20世紀に入る頃、上海はすでに東アジアの中心的な国際都市として成長しつつあった。上海共同租界工部局は複雑で膨大な行政を担当し、この成長を支えた。その中で共同租界における行政は他の開港場には見られない独特な運営形態を持つようになっていった。本論文は共同租界の行政が持つ歴史的特徴に注目し、それが形作られた要因について考察するものである。

 共同租界の自治行政は多国籍の人々により運営されており、一国の利害に左右されず、独自の利害を考慮した政策をとるようになった。租界当局がとったいくつかの措置は、本来は臨時に導入されたものであったり、明文の根拠が不十分であったりしたが、中国側が効果的に反論できないうちに積み重ねられていった。その結果、それらの措置は一定の正当性を獲得して、慣行のように維持された。本論文ではこのような行政運営の方式を「慣行的行政運営」と呼び、その構造と展開過程を明らかにする。

 特に本論文は越界築路と会審公廨という事象に注目する。越界築路とは、租界境界線の外において主に工部局によって進められた道路建設である。これにより設けられた越界路の近辺には外国人を含む多数の住民が居住しており、工部局から水道などの公共事業サービスを受けていた。その結果、租界行政の影響を受ける越界路を中心として越界路地区と呼ぶべき地区が形成された。越界築路は租界の基本法規である土地章程の規定に加え、中国からの反対がなかったという点に依拠して正当化された。そして一度成功した越界築路はそのまま次回の越界築路のための前例となり、前例が重なることによって正当性は高まっていった。

 会審公廨は租界の中で中国の司法権を代表する機構であった。ゆえに民事訴訟・刑事訴訟を問わず、中国人を被告とする訴訟をすべて担当していた。また会審公廨は無約国民が関わる訴訟も担当していた。無約国民とは、中国と領事裁判権に関する条約を結んでいない国の国民である。無約国民は領事裁判権の保護を受けられず、中国の法律が適用された。そのため租界の中で無約国民は会審公廨の管轄とされた。

 第一章では、越界路地区における特別税の問題について論じた。越界築路は、民間投資によるレジャー目的や太平天国軍に備えるための軍事的目的などによって、租界設置の初期から既に進められていた。その後、工部局は1869年に改定された土地章程の第6条に依拠して越界築路を行うようになった。そして1884年の清仏戦争をきっかけに、越界路の近隣地域において個人加盟制度という名目によって警官を派遣しパトロールを行う措置がとられた。これは臨時措置であったが、清仏戦争の終結後も解消されなかった。20世紀に入ると、租界の水道会社との契約更新を契機として、越界路の近隣地域への水道の供給が始まった。そして、その際に代価として特別税を支払うことが要請された。清朝の地方当局は租界外の特別税徴収を許容しない立場であったが、同時に租界インフラの有用性は認識していた。結果的に特別税制度は阻止されず、電話などその他のインフラ事業にまで拡大されていった。

 第二章では、佘山越界築路を中心として越界築路問題に対する清朝の基本的姿勢について考察し、それが民国期にいかに変化したかを検討した。これは、租界の西側の法華地域から上海県の南西方向にある青浦県の佘山に至る越界築路であった。清朝地方当局は法華地域における越界築路に対して大きな支障がなければ黙認する場合が多かったが、佘山越界築路に対しては強硬な態度を取った。清朝側の問題提起の中で注目すべきなのは、外国人が内地の土地を占有することは禁止されているという主張である。ここでいう内地とは上海県の外側を意味した。すなわち、上海県は外国人との貿易に対して開かれた開港場がある通商口であり、内地と区別される地域であったと考えられる。そもそも清朝の立場から見れば租界とは外国人と中国人を分離する華洋分居政策のため設定された地区であった。そうだとすると、太平天国の時期に中国人難民が租界に流入したことで、租界の境界に基づく華洋分居が事実上できなくなった後も、清朝は外国人の活動を上海県の境界の中にとどめるように制約してきたと考えられる。ところが20世紀に入ると、華洋分居を重視した対応よりも、中国側の自治行政が充実されて行く中で租界行政に対抗する動きが強まった。

