第一部「贈答歌の実態と虚構」では、『源氏物語』と同時代の代表的な歌集として『古今集』と『後撰集』を取り上げ、贈答歌の対応の質を評価する際の基準を明示するとともに、各歌集における贈答歌の採録基準の差異と作為性について論じた。また、『紫式部集』の贈答歌について配列・構成の観点から論じた章も含めた。

 第一章「『古今集』『後撰集』の贈答歌の方法―贈答歌採録基準の差異を中心に―」では、贈歌・返歌における直接の共有表現だけでなく、返歌が贈歌と同じ表現に基づきつつ反発する内容をどのように導き出しているか、という新たな視点から『古今集』と『後撰集』の贈答歌を分析することで、それぞれの歌集が採録している贈答歌の性格とその差異を明らかにした。『古今集』には、贈歌の表現自体が持つ連想・多義性を利用して意味や用法などを転換することで反発の契機を導き出すという、高度な形式の贈答歌が多いこと、『後撰集』には、『古今集』と同じ傾向の贈答歌に加えて、贈歌の表現の大部分を贈歌と同じ意味でそのまま繰り返して用いるという、初期万葉以来の原初的な形式の贈答歌が多いことなどを示した。

 第二章「『後撰集』の贈答歌の虚構性について―私家集・歌物語との比較を手掛かりに―」では、勅撰和歌集の中で圧倒的多数の贈答歌を採録しており、貴族社会における日常の贈答歌の実態を考える上で必須の資料とされてきた『後撰集』の贈答歌について、それが必ずしも実態をありのまま伝えているとは限らないことを立証した。『後撰集』と私家集・歌物語に共通して収められている贈答歌の中で、私家集等では贈答関係にない二首が『後撰集』で贈答歌になっている場合、私家集等では三首以上連続する贈答歌が『後撰集』で二首のみの贈答歌になっている場合、『後撰集』と私家集等で二首の対応に関わる歌本文の異同が見られる場合について調査した結果、『後撰集』が手を加えることで成り立っている虚構の贈答歌も含まれている可能性があることが明らかになった。

 第三章「『紫式部集』後半部の恋の贈答歌群について」では、紫式部個人の人生に結びつけて家集を解釈してきた従来の研究史と異なり、『紫式部集』をあくまで私家集の一つとして捉える立場に立ち、家集後半部の二つの恋歌群の表現や配列を考察することで『紫式部集』の構成上の特徴を明らかにした。家集後半の第一の恋歌群(実践女子大学本90~96番歌)については、前後の歌群と表現面で連続性を持ちつつ並べられていること、歌群内の歌にも「折」「月」「心」「秋・飽き」「露」「枯る」「消ゆ」などの共通する言葉が連鎖していく構成になっていること、自分をはかない存在に喩えて表現するなど類似の詠歌手法が用いられていること、『源氏物語』の作中和歌との類似歌が多いこと、ほとんどが「夜離れ」という一貫した主題を持っていることなどを論じた。そして第二の恋歌群(実践女子大学本108~113番歌)についても、前後の歌群との連続性、歌群内での表現・詠歌手法・主題の共通性など、歌群として同じ特徴が見出せることを論じ、『紫式部集』には表現の連続性や主題の連想により類聚的に配列される歌群が他にも見出せることを指摘した。

 第二部「『源氏物語』の贈答歌の方法」では、主に『源氏物語』の贈答歌が、物語中の人物関係を効果的に描写する方法としてどのように利用されているかについて、第一部第一章で提示した贈答歌分析の手法を取り入れながら論じた。

 第四章「『源氏物語』の贈答歌における返歌の方法について」では、最初に『源氏物語』が人物や状況に応じて返歌の詠み方を意識的に描き分けていることを、返歌に対する評価及び返歌をする際の作為的意識が返歌の巧拙と対応する例を通じて確認した。その上で、技巧的な返歌がとりわけ連続する箇所として若紫巻の光源氏と尼君との贈答歌を挙げ、それが求婚の真の意図を理解できない尼君が礼儀を保ちつつ光源氏の申し出をやり過ごすための苦心の策であると同時に、紫の上引き取りを先延ばしにする展開を支える意義を担っていることを論じた。

 第五章「源典侍と光源氏の贈答歌」では、紅葉賀巻・葵巻における光源氏と源典侍の贈答歌について、性的表現を詠み込んで男に顧みられないことを大袈裟な表現で嘆いてみせる源典侍の贈歌と、女の多情を揶揄して懸想を拒否する光源氏の返歌という、類似の掛け合いの繰り返しによって成り立っていることを指摘した。また、このような贈答歌は、愛情への不安や恨みを詠む女に対し男が愛情の不変を語って慰めるという男女の贈答歌の定型に比して異例であり、好色な老女による一方的な懸想とそれを疎ましく思う光源氏という両者固有の男女関係が贈答歌によって具体的に描き出されていることを論じた。

