「二拍」は明末の文人凌濛初による短篇白話小説集、『拍案驚奇』(一名『初刻拍案驚奇』)四十巻及び『二刻拍案驚奇』四十巻の総称であり、馮夢龍の「三言」、すなわち『古今小説』(一名『喩世明言』)、『警世通言』、『醒世恒言』各四十巻とともに「三言二拍」と呼びならわされ、短篇白話小説の代表作とみなされてきた。本論文では先行研究で論じられてきたことを中心にいくつかの論点を設定し、「二拍」の形式的な特徴及び作品に映し出される編纂者凌濛初の思想の一端を明らかにすることを試みる。

 第一部第一章から第三章においては、「二拍」のテキストを構成する要素に着目し、形式的特徴について考察する。白話小説は街中で行われていた語りものを書面に写しとったかのような体裁をとる。物語は常に講釈師が聴衆に向かって語り掛ける形式で語られ、時に読者を聴衆に見立てて語りかけたりする。散文の語りの中には時折リズミカルな韻文・美文の類が混じる。更に欄外や行間には評点が付されることが多い。「二拍」所収作品も、講釈師が語る体裁をとり、散文の語りに韻文・美文が挿入される。そして凌濛初自身によるとされる評点が付されている。これらの要素についてそれぞれの特徴と役割を確認していく。

 第一章では語り手である講釈師の役割について論じた。凌濛初は語り手である講釈師に饒舌さと個性を与え、各作品をひとつひとつ講釈師が語る語り物に仕立て上げた。「二拍」に所収される作品は単なる物語ではなく、講釈師が核となる物語(「正話」)の前後に様々な要素を付加して一つの作品を構成する。作品冒頭では詩詞や散文の語りを置いて作品の主題を伝え、まくらとなる短い物語(「入話」)でそれを補強し、そして本題となる正話を語り、再度詩詞や散文の語りにメッセージをこめて物語を締める。「二拍」における講釈師は単なる物語の語り手以上に存在感をもち、時に凌濛初の代弁者として強い意志をもって読者に語りかけ、読者に繰り返し主題を伝えることで、入話と正話という別個の物語を組み合わせた各作品に一体感を持たせていることを指摘した。

 第二章では講釈師による散文の語りの中に挿入される詩詞の類(韻文・美文・対句等)について論じた。凌濛初は『拍案驚奇』「凡例」において小説における詩詞の必要性に言及し、可能な限り詩詞も創作することが望ましいという見解を示した。「二拍」における詩詞のうち作品の冒頭、入話と正話の間、末尾の三か所におかれる詩詞は、入話や正話の内容を予告したりまとめたりする役割を与えられることが多く、時に散文の語りと同じ内容を繰り返したり、散文の語りに代わって同等の役割を担うこともある。物語の中に用いられる詩詞は場面にあった内容に整えられ、もともと詩詞が大量に用いられる戯曲を改変した作品でも、大幅に詩詞を入れ替えるなどこだわりを見せている。各作品中に挿入された詩詞は講釈師の語り同様、正話を中心として作品をひとつにまとめあげると同時に、作品にこめられた主題を読者に印象付けようとする役割も見られることを指摘した。

 第三章では、評点について論じた。凌濛初及びその一族は評点本の著述・出版を多く行ったことで知られ、凌濛初も評点本の出版を行っていた。それらに付された凌濛初の序や凡例から、最初期には評点の存在を否定的にとらえているかのような言説が見られたのに対し、後には、評点の重要性を述べ、評点は作品の「羽翼」として本文を盛り立てる存在でなければならないという見解を示しており、評点に対する態度の変化が見られることについて論じた。「二拍」にも凌濛初自身による評語及び圏点が付されており、読者に対して重要な箇所や読み解き方を提示しようとしている評点が多数見受けられる。「二拍」所収作品の読解にあたっては評点にも着目する必要があることを指摘した。

 以上、第一部においては、講釈師の語り、詩詞、評点という三つの要素が一体感をもって関連しあい、正話を中心として一つの主題によって貫かれる作品を構成していることを論じた。既存の物語を敷衍して作り上げられた「二拍」所収作品から、凌濛初の意図を読み解くためには、これらの要素に注意を払って精読することが求められるはずである。第二部ではこのことを念頭に置き、所収作品から凌濛初の思想の一端を読み取ることを試みる。第二部第四章から第六章では、先行研究で凌濛初の先進的な一面として取り上げられることの多かった女性に関する物語を取り上げ、凌濛初が女性の貞節に対しどのような認識を持っていたのかを検討する。第七章では僧侶・尼僧・道士、第八章では運命観を取り上げる。

