本稿は、明治前期日本における官業払下げの過程を明らかにするものである。官業払下げの手続きに関する法令「工場払下概則」(以下「概則」)が存続した期間である明治十三年から十七年までを主たる対象時期とする。ただし、その間発生した重大事件である「開拓使官有物払下げ事件」の背景を明らかにするため、北海道の官営事業に関しては幕末の箱館産物会所までさかのぼり、その特質を検討している。

 この分野における現時点でもっとも体系だった研究書は、小林正彬『日本の工業化と官業払下げ―政府と企業―』(東洋経済新報社、一九七七年)である。官業払下げを受けた者の多くは後に財閥へと発展していることから、かつては官業払下げを、財閥育成の意図を持った政府のプログラムの一環とみなす説が有力であった。小林氏はこれを批判し、自力で能力を蓄え成長した企業が官業払下げの対象とされ、経営的に成功したのだと論じた。ただ同氏の研究は、官業払下げをもっぱら日本の工業化の一画期と捉え、その政治的意味を重視していない。また、個別の払下げ計画に対する反対者や、払下げ対象者として選ばれなかった人々に関する分析も手薄である。

 しかし、官営事業の相当部分は旧幕府・藩営事業を明治政府が接収したものであった。それらの事業はもちろん、明治政府が新設した事業であっても、所在地域の民業と深く関係していたものは多く、各地域の人々は他地域の者に対する払下げの阻止や自分たちへの払下げを求めて運動した。本稿はこれらの動向を含む政治との関連に注意を払いながら、官業払下げの過程を捉えなおすものである。

 小林氏は、官業払下げの過程を以下の三段階に区分していた。「第一段階」は、「概則」が制定された明治十三年十一月から鉱山払下げの方針が決まる明治十七年七月までで、国庫資金の回収を狙い「概則」が厳しい金銭的条件を設定していたために払下げが進行しなかった時期とされる。「第二段階」は明治十七年七月に始まり、民間諸企業に対して廉価で払下げを行った時期、「第三段階」は明治二十一年四月に始まり、三井・三菱に相応の価格で払下げた時期とされる。

本稿はこのうち、「第一段階」「第二段階」の性格付けおよび時期区分の見直しを図っている。すなわち、次に述べるように、「概則」制定後一定期間払下げが進行しないのは金銭的条件の厳しさのためというよりも煩雑な手続きの過程で異論が発生しやすかったためであり、また貸渡しの段階を挟み廉価で払下げる流れに移行したのは明治十六年三月頃とみなすべきである。

 本稿では、「概則」存続期間を以下のように区分した。

 

第一期:工場払下げ達・「概則」制定から明治十四年八月上旬まで

第二期:明治十四年八月中旬から明治十六年二月まで

第三期:明治十六年三月から「概則」廃止まで

 

 第一期は「概則」が付属する工場払下げ達が出され、各省・開拓使が様々な対応を試みた時期である。大隈重信の影響力の強さも特徴の一つである。明治十三年、財政難の打開策として、工場払下げ政策は大隈、岩倉具視、伊藤博文、井上馨ら政府首脳から期待を集めた。大隈は同政策の実施規則として、払下げの金銭的条件と公告を用いた払下げ対象者選定手続きを定めた「概則」を起草した。「概則」には明治九年以来整備されてきた作業費出納条例の概念が盛り込まれており、各省・開拓使財政に対する中央(大隈・太政官・会計検査院・大蔵省)の監督強化の文脈に位置づけられる。これは漸進的な立憲政体樹立の理念にも通じていた。明治十三年十一月に制定された工場払下げ達・「概則」の対象は、大隈が当初意図した内務省・工部省にとどまらず、大蔵省・開拓使にまで拡大された。また、新聞各紙が全文掲載したために、工場払下げ達・「概則」は周知の法令と化した。

 大蔵省がすべての所管事業の存続を許された一方で、内務省・工部省・開拓使は対応を迫られた。内務省とその事業を引き継いだ農商務省は、払下げ代価について緩い解釈をしつつ、おおむね「概則」に則って払下げ計画を立案した。これに対する太政官の判断は十四年政変期以降に持ち越される。山尾庸三率いる工部省は払下げに消極的な態度を示したが、太政官はあくまで払下げを督励した。

 黒田清隆を長官とする開拓使の事業は、幕末の箱館産物会所の系譜をひき、生産・輸送・販売を一体とするものであった。また開拓使は、事業を官員自身が営むことに高い価値を見出していた。そこで、開拓使事業の一体性を保ったまま官員が組織する会社に払下げることを計画する。「概則」への対応と言明しつつ、実際には「概則」の規定からかけ離れた計画であった。大隈は、払下げ自体は認めたものの、開拓使が国庫に返還する予定であった金額の縮小につながる諸要求に対してはあくまで抵抗を続けた。

