んでしばしば指摘されてきたアドラー思想の進化思想への接近という従来の見解に再考を加える。第5章「音楽様式の発展史」では、アドラーが構想する様式の〈発展史〉の内的構造を基礎概念の分析を通じて明らかにする。第6章「O・コラーの音楽進化論」では、同僚のコラーの論文を糸口にして、アドラーの発展史構想と進化論との距離を測る。第7章「様式種の分類学」では、アドラー様式論の最も独創的な部分であるにもかかわらずこれまで十分な検討がなされていない彼の〈分類学〉構想をその基礎概念から明らかにするとともに、前章の議論をふまえて、アドラー様式論における生物学的表象と博物誌的想像力との関係へと論点を移す。アドラー編最後の第8章「アドラーテクストにおける『様式』とは何か」では、改めて「様式」概念の意味・機能を問い直す。アドラー様式論は、基本的に作品の分析に基づく実証的歴史研究の方法論として認められてきたが、その裏面で、本来保つべき記述的性格からの逸脱を批判されてきた。本研究では、アドラーの「様式」概念が方法論としての様式論の枠組みをはるかに超えた、音楽学という知的活動の指針となる〈統制的理念〉であることを指摘し、彼の様式論は〈規範的〉に対置される限りでの〈記述的 descriptive〉な方法論という一方の極と「様式」という〈統制的理念〉と相互参照関係にある限りでの〈構成的 constitutive〉なルールというまた別の極との間に成り立つこと、つまり、二つの異なる対立軸がねじれ交叉した緊張関係の中にあることを主張する。

 続いて第9章から第11章をヴァラシェク編とし、音楽美学の〈科学化〉を進めたヴァラシェクのテクストを読んでいく。ヴァラシェクの学術的業績は近年になってようやくその概要が知られるようになった。本研究では彼が唱える諸学説間の連関を再構成し、カント哲学を科学的語彙によって翻訳するカント主義者としてのヴァラシェク像を提示する。第9章「音楽起源論とダーウィニズム」では、従来から繰り返し取り上げられてきた彼の音楽起源論を考察の出発点とし、音楽の「タクト」起源説が有する思想史的位置を明らかにする。第10章「『タクト』の心理学」では、音楽用語「タクト」が音楽起源論に留まらず、時間心理学そして音楽心理学をも理論文脈として従える心理学的術語へと鋳直される様子を辿る。第11章「神経音楽美学」では、ヴァラシェクが研究活動の最初期から取り組んでいた音楽の〈形式・内容問題〉を当時の脳研究の知見を援用して再度論じ直す様子を跡付け、彼の「タクト」論と〈形式・内容問題〉への回答との基底にあるカント哲学の存在を明らかにする。

 第12章および第13章では、R・ラッハの大著『装飾付き旋律作法の進化史研究』(1913年)に注目して生物学主義的アプローチをとる彼の学説を検討する。第12章「旋律の進化史」では、ラッハの音楽進化論を精読し、ヘッケル反復説の原理化という読者にとって明白なその基本傾向とは別に、科学理論の中に落とし込まれた「アクセント」概念の実質に迫る。第13章「比較音楽学あるいは『音楽創造の生物学』」では、ラッハによる比較音楽学の定式を概観しつつ、アドラーとヴァラシェクも考察に加えて三者の間にある音楽学体系の差異を素描する。また、三者の「音組織論」の中に見られるヘルムホルツへの応答から、音楽学言説の性格を規定する、人間における自然と自由の領分を巡る問いを抽出する。

 これら全13章を通じて、音楽学テクストと他領域のテクストとの間の文脈干渉の様子、そして、各音楽学者による音楽学的術語構成の努力を跡付け、言語論的運動としての音楽学史記述から音楽学的知識の〈確かさ〉を保証した条件を問う歴史的認識論への次なる展開可能性を導く。