 第四章では既婚女性の貞節について論じた。不義密通を働いた既婚女性が何事もなかったかのように元の夫のところに戻る、或いは不義密通の相手と添い遂げるというハッピーエンドを迎える物語がいくつかあるが、凌濛初はこれらの作品において、不義密通の背景として夫が長期的に家を空ける等のやむを得ない状況があること、不貞行為の相手に対する一途な思いがあることを強調することで、女性の不貞行為を許容できるものとして描いている。凌濛初が読者に男性を想定しているために女性の行動を律しようとする意識が希薄で、むしろ男性読者に対して女性を不貞行為に走らせないよう管理しなければならないと呼びかける姿勢を持って講釈師に語らせていることを指摘した。

 第五章では若い未婚女性の貞節について論じた。明末においては、結婚は媒酌人を介して結納金を交わして行われるものであり、未婚女性の私通は不貞とみなされるものであったが、「二拍」の中には未婚女性が私通の末に相手と添い遂げ幸せになる物語が複数ある。これらからも、既婚女性の物語同様、幼く分別がなかった、正式に結婚ができない境遇にあった等やむを得ない状況、そして二人が愛情で結ばれていることを強調していることが読み取れる。これらは男性読者を納得させる筋書きであり、女性の自由な恋愛を積極的に肯定するものとはいえないことを指摘した。

 第六章では寡婦の貞節について論じた。明末における寡婦は夫の死に殉じて烈婦となるか、独り身を貫いて節婦となることを望まれる一方で、生活のため、或いは周囲の強制によって再婚する等、不自由な境遇であったといわれる。「二拍」において寡婦の再婚や恋愛は二つの方向で描かれる。一つは夫に忠実であったはずの女性が夫に死なれて庇護者を失い、身近に現れた男性と私通に及ぶ。女性は次第に悪女へと変貌を遂げて不幸な死を迎え、寡婦の裏切りは悪とみなされている。一方で、生前浮気をした夫の妻がその浮気相手の夫と結ばれて幸せになるという話もあり、再婚が幸せな結末としても用いられている。これらの作品においても凌濛初の男性読者を意識した姿勢がうかがえ、男性読者に対する戒めとして、妻を裏切り色欲に走る男性は妻に裏切られても仕方がないという考えをもっているように見えることを指摘した。

 第七章では、僧侶・尼僧・道士について論じた。先行作品である馮夢龍の「三言」においては、僧侶・尼僧の悪事、淫事が多く描かれるのに対し、道士は法力をもって人々を助ける正義の側に描かれることが多かった。凌濛初も「二拍」において僧侶・尼僧の悪事・淫事を描き、批判的な態度を示す。しかし凌濛初は道士に対しても厳しい視線を向けており、道士の悪事を描き、講釈師の口を借りて世間の道士を批判していることを指摘した。

 第八章では、「一飲一啄、莫非前定」ということわざに着目して凌濛初の運命観について論じた。「二拍」には「一飲一啄、莫非前定」に代表されるような、世の中のすべてがあらかじめ定まっているという主張が散見される。一方で、善行を行うことで自分の人生をよりよくすることができるといういわゆる立命論に基づく主張も同時に存在し、両者の間で葛藤するかのような講釈師の語り、更には両者を融合させようとする試みが見られた。かつて「二拍」は運命観に関する主張が色濃いことが批判されていた。しかし実際には凌濛初自身にも運命観に対するゆらぎがあり、そのゆらぎは当時の社会に広く共有された苦悩を反映したものではないかと指摘した。

 これまで「二拍」における女性の不貞行為に対する寛容な態度が作者である凌濛初の進歩性を示すものとして取り上げられたり、一方で運命観的な記述が処々に見られることについて後進性を示すものとして批判を受けたりした。しかし個々の作品を物語の筋書きのみならず、語り手である講釈師の語り、詩詞韻文、評点の細部にまで目を配って精読することで、新しい見方が可能となる。「二拍」所収作品をよく理解するためには、個々の作品を精読すること、そしてそれらを総合的に見ることが必要である。それによって「二拍」にこめられた凌濛初の意図や、無意識に溶け込んだ思想や価値観、更には作品を生み出された当時の社会や文化についてより深く知ることにつながるだろう。