本論文は、大日本帝国憲法第三十条により請願権を保障された「日本臣民」が帝国議会に対して請願を呈出する制度(帝国議会請願制度)の運用が日露戦後に変容していく過程を分析し、当該期の議会構成員と議会外の「日本臣民」の双方がそれぞれ帝国議会にいかなる機能を見出そうとしたのか、またその試みがいかなる経過を辿ったのかを考察した。

 日露戦後期とは、極めて多額の戦費を要した日露戦争の遂行が国内に経済的疲弊と既存秩序の動揺をもたらす中で、国家官僚による地方改良運動の推進から個人レベルにおける修養主義への傾倒に至るまで、あらゆる手段に現状の突破口を求める諸主体の動きが交錯した動揺と再編の時代であった。本稿が議論の対象とする帝国議会においては、特に選挙制度について社会状況の変化に応じた改革が模索され、議会内外で争点化したことが明らかにされている。その半面で選挙制度以外の領域、すなわち帝国議会の運営システムや議会請願制度等については、衆議院第一党・立憲政友会の主導によって議事運営の安定・効率化や「請願重視」を通じた官僚からの独自性の強調といった一定の方針・目的に即す形でそれぞれ運用の再整備が統一的に進められたと理解されてきた。これに対して本論文は、帝国議会と「日本臣民」を直結する帝国議会請願制度に対して議会内外から高い関心が寄せられ、不統一に活性化し摩擦を生む諸主体のエネルギーが同制度の運用のあり方を流動的に変容させたことに注目した。

 第一章では、日露戦中の第二一議会と日露戦後初の通常議会である第二二議会の衆議院に焦点を当て、両議会において活性化する議会請願制度運用の改革・再整備に向けた動きが、議会構成員内に存在した運用構想の相違や運用改革に対する温度差を炙り出しつつ、軌道修正を重ねる過程を跡付けた。

 当該期において日露戦争の遂行や来るべき戦後経営の基盤となる強力な国家統合体制が希求される中で、帝国議会は議会請願として表現された多様な社会の要求に対してより実効的な措置を取り、それによって国内秩序の維持に寄与することを期待されるようになった。かかる文脈で生起した議会請願制度改革の動きは、特に政友会の非主流派議員であった竹越与三郎請願委員長を中心に先鋭化した。竹越の改革構想は、国内秩序の動揺を引き起こす可能性のある民間資本の事業計画・会社合同を国家介入によって予防する意図に基づき、議会請願の審査活動を媒介として帝国議会に鉄道会社など一部民間資本の統制機能を組み込もうとするものであった。衆議院第一党である政友会の代議士会は、議会請願制度を改革し議会権限を拡充する方針については賛同の姿勢を見せていたが、一定領域の民間土木事業に対する決定権を行政から議会―請願委員会に移管する竹越の構想に対しては強い反発を示し、これを破棄に至らしめた。

 また、衆議院内における政治的上昇を目指す立場から議会請願制度改革を支持する請願委員会の内にも、請願審査を通じて委員会外の議案審議に対する発言権をも獲得しようとする請願委員と、あくまで衆議院の一体性を重視し秩序立った議会運営に適合的な権限拡張を志向する請願委員の対立が存在した。かかる対立を顕在化させた生糸検査法案否決請願の審査過程は、請願委員会の請願却下権拡大に対する一部政友会代議士の警戒も相俟って激しく紛糾し、当該期における請願制度運用の再整備が一枚岩的に進行し得ないことを示した。

 以上のように相異なる政治的関心を有する議会構成員がその一致点として見出したのが、衆議院請願委員会へ請願に基づく法案の提出権を付与する議院単行規則、「法律ノ制定ニ関スル請願取扱規則」(請願取扱規則)の制定であった。林田亀太郎衆議院書記官長の構想を基礎として成立した同規則によって、帝国議会には委員会を発議者とする立法(委員会立法)を通じて社会から噴き上がる多様な要求に応答する機能が部分的に組み込まれることになった。

 第二章では、第二三議会以降の衆議院において請願取扱規則の運用が開始され、凍結に至るまでの過程を分析した。帝国議会による審査のための人民召喚・議員派出等を禁じた議院法第七十三条・第七十五条の制約下で請願取扱規則を運用するにあたり、林田衆議院書記官長は衆議院請願委員会と政府委員の協調を期待していた。しかし、請願に対して冷淡な政府―委員会立法を通じて請願に自ら応答する帝国議会という二項対立を強調する請願委員会は、政府委員ではなく請願紹介議員を制度運用の協力者として選択した。また、請願委員会外の議員らが請願取扱規則の運用実態に対して相対的に無関心な態度を示す中で、結果として同規則の運用は、請願者の利益を図ることで自己の政治力を顕示しようとする請願紹介議員の存在に大きく依存した不安定なものとなった。最終的に衆議院請願委員会は、請願取扱規則の運用を成立から約十年で凍結し、官僚組織に対して請願への早期対応を要請する一種の行政監視機関として自らを再定義した。請願取扱規則が議会制度に組み込んだ委員会立法による諸要求への応答機能は、同規則の運用凍結と共に沈潜していった。