 第二期は、太政官の決定に大隈の意向が反映されることがなくなったにもかかわらず、工場払下げ達・「概則」の効力が維持されていた時期である。この時期には官業処分がほとんど進展しない。

 「概則」は「開拓使官有物払下げ事件」に際し政府批判者の武器となり、重みを増すと同時に、政府の担当者にとっては扱いづらい規則となった。開拓使の諸事業、農商務省の富岡製糸所・新町紡績所・千住製絨所、そして工部省の中小坂鉄山は、この時期いずれも、一度計画された払下げ等の処分を保留して当面官営を維持する状態に至っている。富岡製糸所に関して太政官は廃止もやむを得ないとする従来の態度を改めており、整理対象事業に対して追加出資を行わないという第一期の姿勢からの変化が見られる。一方で新町・千住・中小坂に関しては、農商務省・工部省が大筋で「概則」の規定に沿って払下げ手続きを進めていたにもかかわらず、中央・県レベルの政治抗争や省庁間対立の影響を受けて頓挫していた。払下げ対象工場を所管する省は公告を行って払下げ希望者をすべて明らかにし、対象者や条件に関する省としての意見を添えて太政官に稟議し、太政官が最終決定を行うという「概則」の規定が、払下げに関する政治的調整を困難にしたそもそもの原因であった。

 旧侍補として、天皇が示したとされる「勤倹」理念の実現を目指していた佐佐木高行は、明治十四年政変後工部卿に就任すると、工部省の払下げに対する態度を積極的なものに転換させた。佐佐木以下工部省は次第に「概則」を問題視するようになり、明治十五年末には各工場の状況に応じて適宜に処分することをあらかじめ認めるよう太政官に要求する。しかしこの時点でも「概則」に価値を見出していた太政官はこれを認めなかった。その後、おそらくは中小坂鉄山の払下げ頓挫が最後の一押しとなり、工部省はそれまで進めていた「概則」に基づく工場払下げ手続きの停止に踏み切る。その宣言が、明治十六年二月に決裁され三月に新聞掲載された、「兵庫・深川・品川工作分局払下げ広告取り消し」の広告であった。

 第三期は佐佐木・工部省が「貸渡し方式」によって「概則」を実質的に無効化し、自己の裁量によって工場処分を一挙に進めた時期である。工部省は中小坂鉄山を皮切りとして鉱山の払下げ計画も進めた。

 「貸渡し方式」とは、工部省が選んだ対象者にまずは工場を貸与し、一、二年経過した後にその間の経営実績を根拠として払下げる方法であり、工部省は貸与が完了するまでその対象者名を太政官に報告しなかった。こうした方法が取られた結果、工場の入手を希望する側にとっては、工部省高官(特に中井弘)に連なる人脈が決定的に重要となった。この枠組みで工場の入手に成功したのが、浅野総一郎、西村勝三、そして三菱である。

 鉱山の払下げでは、佐佐木自身の人脈が大きな意味を持った。佐佐木および工部省は、この時期の鉱山関連行政において、井上馨の指導下にあった藤田組を特に優遇した。伊藤博文は、以上のような方針を取る工部省を支援した。藤田組への小坂銀山払下げおよび「概則」廃止は、このような佐佐木と長州系参議の協力関係の上に成立した。

 藤田組への払下げには小坂鉱山局長であった大島高任と小坂村民が抵抗し、その過程で「概則」が参照された。このことを直接の契機として佐佐木は「概則」改正を提起し、太政官参議の多数は「概則」廃止を選択した。「概則」は、すでに順守する努力が放棄されていたにもかかわらず、個別の払下げ計画を批判する論理として未だ命脈を保っていたために、この時期廃止されたと言える。

 以上の過程に登場した諸主体は、①地域経済(およびそれを基盤とする自身の家業)の維持・発展、②国家の存立・発展、③自身の事業拡大のいずれを特に強く志向するかによって大別できる。①志向が強かったのは、開拓使の払下げ計画に反発した函館区民、新町紡績所の払下げを希望した群馬県の生糸産業従事者、東北の各地域で鉱山払下げを希望した士族授産事業家・小坂村民・大島らであった。黒田ら開拓使は、②志向が強い者こそが北海道事業の担い手になるべきであると考えた。③志向に分類されるのは、三菱・浅野総一郎・西村勝三・大倉組・藤田組・岡田平蔵らの鉱業会社・古河市兵衛など、活動地域を限定せずにビジネス・チャンスをつかみ、自身の事業を拡張しようとする野心に富んだ商人たちである。

 ①②③いずれの志向が強いかにかかわらず、人々はそれぞれの目的を達成するために縁故を利用しようとする。縁故的払下げを抑制することを目指して制定された「概則」は民権派の主張とも合致していたが、制度として未熟であり、明治政府はこの制度を使いこなすことができず、いわば楽な方向へ流れる形で、縁故的払下げ・貸渡しを多用した。このような状況下で、佐佐木ら工部省高官や長州系の支援を受けた③志向者に払下げが集中した。