本論文は、アンリ・ベルクソン(1859-1941)の「自我」についての思考を解明する試みである。その第一の主著『意識の直接与件についての試論』(1889年公刊。以下、『直接与件』と略す)、ならびに第二主著『物質と記憶』(1896年公刊)という二つのテクストを考察の対象とし、そこで展開されている自我論の解釈をおこなった。

 本論文の考察は、三つの問い柱としてなされた。すなわち、(1)自我がどのようになりたち、(2)自我からどのように行為が発出し、(3)行為がどのように他者に影響を与えるのか、というものである。それらの問いを軸に、二つの著作において展開される自我についての議論を読解し、考察をおこなった。本論文の章の構成は、主たる考察対象となる著作が公刊された順に、第一章、第二章で『直接与件』を扱い、第三章、第四章、第五章で『物質と記憶』を扱い、最後の第六章で『笑い』(1900年公刊)と『直接与件』を扱うという順で進む。本論文は、ベルクソンの自我の思想においては、『直接与件』で打ちたてられた持続ないし自我が、『物質と記憶』でさらに深められていると捉え、(1)自我のなりたちについては、第一章で『直接与件』をメインに「持続」の概念を取りあげ、そして第四章で『物質と記憶』で展開される記憶論を扱い、そして第五章でそうした記憶論が人格の概念へとどう結びつくかを考察し、明らかにした。次いで、(2)自我から発出する行為をめぐっては、主に第二章で『直接与件』の自由行為論を論じ、第三章で『物質と記憶』における脳と行為のかかわりを扱った。(3)行為の他者への影響については、芸術論が含まれる『直接与件』と『笑い』を考察対象とし、最終章である第六章で論じた。以上の考察を通じて、『直接与件』、『物質と記憶』という二著作で確立されたベルクソンの自我論の全体像を示した。

 以下、各章の内容を要約して述べる。

 まず、第一章では、ベルクソンが『直接与件』で提示した、自我の根底で展開する「持続」という特異な時間概念の導出過程を検討した。『直接与件』の準備の過程で、力学における時間の不在に気づいたとベルクソンは証言している。その気づきが、等質的空間と異質的持続というベルクソン独自の思考へと展開されていることを本論文では確認した。空間は、人が数を数えたり言語を用いたりしながら思考を行うための「環境」であり、われわれは空間の概念を持つことによって、知的な操作を行うことができるようになる。他方、意識の内面には、人の意識を構成する要素が相互に浸透しあうことによって流れていく時間、すなわち持続がある。人の意識の変化の絶え間ない継起が、純粋持続という時間の流れを作っていくのである。持続によって人は外界の事物についても、運動や変化していくものを捉えることが可能になる。以上のように人の認識は空間のみならず、自我で展開される持続によっても成り立つものであるが、しかし、日常の社会生活においては、言語や数という明白な切り分けを要する空間的表象を用いることが有用であるため、空間を介した認識が優勢になり、人の内面にある持続は見過ごされるようになることも確認された。

 第二章では、自我からどのように行為が発出してくるのかを検討した。『直接与件』の第三章では、自由と決定論の相克を解消することが目指され、ベルクソン独自の自由の定義が開示される。それは、行為が自我の全体から発出している場合に、それは自由な行為となる、というものである。その自由行為の定義の内実を探るべく、私たちは、自我の様態を整理し、自我と行為との関係を明らかにした。加えて、ベルクソンの自由行為の特徴として、真に自由な行為の場合、なぜその行為をしたのかの理由が行為者自身にも捉えられないことがあるとされている。自由行為は、自我の根底も含めた自我全体から発出してきているために、明晰な分析が可能になる手前にあるために理由が捉えられないことがあり、そして、行為の理由の認識とはべつに、その行為が自分の行為だとする確信が伴うことを確認した。第二章後半では、決定論批判を取りあげ、ベルクソン自身の自由行為論が、どのように決定論的な枠組みからまぬがれているのかを検討した。彼は、行為が自由であるとき、その行為は自我の全経歴を表現している、と論じていたが、全経歴がかかわって一つの行為がでてくるのであれば、過去の自分が次の行為を決定するという決定論になるのではないかという疑念も生じる。それに対して、自我がたえず相互浸透を続けている以上、自我はつねに、かつてない新しい状態になりつづけており、それゆえに、行為もつねに、新しいものとなるため決定論にはならないことを結論した。

