「朝顔」(「三田文学」明44・6)の発表より昭和三十八年の死に至るまで、五十有余年にわたる久保田万太郎(1889~1963)の文学活動の総体を明らかにしようとする試みはいまだ少ない。〝浅草〟の作家、〝下町文学〟の作家というあまりに明白な規定が、その創作の多様さを覆い隠したのだろうか。専ら小説を中心として記述されてきた日本近代文学史において、小説、戯曲、俳句を往還する彼の創作における相互作用、さらには新劇、新派の脚色や演出に携わってきた舞台人としての側面が問いにかけられることは稀であった。それゆえにまた〝浅草〟という舞台がなぜ万太郎文学に不可欠であったか、表現に内在する必然性から考察する発想も欠けがちで、その地に向けられた彼のまなざしの質が精緻に分析されることもなかったのである。

 本研究は、縦軸に久保田万太郎の作家論、横軸にジャンル論を布置することで織りなされる。諸ジャンルを往還する彼の創作を辿ることで、時代時代のジャンル間の関係性を解き明かすこと、同時に個としての彼の創作と、先行するジャンルの枠組みとの間のせめぎあいを記述することを目的とする。それはまた単線的に自己の生を捉えることを拒んだ万太郎の姿勢に応じつつ、彼の全体像に迫るために選び取られた方法でもある。

 論文の構成は下記の通りである。

 まず第一章「久保田暮雨「春寒」――デビュー以前の万太郎と写生文」では、デビュー以前の万太郎の習作ともいうべき写生文「春寒」(「俳諧草紙」明42・5)と、明治四十年代の写生文の表現意識との差異について検討した。そしてそこに万太郎が先行する文学表現に対して抱いていた不満の正体を明らかにした。それは季節のめぐりと結びついた私的な生活感情を言葉にする方法意識の欠如であり、またその間のギャップこそが、反復性と不可逆性という対立する時間意識の調和と背理を軸とする表現に、以後の万太郎文学を規定することになったことを論じた。

 第二章「「朝顔」――万太郎と耽美派」では、万太郎の処女作「朝顔」とその反響を整理し、明治末の耽美派の特性、万太郎との関係を検討した。作中の朝顔の記述の変化には時間の推移が示されている。それが主人公の過去に寄せる憧憬の念を否定し、ひいては憧憬という行為それ自体の不可能性を主題化していることのうちに、永井荷風「すみだ川」(「新小説」明42・12)や当時流行した追懐小説との差異を確認した。また同時に、朝顔と主人公とを重ね合わせる表現に、俳人としての過去からの連続性を指摘した。

 第三章「連作「お米と十吉」と「暮れがた」――出発期の小説と戯曲」では、自らの小説と戯曲との間の差異にくり返し言及した万太郎のジャンル認識を探るために、出発期の作品に注目した。万太郎の小説と戯曲は相似たものとして従来理解されてきたが、作品を丹念に読み解くならば、たしかに出発期の小説も戯曲もともに、作品に内在的な終わりを形成することのできない困難を抱えていたことが確認される。しかしその理由は質的に異なるもので、とりわけ終わりが形成されない小説の背後には、メタフィクショナルな表現への万太郎の志向が潜んでいたことを明らかにした。このメタフィクショナルな表現への志向は、終章に直接接続する観点の一つである。

 ジャンル論を前面に押し出した第三章とは対照的に、第四章「「末枯」――万太郎とノスタルジー」では、万太郎の代表作の一つである「末枯」(「新小説」大6・8)を注釈的に検討することで、ノスタルジーという万太郎文学の基調に迫ることを企図した。「末枯」とモデルとの比較は、人物造型、舞台設定における万太郎の作為を明らかにする。そしてそれは、江戸から続く文化的共同体が姿を消した明治三十年代を描きつつも、明治末から大正期にかけて、その失われた共同性を再興しようとした試みの挫折をも描くための操作であったことが物語内容との繋がりから理解される。その成功のうちに、今まさに失われつつあるものとして、時代を問わず常に背後に意識されるものとしての〝江戸〟の形象を論じたのが第四章である。

 ここまでの四章は万太郎の創作を順に追いかけ、その展開を意味づけるなかで諸ジャンルの関係性に言及したものである。対して続く四章では、ジャンルの問題により強い関心が向けられている。これらはテーマに即して二つで一つの組になっており、この意味で作家万太郎の通時的な検討という色彩は薄らいでいる。

 第五章「『道芝』――私小説・心境小説のジャンルの関係①」では、万太郎の第一句集『道芝』(俳書堂、昭2・5)をとりあげ、〈余技〉と彼が称してきた俳句を中心に、万太郎のジャンル認識と創作の営みとを、同時代の文壇情勢をコンテクストとすることで検討した。そこに明らかにされるのは、『道芝』という句集が、私小説・心境小説論争に応じるかたちでのジャンル再編成、ひいては俳句の位置づけの変化に応じた句集であった事実である。そのことを万太郎の俳歴や『道芝』の作られ方の注釈からも確認しつつ、〈余技〉として俳句を提示することで自己の小説・戯曲との差異を際立たせようとした万太郎の戦略を明らかにした。これは第三章での議論を補強する指摘でもある。

