第一次世界大戦終結後、世界では国際協調や平和的思潮の機運が高まった。アメリカ大統領ウィルソンがパリ講和会議のために準備した十四か条の平和原則により、これまで帝国主義時代においては当然視されていた、列強の強権や秘密条約による植民地支配に対する批判的な考え方が生じた。当時において、日本による武断統治下にあった朝鮮でもその影響が及び、三・一運動が起こっていた。こうした世界的潮流は、軍隊、とりわけ海軍にも大きな影響を与えた。特に一九二二年に締結されたワシントン海軍軍縮条約は、海軍の軍備拡張が抑制された点でその代表的なものであるといえよう。このような、ワシントン海軍軍縮条約の締結から、一九三六年のロンドン海軍軍縮条約の失効までの時期は、戦間期において「海軍休日」とも呼ばれた期間であった。

 また研究史の理解によれば、一九三〇年のロンドン海軍軍縮会議を契機として、海軍においては「艦隊派」と「条約派」の対立が顕在化するようになったとされる。さらに、一九三一年の満洲事変勃発後、翌年になされた満洲国承認などの問題をめぐり、日本はかつて自らが属していた英米を中心とするワシントン体制諸国から距離をとり始め、一九三三年には国際連盟を脱退するに至った。こうした国内外情勢の急速な変化に伴い、海軍内部の主導権も「艦隊派」が握るようになってゆく。

 以上でみてきたように、一九二〇年代から三〇年代にかけて、日本国内外の安全保障環境は大きく変容を迫られていった。このような状況下、とりわけ一九二〇年代の国際協調や軍縮の機運が高まる中、海軍自らの組織的利益を固守するため、国民に対して自らの存在価値をアピールすることが、海軍の喫緊の課題として浮上することになった。同様の課題は、一九三〇年代におけるワシントン・ロンドン海軍軍縮体制からの離脱過程においても喫緊のものとなった。すなわち、海軍にとって、自らの主張を国民に如何に広く訴えかけるかという課題は、「海軍休日」の時代から軍縮体制脱却の道をたどる過程において、自己の組織的・政治的利益を如何に確保するかという論点にも直結する、極めて重要な課題だったといえる。国民に対する宣伝は海軍だけではなく、陸軍にも共通する課題ではあったが、陸軍の場合は徴兵制という国民皆兵制を制度の根幹に持ち、また全国各地に連隊司令部を置き、部隊を展開することもできたので、地域社会に強い影響を及ぼせた。しかし海軍の場合は、一部の軍港都市を除いて、基本的には国民や民衆との接点が希薄だったという相違点や特徴を持つことは注目されよう。

 上記のような状況に直面した海軍は、海軍協会といった団体、あるいは海軍記念日の講話などのイベントを積極的に活用して、国民に対して自身の主張を宣伝してきた。海軍が、このような団体の活動やイベントの機会などを宣伝に活用してきたことはよく知られている。一方で、海軍という組織の根本的な資源ともいえる、艦船そのものを、海軍は宣伝活動に活用してこなかったのだろうか、との根本的な疑問が湧いてくる。この点に本論文は着眼した。

 一般民衆にとって、海軍という組織の最も印象的・象徴的に構造物は軍艦であろう。実際、本論で詳述したように、海軍も自身のアピールポイントを十分に理解した上で、軍艦を宣伝活動に積極的に投入していた。平時における艦隊の基本的な行動は、主に訓練と演習の2つ行動に収斂される。そのような艦隊の平時行動は、もちろん、軍港から出航して実施するものであった。戦間期において、出航中の艦隊は、各地で訓練や演習などの平時行動を繰り返しながら、日本国内だけでなく、中国大陸や朝鮮半島など周辺地域の港にも寄港していた。このような国内外の寄港地においても海軍は様々な宣伝活動を行なったが、その宣伝の主役を担ったのは、ほかでもない艦隊そのものであった。普段は民衆との接点が希薄である海軍にとって、平時の艦隊行動中の寄港は、民衆と接触する機会が拡大し、自らの主張をアピールする貴重な機会だったといえよう。

 したがって、軍港に停泊する「静」的な海軍でなく、軍港から出航し平時行動を展開する艦隊、つまり「動」的な海軍に焦点を当てて、艦隊の寄港状況と寄港中の海軍の宣伝活動の実態を明らかにすることには意味があり、さらに、海軍と地域社会の相互関係を浮き彫りにすることも可能に なる。

 以上のような問題関心から本論文では、戦間期の海軍の艦隊行動に着目し、海軍公報などの海軍省公文書、艦隊寄港地の新聞及び海軍将校の私文書などの史料を利用し、艦隊行動の実態と、地域社会における宣伝活動を検討する。その検討を通じて、海軍と地域社会の関係についての新たな側面や特徴を明らかにすることが本研究の目的である。

 第一部第一章では、海軍の平時任務を整理した上で、巡航が訓練や演習など多種の任務を遂行するための手段だったと位置づけた。これを踏まえて、戦間期の連合艦隊第一艦隊第一戦隊と第二艦隊第三(第四)戦隊の毎年の行動軌跡を明らかにし、艦隊行動のパターンを浮き彫りにした。さらに史料がまとまって残されている事例の分析を通じ、連合艦隊司令長官が一年間のおおまかな艦隊行動計画を構想した後、海軍省軍務局が具体的な行動計画を立案し、連合艦隊側と協議して決定していく過程を新たに解明した。

 続いて第二章では、一九二三年と一九三〇年に行われた二回の南洋巡航を取り上げて、海軍の南洋諸島にめぐる思惑を明らかにした上で、この思惑が海軍の漸減邀撃作戦構想と年度作戦計画に与えた影響を考察した。この考察により、南洋巡航の経験が一九三〇年以後の艦隊行動に変化をもたらすものだったことを明らかにした。

 第二部では巡航行動の主な寄港先だった中国の東北沿海部、特に関東州に焦点をあてて、約二〇年にわたる代表的な巡航行動について詳細な分析を加えた。第三章では、一九二二年の「日本一周巡航」という事例について、同時期に行われたイギリスの「帝国巡航」と比較しつつ、日本本土、植民地朝鮮、関東州租借地、ロシア沿海州などの地域への寄港状況を考察した。この分析によって、海軍が積極的に艦隊を利用して宣伝活動を実施していたこと、また、それに対する各地域の民衆の反応が多様なものであったことなど、地域側の重層性を改めて明らかにできた。

 第四章は前章の分析を踏まえて、大正期にほぼ慣例となっていた関東州への巡航行動に注目し、その特徴を分析した上で、日本人居留民と現地中国人が生活する関東州において、巡航が、対内的宣伝活動と対外的「砲艦外交」という二重の意義を内包していたことを論じた。第五章では、昭和期の艦隊行動について論じた。昭和期になると、山東出兵、満洲事変、第一次上海事変など日中両国の武力衝突が発生するようになり、関東州以外の青島、香港などの地域では中国人の対日感情が悪化していたが、海軍は従来通り巡航行動を実施した。その結果、一部の中国人を刺激することになり、艦隊に対するマイナスイメージが強調される結果を招来した。

 以上のように、本論は戦間期における海軍の艦隊運用と寄港地の艦隊に対する反応を検討し、艦隊と地域社会の関係を新たな分析視角から考察を加えた。