本研究は、歌舞伎において劇場の観客に供せられた同時解説〈イヤホンガイド〉に着目し、1960年の歌舞伎アメリカ公演における同時通訳の導入を前史とし、1975年の日本の歌舞伎座におけるイヤホンガイド誕生の背景を明らかにすることを目的とする。またイヤホンガイドという音声メディアが歌舞伎においてどのような役割を果たし、歌舞伎における日本語母語話者の観客に向けられた解説とは如何なるものであるのか、その解説内容を検証するものである。

 近年、舞台芸術はテクノロジーを用いた視覚や聴覚メディアの導入が増え、観客は観劇中に字幕などの視覚媒体、あるいはイヤホンを用いた聴覚媒体を介して提供される情報や解説等を利用する機会が多くなった。特に伝統芸能においては、音声ガイドや字幕は現代において欠かせないものとなっており、今後もテクノロジーを利用したこれらの運用は増えていくと予想される。しかし、その導入を巡ってはこれまでも功罪が論じられ、コンテンツである解説の検討や、質的向上のための情報の共有化が進んでいないのが現状である。中でも他の舞台芸術の音声ガイドに先立ち誕生した〈イヤホンガイド〉は、歌舞伎において、日本語母語話者の観客に舞台の進行と同時に解説を提供するという、日本の演劇史上画期的な試みであった。既に誕生から45年以上が経過し、近年は多くの観客が利用し、歌舞伎において重要な地位を占めている。そこで本論文では歌舞伎〈イヤホンガイド〉を取り上げ、音声メディアの展開の中でその歴史を振り返り、イヤホンガイドの解説を文化資源として捉え、その事始を明らかにするとともに、解説内容の検証を行うことで、今後の可能性を探るものである。

 〈イヤホンガイド〉は、〈イヤホン〉という音声テクノロジーと、〈ガイド〉という解説コンテンツから成り立つ。そこから「音声メディアの展開」と「解説文化」の二点に着目した上で、音声メディアと劇場の歴史的関係からみるメディア学的視点、映画説明や舞台中継にみられるような対象の進行と同時に行われる語りという芸能的側面、対象が伝統芸能の歌舞伎という舞台芸術である三つの側面から研究を進める。構成は5章立てとし、各章の概要は以下のとおりである。

 第1章では導入として、劇場と音声メディアの歴史を辿る。既に研究があるように、19世紀末の電話の発明、有線から無線へとテクノロジーが発展してく中で、新しい音声メディアは音楽や演劇と結びつき、本来、劇場やコンサート・ホールにあった観客は拡張していった。一方で20世紀になり、国際会議や国際裁判の通訳の必要性から生まれた同時通訳機器は、限られた空間内で個々のニーズに合わせて放送を提供することを可能にし、後にミュージアムや劇場といった文化施設に導入され、来館者や観客に〈ガイド〉を提供するようになる。テクノロジーを用いた新しいメディアは、19世紀末から劇場や演劇と結びついてきた歴史を持つが、1960年以前の劇場における舞台の解説は、まだ〈イヤホン〉のない時代であった。

 第2・3章では、1960年歌舞伎アメリカ公演の招聘と同時通訳導入の背景を考察し、同時通訳放送の内容を検討する。歌舞伎をアメリカに招聘したのは、当時ニューヨーク・シティ・バレエの総支配人であったリンカーン・カースティンである。彼は自身のバレエ興行の仕事の中で、プロフェッショナルなダンサーの育成、観客への啓蒙を重視してきた。その中で、日本で出会った歌舞伎に自身の目指す劇場のあり方とバレエに通じる技と精神性を見出しており、これがアメリカ招聘の背景の一つと考えられる。また演目選定においてカースティンが絶対必要条件としたのが、『忠臣蔵』の「切腹の場」である。この理由として、既にニューヨークで公演を行なった吾妻徳穂の「アヅマカブキ」と、同公演の「真正の歌舞伎」の違いを見せるためには〈ドラマ〉の上演が必要不可欠であったこと、カースティン自身が日本で観た『忠臣蔵』において、舞台だけではなく舞台を観て涙する観客に感銘を受けていたことがあげられる。また従来の海外公演では開幕前やプログラムでの解説が行われており、カースティンもバレエの仕事の中で出版メディアを利用した啓蒙活動を重視していたが、それは一般の観客に理解を促すためだけではなく、批評家たちに誤った内容を流布させないためでもあった。歌舞伎公演に必要不可欠な〈ドラマ〉の上演にあたり、台詞を同時通訳すること、舞台で何が起きているのかを同時進行的に伝えることが、観客の〈ドラマ〉の理解へとつながることから同時通訳を導入したと考えられる。