 第六章「芥川龍之介「蜃気楼」――私小説・心境小説とジャンルの関係②」では、万太郎の諸作からは見えてこない〝詩〟の意味を問うことを狙いとし、あえて万太郎の作品ではなく、芥川龍之介の小説「蜃気楼」(「婦人公論」昭2・3)を対象にすることで議論を展開した。〝詩〟という語が私小説・心境小説のモードと直接結びついていた当時において、〝小説家小説〟としての「蜃気楼」はその読みのモードに寄り添いつつ、それをゆるがすものであったことが、その物語内容と語りとのアンバランスさの考察から明らかにされる。「蜃気楼」における芥川は、〝詩〟との差異を隠微にアピールすることで小説の固有性を析出し、新たな文学表現の可能性を探究していたと理解すべきなのである。

 ここでの「蜃気楼」と『道芝』とはコインの裏表の関係にある。その意味で第六章での議論は第五章の検討を深め、裏打ちするものである。同時に「蜃気楼」に見出される芥川の戦略は戦後の万太郎に通ずるものであり、終章を予示するものでもある。

 第五章と第六章では特定の時代におけるジャンルの位置づけを探究したが、第七章と第八章では舞台人としての万太郎にフォーカスしており、そのため対象とする時期は異なるものである。この二章は、その人間関係における親密さ、脚色や演出での実際的な関与は周知のことでありながらも、具体的な像の記述に乏しい舞台人としての万太郎について、明らかにすることを目指したものである。

 第七章「「釣堀にて」――万太郎と新劇」では、副題の通り、万太郎と新劇との関係を考察した。小山内薫の急逝、続く築地小劇場の分裂により、昭和初期の新劇界は〝前衛派〟と〝芸術派〟に二分されることになった。ただし〝芸術派〟については従来あまり顧みられてこなかったのであり、その特徴は漠たる理解の域を未だ越えていない。そこで本章では〝芸術派〟の代表的存在である築地座と、久保田万太郎との関わりを検討することで、〝芸術派〟の内実と舞台人としての万太郎の姿を共に浮き彫りにすることを試みた。具体的には第二十七回公演で上演された戯曲「釣堀にて」(「改造」昭10・1)に着目し、役者や戯曲といった演劇を構成する諸要素の相互的な働きをクローズアップすることで、演劇の新たな可能性を探究した点に〝芸術派〟の共同性が理解されることを明らかにした。

 第八章「泉鏡花「註文帳」と万太郎脚色――万太郎と新派」では、泉鏡花「註文帳」(「新小説」明34・4)ならびに万太郎による脚色「註文帳」(「心」昭30・7、8)を通じて、戦後における万太郎と新派との関係を考察した。小説「註文帳」は、剃刀の祟りをめぐる怪異譚とも、主体的な行動としてお若の凶行が位置づけられる物語とも割り切れない小説である。脚色ではそのプロットの円滑化、合理化が目指されたことが、比較を通じて明らかにされる。しかしそうした合理化がかえって物語内容の折合いのつかなさを強調し、謎めいた印象のもとで結末部に〈遊女のまぼろし〉が佇立することになる。そこに戦後の新派が探究していた〈女形でなければならないもの〉の正体の一つが、女形と女優との異質性をバネとする表現であったことを、怪異に対する万太郎の姿勢を踏まえつつ論証し、積極的にその展開に参与した万太郎の姿を確認した。

 そして終章「「三の酉」と『流寓抄』――戦後の万太郎の自己表象」では、ここまでの諸章で論じたモティーフのいくつかが合流し、戦後の彼の姿が検討されることになる。戦後の創作の特徴は〝自分〟を語る小説や戯曲への傾倒として理解できるものである。しかし秘められた本音を語るジャンルとしての俳句という見取図が存在したために、それは従来見落とされてきた。ただし作者自身を思わせる〈ぼく〉を語り手とし、久保田万太郎の名のもとで発表された「三の酉」(「中央公論」昭31・1)は、こうした理解に異議を唱えている。「三の酉」や戦後の諸作の検討を通じて明らかになるのは、戦後の万太郎が、現在の〝自分〟からみた過去の〝自分〟の他者性、他者の眼に映る〝自分〟と自ら認める〝自分〟との差異といった自意識をめぐるナイーブなテーマに直面していたこと、そして韻文と散文とを輻輳させるかたちで不連続なものとしての生を、それでいて総体として語る術を確立したことである。同時にそこに句集の位置づけの変容を指摘した。

 そして最後に、諸作の検討を通じて開示された多岐にわたる万太郎の魅力的な営みが、彼の死を通じて覆い隠され、現行の万太郎理解が確立することになった事情を解明した。