 第六章「六条御息所「袖ぬるる」と光源氏「浅みにや」の贈答歌」では、六条御息所と光源氏の一組の贈答歌を取り上げ、同時代の男女の贈答歌や『源氏物語』内の贈答歌の一般的な描き方に照らして異質であること、それを通して御息所の生霊化の背景となる「もの思ひ」の内実や光源氏との関係性が集約的に描かれており、作中和歌が散文叙述と補完し合いながら物語固有の人物関係を描く手段として機能していることを論じた。御息所の贈歌については、前後の散文と全く関わらない表現だけで一首が構成されている点、物語の展開から関連性の明らかでない「田子」に直接自分を喩えている点で特異であり、そこに光源氏との恋から逃れようとしても逃れられない御息所固有の心情が表れていることを論じた。光源氏の返歌については、本来挨拶的な場において女が詠む歌としてこそ相応しい型に則って詠まれており、御息所の立場に相応しくない儀礼的な対応しか為し得ない態度が表れていることを論じた。

 第七章「賢木巻の光源氏と六条御息所の贈答歌」も同様の視点から、賢木巻冒頭の光源氏が野宮を訪問し二度の贈答歌を交わして去るまでの場面を取り上げ、特徴的な贈答歌の表現や形式にこの時点での光源氏・六条御息所の心情と関係性がどのように反映されているかについて論じた。第一の榊を介した贈答歌については、野宮に相応しい恋とは無縁な景物だけを用いた挨拶的内容を装いつつ恋歌的な掛け合いが読み取れる形式になっていること、第二の後朝の別れの贈答歌については、通常の別れと目前の別れを対比させるという同じ構図で悲しみを詠み合う形式となっていることを指摘し、二人が長期間の隔たりを経て再び心を通わせる場面、また光源氏が禁忌の恋を再燃させていくきっかけとなる場面に相応しい工夫がなされていることを論じた。

 第八章「『伊勢物語』六九段論」では、禁忌を犯す女の内面について、主に和歌・短連歌の表現に注目して検討し直すことで、男に対する思慕や未練と同時に、斎宮という立場ゆえの自制やそれ以上の関係を求められない複雑な感情も読み取れることを指摘し、葛藤する女性人物の心情を和歌によって描き出す方法が、とりわけ六九段に特徴的に見られる達成であることを論じた。

 第三部「『源氏物語』の和歌の諸相」では、唱和歌、独詠的な贈答歌、詠歌場面の類型性など、特定の二者間の贈答歌とは異なる視点から『源氏物語』の和歌について論じた。

 第九章「賢木巻の兵部卿宮」では、賢木巻の兵部卿宮と光源氏の一見親和的な関係性の中に、後に表面化する不和につながる緊張が既に潜伏していることを論じた。従来、両者の緊張関係が読み取られてきたのは澪標巻以降であったが、賢木巻でも兵部卿宮が同母兄として藤壺に接近する様子が度々描かれることで、桐壺院死後の不遇の嘆きを共有する親密さと同時に光源氏の恋と政治的伸長を妨げる存在であることが暗示されていると読み取った。特に、桐壺院死後の四十九日に王命婦を含め三人で唱和歌を交わす場面は、表面的には桐壺院の死を悲しみ合う親しさが読み取れる一方で、兵部卿宮が藤壺の代理として登場し光源氏との間を隔てている点、二人の和歌が異なる風景を詠んでいる点において両者の不和も仄めかされていることを論じた。

 第十章「若菜上巻の紫の上」では、婚儀三日目と女三の宮との対面前の、紫の上が書きつけた一首に光源氏が後から返歌する形式の贈答歌が描かれる二つの場面に焦点を当て、女三の宮降嫁以後の紫の上の内面や光源氏との関係性の変遷を明らかにした。まず贈答歌の形態の点では、男女対座の場での書くことによる間接的な贈答歌からより孤立した手習歌へという変化が見られ、両者の隔たりの広がりが反映されていることを論じた。また紫の上の和歌の表現に関しては、一首目は不安定な光源氏との仲をあてにしていた自己への後悔、二首目はそれに加えて愛情の衰えへの予感を語っており、地の文で語られる紫の上の内面に対応しつつ、紫の上の苦悩の深まりを表していることを論じた。

 第十一章「『源氏物語』の後朝の贈答歌」では、『源氏物語』内で繰り返し贈答歌が詠まれる場面の類型の例として、男女が一夜を共に過ごした翌朝に直接詠み交わす贈答歌(「後朝の別れの歌」)を取り上げ、その機能や表現的特徴を考察した。『源氏物語』には、平安前期物語に比べ格段に多数の「後朝の別れの歌」が描かれているが、別れを嘆き愛情を確認し合うような定型的な詠み方とは異なっており、それぞれの男女関係に固有の内容を詠み込むことで各関係を差異化する方法がうかがえること、対照的な「後朝の別れの歌」を連続して描くことで一方を際立たせる場合があることなどを論じた。