本研究は、一九二〇年代から六〇年代の中国で、美学と称される領域において、いかなる思想ないし学問そのものの生成過程があったのかを解明することを試みるものである。具体的には、一八世紀ドイツの理論家にして文学者G・E・レッシングの著書『ラオコオン』(一七六六)をめぐる論争を視点として、重要な三人の論者、朱光潜(一八九七~一九八六)・宗白華(一八九七~一九八六)、銭鍾書(一九一〇~九八)を中心に考察を進める。
 一九二〇年代から六〇年代、中国の学者たちは直接西洋に留学し、西洋思想を比較的自由に参照しつつ自国の文化的伝統の見直しを深め、豊富な美学思想を創出した。しかし、この時期は、現在の主流的な見方ではたんに「中国近代美学の確立の準備期」とされ、その重要性が看過されてきた。それに対し、本論では、この時期に今日の中国美学の性格を決定づけた思想的模索が存在し、そこには現在忘れられた中国美学の可能性が潜んでいたことを解き明かす。
 当時の中国美学の展開において、『ラオコオン』は独特な役割を果たしている。それは何よりもまず、この著作の枢要な論題である「詩と絵画の類似性と相違性」(パラゴーネ)が、中国の芸術的伝統に通底する問題だからである。伝統的な芸術論との対話可能性ゆえに、この著作は中国の伝統を考え直す格好の手がかりとなった。また、中国二〇世紀の各時期に、思想界の激変とともに西洋の諸思想への評価も大きく変化していったが、『ラオコオン』は継続的に論じられてきた点で特殊である。さらに、西洋の『ラオコオン』論争において重要であったJ・J・ヴィンケルマンや、E・バーク、J・W・v・ゲーテ、I・バビットも、中国で積極的に参照された。つまり、『ラオコオン』に注目することで、一論者や一著作の単線的な受容にとどまらず、論題そのものに対する複線的な受容ないし比較検討を扱うこと、さらにそれによって、事実として単線的でない中国近代美学の生成過程を見直すことが可能となる。
 本論の第一部は「二〇世紀中国美学の基本的枠組み──朱光潜と宗白華」、第二部は「二〇世紀中国美学の刷新──銭鍾書の文学論」である。
 第一部第一章では朱光潜の『ラオコオン』論の歴史的変遷を考察する。朱は常に中国美学の展開の中心に立っていたため、彼の各段階の思想を貫く『ラオコオン』論を検討することで、二〇世紀中国美学のアイデンティティーの展開を描き出す。朱は初期(二〇年代)には心理学・教育学に傾倒して、美学を社会や人生の問題の解決のツールとした。中期(三〇、四〇年代)にはより踏み込んで純粋な学術的考察を充実させ、中国における『ラオコオン』論を本格的に創始するとともに、中国の詩画同質論を近代的な形で定式化した。そして後期の六〇年代には、マルクス主義の枠組みを踏まえ、レッシング思想を啓蒙主義思想に還元して西洋美学史の文脈において捉え直した。彼が六〇年代に仕上げた『ラオコオン』の中国語訳についても、彼が参照したドイツ語原典・英訳の諸版本と比較検討することで、当時の問題意識や翻訳レベルを確認した。
 第二章では、宗白華の思想の成熟期に著された『ラオコオン』論(一九五七)、その議論と関連する彼の三〇年代から六〇年代の中国芸術論全般を扱う。宗の中国芸術論の展開における最も目立った課題は、儒家・道家に代表される古典哲学や、古代芸術論の近代的応用である。彼は初期では西洋の文化的形態学などを理論的基礎とし、「美学」は宇宙観を反映するものであると論じ、古典哲学を参照して前近代の芸術論や芸術現象を説明した。だが、五〇・六〇年代になると、美学全体における古典哲学の役割を再考し、道家・儒家思想を直接に芸術現象に応用するのではなく、芸術現象については古代からの芸術論を参照し、芸術現象の背後の宇宙観として儒家と道家が相互補完するという体系を構築した。宗は、詩と絵画を含めあらゆる芸術ジャンルに通用する理論を探っており、そうした発想が彼の中国の詩画同質論を裏付けている。
 以上の二章を通じて、朱・宗の、中国近代美学の支柱ともいえる立ち位置を確認できる。第三章では、彼らがともに西洋に対する中国芸術論の独自性を主張する際に用いた、「気韻生動」の概念を主題化して検討する。「気韻生動」は、二〇世紀中国で最も多く論じられた芸術概念の一つであり、それゆえこの概念の近代化は、中国美学の近代化の縮図として捉えることができる。二〇年代初期、陳師曽は近代中国の「気韻生動」論の基本的方向を定めたが、のちの滕固は美術史的文脈に立ち戻り、この概念の内実の振幅を明らかにした。三〇年代以降、鄧以蟄は「気韻生動」をある種のイデア的存在として、創作論と鑑賞論の二つの視点から再解釈した。このような動きによって、「気韻生動」は中国近代美学が生み出した強力な図式となり、またそれは中国の詩画比較論の、『ラオコオン』との相違を明るみに出す。即ち、『ラオコオン』は実際、詩と絵画の共通性を前提としつつ、各ジャンルの媒体性について検討しているが、「気韻生動」に代表される中国の芸術観は、各ジャンルの相違を主題とせず、あらゆる芸術を統括する外部の理想的なレベルを扱っているのである。