 第三章では、『物質と記憶』の読解に移り、人間の身体、とりわけ脳と、精神との関係をベルクソンがどのように捉えているのかを扱った。脳は、ベルクソンにとっては、外界の事物と同じくイマージュ(像)の一部であり、その役割は、外界から入ってきた刺激に対して、適切な運動を割り振るというものである。脳は、そこに心や思考や記憶が座す場所ではなく、たんに適切な反応を返すだけの選択の器官だとベルクソンは強調する。そうした主張は、当時の神経疾患等の臨床報告をベルクソン自らが検討することで導き出したものだった。本論文では、彼が医学的研究からどのように記憶の働きのメカニズムを構想したかを辿った。失語症や失認症には脳の損傷が関係はしているが、その損傷は記憶を毀損しているわけではなく、刺激に反応を返すという運動メカニズムの損傷が起こっているとベルクソンは見ていた。脳も身体も、自我が行為をする上で特権的なイマージュであり、外界の諸事物と連絡し、相互作用を行っていることを確認した。私たちが経験した過去はその全体がそのまま保存され、それが意識そのものとなっている。脳や身体は、そうした意識と外界とをつなぐ器官であり、ネットワークのなかに位置しているという点に、ベルクソンの脳の概念の独自性があることを指摘した。

 第四章では、『物質と記憶』の記憶論のうち、特に過去の記憶のすべてが保存されているという純粋記憶論の意義について検討した。『物質と記憶』の枢要なテーゼに、過去の経験がすべて場所と日付を有して保存されているとする主張がある。その記憶には、即座に現在に役に立たない記憶(純粋記憶)も膨大にふくまれている。本章では、睡眠時の夢と、現在において記憶イマージュ想起することという二つの記憶の再生について確認した。そして、役に立たない記憶までもが保存されているとすることには、記憶論上どのような意義があるのかを検討した。人間は目下の現実を生きることを離れて、過去を思いだしたり、空想したりすることが可能である。そしてそれは、概念を用いて思考することへと発展していく。そうした人間ならではの知的活動を可能にしているのが、ベルクソンの記憶理論における純粋記憶の意義であることを明らかにした。

 第五章では、人格の問題を扱った。人格の同一性を考える上で、伝統的な議論の一つに、記憶の連続性から人格の同一性を導き出す「記憶説」という考え方がある。ベルクソンにおいても、過去の経験が記憶としてすべて蓄積され、それが自我を構成していると考える点では、人格の同一性を記憶に見ていると言える。そのため、記憶説の祖とされるジョン・ロックの人格の同一性論とベルクソンの議論との比較を行った。ロックにおいては、記憶が自分のものであるという自己意識を伴っていることで、連続性が確認され人格が同一性を持つのに対して、ベルクソンにおいては、記憶それ自体が性格として機能し、現在に関わっていくことで、他ならぬ私の行為として捉えうる行為が出来していることを確認した。

 第六章では、固有の持続が進展する自我の内実が、他の自我にどのように伝わりうるかを、芸術論を手がかりに考察した。ベルクソンの美学への関心についての証言をまとめたのち、芸術における感情の伝達について検討した。芸術家は感情をそのまま伝えるのではなく、作品を通じて暗示や励ましを与え、それを受けとった者が自らのうちで作家の感情を体験することが起こることを確認した。また、第三節では『直接与件』と『笑い』において取りあげられていたモリエールの戯曲の主人公アルセストについて、二つの書物のあいだでの論じられ方の違いを比較しつつ、ベルクソンの笑いの理論について確認した。人の振る舞いに社会性が欠けて、しなやかさを欠くものなっている場合、社会は懲罰として笑いをその者に与えるとベルクソンは述べる。したがって、全人格が反映された自由行為を為した場合でも、そこに社会性が欠けていると、笑われることもある。笑いは、行為の善悪と関わらず生じる冷酷なものである。本研究は、自由行為がどのように他者に受け止められるかの一例を、アルセストを題材に示した。

 以上の考察を通じて、本研究は、ベルクソンの初期の二著作の読解から(1)自我がどのようになりたち、(2)その自我からどのように行為が発出し、(3)その行為がどのように他者に受け止められるかを示した。自我概念のもっとも核にあるのは、意識で生じている絶えざる相互浸透であり、それが紡ぎだす持続である。空間を介して理知的に世界を切り分け、言語や数によってそれを表象している場面であっても、その背景にたえず意識の持続があり、そしてそれが蓄積されていく記憶の総体がある。私たちの日常生活における認識、さらには人間固有の理性的な認識の根底で、自我において生じる持続がそれらのはたらきを支えているということを、本研究は明確に示した。