 第三章では議会外に目を転じ、法人である市町村の請願権が、帝国議会が開設されて以降内務省・府県によってしばしばその規制が試みられる緊張状態の中で、特に日露戦後期を画期として拡大していく過程を跡付けた。初期議会において治水費国庫支弁等の地方問題が争点化する中で、内務省は「国家ノ大政」をめぐる混乱から市町村をあらかじめ切り離すべく、議会への請願権を含む市町村の請願権自体を否定しようと試みた。しかし、これは市町村を含む法人一般に「日本臣民」同様の請願権を認めていた憲法・議院法起草者らの想定と衝突するものであり、結果として内務省は市町村に「其職務権限ノ範囲」内に限った請願権のみを認める折衷的な通牒(明治二十六年県甲第四十五号通牒)を発した。

 日露戦中・戦後期を通じて、市町村は国家が戦争や戦後経営という課題を遂行するための基盤として位置づけられ、それによって市町村の「職務権限」は明確に「国家ノ大政」へと接続した。日露戦後に市町村経済の一律的救済を求めて生起・広域化した市町村基本金下付請願運動は、県当局による制止を振り切って持続的に展開され、市町村が議会請願活動を通じて直接「国家ノ大政」に介入することを阻止しようとした内務省の試みを最終的な挫折に至らしめた。ここにおいて市町村は、帝国議会を内務省―府県―郡―町村という行政機構の重層を迂回して自らの要求を集約する空間、換言すれば地方統治体制を相対化する機能を持った空間として明確に見出した。

 日露戦争に端を発する国家秩序の動揺に対し、近代日本の請願制度は、天皇・行政官庁への請願手続きを規定する請願令の公布(大正六年)という一つの解を示した。第四章では、請願令公布後に展開された埼玉県秩父・入間郡界変更請願運動の事例を通じ、請願者が請願対象(議会)を目指して移動する途を開き続ける帝国議会請願制度の存在が、当該期の村民にとっていかなる意味を有したかを考察した。

 埼玉県秩父・入間郡界変更請願運動の事例から明らかになるように、議会請願のため居住地域と東京を往復する請願者は、議員訪問活動を通じて情報を獲得すると共に、その中で中央官庁が求める情報を察知した場合は地方統治機構を迂回して直接それに応え、時として県当局の意向を覆す意思決定を導いた。帝国議会は会議の公開を原則とする公知の政治空間であり、帝国議会請願制度はその運用開始以来、請願者と請願対象(議会構成員)の接触や双方向的な情報伝達を通じて地方統治機構を越える新たな調整空間が切り引かれる余地を常に残していた。本論文においては、そのような議会請願制度の普遍的性質が、天皇・行政官庁に対する請願の機能を書面による一方向的な意思伝達に限定した請願令体制の成立や府県行政の領域拡大と共により重要性を帯びて浮き上がったことを指摘した。

 以上を通じて本論文は、日露戦後における帝国議会請願制度の運用過程では、(一)各議会構成員による新たな運用構想の提起と摩擦・止揚が繰り返される中で、帝国議会が委員会立法を通じて社会から噴き上がる要求に直接応答する機能を浮上・沈潜させたこと、(二)帝国議会が議会外の「日本臣民」、ここでは法人である市町村と市町村住民の前に、地方統治体制を相対化する機能を持つ空間として前景化したことを明らかにした。

 終章では、日露戦後における議会請願制度の展開過程が、帝国議会内外で不統一に活性化する各政治主体が帝国議会の内に国家統合や現状打破の手段となり得るような機能を区々に見出しては、摩擦と動揺を伴いつつ制度運用のあり方を変容させていく、その多面性と流動性によって特徴づけられたことを確認した。竹越与三郎が追究する請願審査を通じた議会の民間資本統制がついに実現しなかったように、議会請願制度運用の可変性は決して無限定的なものではなかった。しかし、帝国議会請願制度という領域は、国家秩序の動揺にいち早く共振し、制度運用の内実をある程度流動的に変容させつつ各政治主体のエネルギーを受け止め、それによって帝国議会制度、そして国家統治体制それ自体に一定の柔軟性と耐久性をもたらしたのである。