 第三章では、越界路地区における工部局の賭博統制について考察した。越界路地区ではホテルなどを中心として会員制の秘密賭博場が営業していたが、その所有者は外国人であったため領事裁判権の保護を受けていた。しかも、所有者の国籍が曖昧な場合には領事裁判の管轄権がどこにあるのか明確でないという問題があった。賭博場の所有者たちはこの点を利用して責任を回避していた。その中で工部局は有効な取り締まりのための権限を獲得しようとし、一方で上海の各国総領事の協議体であった領事団は工部局に対し領事裁判権に関わる手続きを遵守すべきことを求めていた。しかし工部局と領事団は合意に至ることができず、賭博の取り締まりも難航していた。

 この問題を解決したのはフランス総領事の提案であった。フランス総領事は自身の管轄権の中で工部局警察が賭博取り締まりを代行できる権限を与えた。工部局は同様の措置について領事団が検討するように要請し、協力を引き出すことに成功した。このように、越界路地区における行政運営を円滑に進めるためには、領事団と工部局の協力が必要不可欠であった。

 第四章では、1869年の会審公廨章程の成立過程を確認した上で、辛亥革命時期に租界側が会審公廨の管轄権を掌握したことが租界行政に与えた影響について考察した。華洋雑居の開始により租界の中で中国人と外国人の間で紛争が起こるようになった。この問題を解決するため、中外混合法廷として会審公廨が設けられていた。しかし会審公廨における外国人側の権限は制約を受けており、それは租界側にとって不満の原因となっていた。

 辛亥革命に際して、租界側は領事団の主導のもとで会審公廨の管轄権を掌握した。これは当初は一時的な措置であったが、中華民国の成立後も解消されなかった。租界側は会審公廨が中国の法廷であるという点を否定せず、むしろ会審公廨が代表している中国の司法権を利用することを意図していた。ただし工部局は中国の政府が会審公廨に介入することは阻止しようとしていた。

 第五章では、主に第一次世界大戦時期における無約国民の管理問題を中心に、会審公廨の管轄権をめぐる対立について考察した。共同租界の外国人社会は基本的に相互協力の関係にあったが、戦争が長期化すると、租界の中でもドイツ人とオーストリア人を排斥する動きが顕著となった。中国は1917年3月にドイツと断交し、8月にはドイツおよびオーストリアに対し宣戦布告をした。すると、工部局は租界の中でドイツ人・オーストリア人の管轄権を持っているのは会審公廨であると主張した。ゾイベルト事件やクレムラ事件においては、工部局のこの論理が示された。また工部局は北京政府が会審公廨を通じて租界内の敵国民を直接管理しようとする試みにも同意せず、会審公廨を巡る慣行的手続きに反すると主張した。このように、会審公廨は中国の司法権を転用して工部局の行政運営に正当性を与えるために利用されていた。

 第六章では5・30事件の後、会審公廨の解消などを経て共同租界に新たな行政体系が現れる過程を考察した。工部局は5・30事件発生の責任を問われたため領事団の支持を失っていたが、中国政府側との会審公廨返還交渉において現状維持を求めるべきだという共通認識はあった。それゆえ、1927年から会審公廨に代わって設置された上海臨時法院では劇的な変化はなかった。しかし越界路地区においては特別税の納付拒否が広がっており、中国の地方当局も越界路地区に警官を派遣していた。その中で始まった越界路返還交渉は日本側の反対で結論が出なかったものの、結局工部局は越界路地区における影響力をほとんど失っていった。そして工部局は中国人の理事を受け入れるなどの方針の変更を余儀なくされていた。

 以上のように、本論文では、慣行的行政運営という観点から上海共同租界の歴史的特徴について論じた。まず慣行的行政運営は工部局と領事団の協力関係を前提としていた。その協力関係のもとでは越界築路は租界行政の影響力を拡大するために有効な手段であった。特別税や警察の派遣は租界の境界線をほとんど無意味なものにした。

 慣行的行政運営は租界の中でも行われていた。租界側は中国の法廷としての会審公廨の地位を温存し、中国政府の介入を遮断した。その結果、工部局は会審公廨が代表している中国の司法権を利用して自らがとった措置を正当化することが可能となった。

 こうして、租界の行政運営は、独自の根拠を持つというより、外部から正当性が与えられる必要があるという性格を持っていた。それは多国籍の民間人が自治行政を担当した上海共同租界の特徴であり、同時に限界でもあった。そのため領事団との協力や中国の司法権の転用が必要となっていたのである。

 また、慣行的行政運営は共同租界の行政体系が独自の利害を追求しようとする植民地主義的拡張政策を支えていた。工部局はある一国の利害関係を代表することはなかったが、自らの行政運営を進める中で自ずと植民地主義的政策を行っていたと言える。