 カースティンにより劇場に導入された同時通訳は、映画評論家のドナルド・リチーと日本舞踊家の渡辺美代子が放送を担当し、生放送で台詞の通訳や説明が舞台の進行と同時に観客の耳に届けられた。その中から、渡辺が担当した『娘道成寺』と、リチーが担当した『忠臣蔵』の放送内容を、同時通訳台本として作成され、後に出版された『Six Kabuki Plays(歌舞伎六題)』(1963)をもとに検証した。『娘道成寺』では、誤訳による観客の混乱がみられた。また『忠臣蔵』においては〈ドラマ〉の理解が重視され、これまで海外においては切腹に対するエキゾチックな関心や一種の復讐劇として捉えられてきたが、同公演では同時通訳を通して、カースティンやリチー自身も共感した判官切腹の無念や、残された由良助の思いを理解し、同情し涙する鑑賞体験を観客と共有しようとしていたものと考えられる。

 第4・5章では、日本における音声メディアと解説、そして〈イヤホンガイド〉誕生の背景と、解説内容の考察を行う。イヤホンガイドの仕組みは、舞台芸術のために発明されたものではなく、久門郁夫による限られたエリア内で放送する微弱電波の放送システムが考案され、新しい商業メディアへの利用が模索されたことにより、歌舞伎に行き着いたものである。歌舞伎座に導入された背景には、当時、歌舞伎座では観客離れが問題になっていたことがあげられる。歌舞伎座は歌舞伎を常打ちとする劇場でありながら、実態は歌舞伎以外の公演も多く、団体客依存の問題が取り沙汰され、歌舞伎の危機に対する声があげられていた。こうした状況の打開策の一つとして、これからの観客の鑑賞の手助けとなる解説放送の導入に踏み切ったのである。

 次に本論文では、テスト放送に参加した高橋博と小山觀翁に着目した。かつて舞台中継のアナウンサーだった高橋はテスト放送のみの参加で解説員にはならず、小山は初代解説員となったことから、二人の解説を通してイヤホンガイドの解説とは如何なるものであるか、考察を試みた。テスト放送の記録が残されていないことから、高橋の舞台中継より『熊谷陣屋』(1954年歌舞伎座)、小山のイヤホンガイド解説より『勧進帳』(2005年歌舞伎座)を取り上げ、比較検討を行った。そこから台詞や竹本、長唄などが入らない場面では、両者とも解説の分量も多く、内容も同程度であった。これは高橋のラジオ放送においては、デットエアと呼ばれる無音状態になるとラジオの故障が疑われる、あるいは放送事故になるため、アナウンサーの声を入れる必要があったこと、ラジオでは聴取者は見えないことから、視覚を補完する役割をアナウンサーが担っていたことがあげられる。一方で台詞や竹本、あるいは長唄の入る場面では、高橋の解説は小山に比べ少なく、逆に見えている観客は解説が少ないとイヤホンの故障を疑う、あるいはいつ解説が聞こえてくるかわからない不安を感じる結果となった。また解説の分量の違いには、解説量の多い小山が初心者を対象としていたのに対し、解説量の少ない高橋は通人を対象としていたことがあげられる。小山の解説は、観劇中に歌舞伎通が初心者の耳元で芝居の約束事や見どころなどを解説するというスタイルであり、これが以後もイヤホンガイドの解説スタイルとして引き継がれている。

 また両者の解説は、登場人物の心情や表情などに対し、解説者の解釈をも伴うものである。同じ舞台を鑑賞したとしても、もちろん観客全員が同じ鑑賞体験をしているわけではないが、解説を聴く人と聴かない人は同じ舞台を観ていても、その鑑賞体験は異なるものになり、解説を聴く人は解説者の解釈を伴う〈ガイド〉を媒介して舞台を観ることになる。歌舞伎のイヤホンガイドは、使われなくなった言葉や現代とは異なる風俗や習慣、歌舞伎の約束事といった鑑賞に必要な知識を提供すると同時に、観客が歌舞伎をより深く理解し、楽しむためのツールでもある。鑑賞のための知識の補助という側面だけでなく、解説者の解釈をも伴う〈ガイド〉を楽しむという側面もあるのである。

 以上のように、電波による情報伝達技術の発展の中で、音声メディアは劇場と結びつき、舞台の進行に合わせて観客の耳の〈イヤホン〉に情報を届けることを可能にした。そして、その情報は鑑賞のための言語や知識を補完する役割を超え、観客は解説者の解釈をも伴う〈ガイド〉を媒介し、舞台を観るという鑑賞体験をしている。すでに映画説明やラジオ放送において、視覚・聴覚情報の補完的役割を超えた解説者の解釈を伴う〈ガイド〉をも含めて楽しむ大衆の存在があったという歴史を鑑みれば、〈イヤホンガイド〉が誕生し定着したのは、劇場において舞台そのものだけではなく、〈ガイド〉をも享受したい観客が存在するからだろう。そして従来の視覚障がい者向けの音声ガイドにみられるような、必要最小限の客観的、中立的な情報提供とも異なり、解説者の〈ガイド〉というコンテンツの充実が図られたことにより、今もなお、劇場には〈イヤホンガイド〉と共に歌舞伎を鑑賞する観客の姿が見られるのである。