 「気韻生動」論を含め、朱・宗は、図式的な側面もあったが、中国近代美学の土台を整備した。それを踏まえて、次の世代の銭鍾書は中国美学の可能性をより精緻に探索していく。
 銭の論述は古今東西の思想を広く援用し、論述過程を明瞭に示していないゆえ、従来難解とされてきた。第二部第四章では、まず銭の二つの『ラオコオン』論(一九三九、六二)に関して、彼の論述の構造や基本論点について整理する。この二つの論考は『ラオコオン』受容を契機に詩画比較論のみならず、学問的スタンスなど広い主題を扱っており、銭の思想全体を捉えるためのよい手がかりでもある。彼は朱・宗と異なり、東西を問わず、芸術作品が芸術である点で普遍性のあるものだという立場を明確化した。他方、『ラオコオン』へ応答する際に、銭は、ただ東西の枠組みの相違に着目するのではなく、むしろ一旦レッシングの枠組みを受け入れて自らの中国の詩画比較論を展開している。
 銭の詩画比較論の要点は、空間内の物体に対して、中国の詩は絵画以上の表現力を持っていると主張することにある。第五章は、李白の詩「洞庭湖西に秋月輝き、瀟湘江北に早鴻飛ぶ」、そして第六章は蘇軾の「一朶の妖紅、翠にして流れんと欲す」に基づき構築された文学論を主題とする。前者の例は複数の物体の相互関係、対して後者は一つの物体自体にまつわる表現を論じるものである。
 第五章では、銭は、詩が空間内に遠く離れた二つの場面を同時に、さらにそれらを切り離さず、諸物体の関係に喚起される感情によって内容面で相互に呼応させつつ描写することを論じている。続いて第六章では、彼は「虚色」という、詩における実在していない色の表現可能性を検討する。そのため、彼は一方で、蘇軾詩の注釈から出発し、汪中の「虚数」論を踏まえて『孟子』や『詩経』を新たに解釈し、他方でバークやJ・-J・ルソー、K・O・エルトマン等の思想を駆使し、発展させている。銭における諸思想の交渉の仕方は、個々の論点もしくは言葉の単位で行われる。これにより、従来中国と西洋という二つの歴史的文脈の相違に束縛され相互比較が不可能だとみなされてきた芸術論を脱構築する契機が現れる。これは中国近代美学の展開が新たな段階に入ったことを如実に語っている。
 ところで、銭の『ラオコオン』への批判的応答は文学論に結実しているが、中国では『ラオコオン』を文学論に特別な関心を払って受容する姿勢が早くも二〇年代の呉宓に見られる。中国での『ラオコオン』受容の輪郭をより全体的に提示するために、第七章では、まず『ラオコオン』に言及した最も早い例、単士厘の論(一九一〇)を検討する。それはヴィンケルマンやゲーテの論も提示しており、中国の論者が西洋思想の踏み込んだ理解に至る以前に、『ラオコオン』論争を文化的問題として受容した姿勢を示している。また、呉宓の『ラオコオン』論(一九二九)は、彼の師であるバビット『新ラオコオン』(一九一〇)と比較すると、バビットが行った肝心な批判が『ラオコオン』の文学論に向けられているのに対し、呉宓はまさに文学論の部分をその最大の貢献とする。そこから、中国の『ラオコオン』受容の一つの重点、文学論への関心が定まり、それものちの朱・宗・銭の議論に通底して継承されていった。西洋の『ラオコオン』論争における多種多様な方向性と対照的に、中国の受容においては文学論が目立っていた。『ラオコオン』論の広い射程と合わせて考慮すれば、文学論は中国近代美学を形成する柱とも言えよう。
 以上のように、朱・宗・銭の論述によって見られる中国近代美学の生成過程を解明し、新たな思想的布置を素描する。従来では、朱・宗は中国二〇世紀の二大美学者とされているのに対して、銭は最大の文学者と考えられ、思想家であるか否か議論されてきた。それに対し、本論は銭の美学思想をむしろ朱・宗のそれを刷新したものと再評価する。また、これら三人の論者には古今東西の思想の複雑な交渉、そして哲学、文学、心理学、教育学、美術史学といった諸分野からの要素の借用が見られる。これが示すように、中国近代美学は、前近代以来の伝統的な美学それ自体でもなければ、西洋思想に立脚した現代美学でもなく、むしろ近代中国が古代中国に対して向けた新たな読解と再編として捉えられるべきである。これは、一九八〇年代以降主張されてきた、西洋から区分される中国独自の美学とされる「審美学」の定義と根本的に異なり、中国の近現代美学への新たな認識を投げかけるものである。