羅教は明代中期に成立し、多くの分派を派生して膨大な体系を作り上げた。近代にいたる社会史・思想史・出版史において、羅教は一定の地位を占めているが。羅教研究、特に羅教の伝説についてのものはまだ少ない。本研究は羅教伝説について先行研究で史料として考慮に入れられなかった文献をも含めた点に特色がある。

 第一章では、先行研究を整理し、社会史方面では漕運制度や秘密結社と羅教との関連、思想史方面では禅宗及び他の諸民間宗教と羅教との関連、出版史方面では宝巻に対する文献・目録学的な考察、これらを簡潔にまとめた。また、宗教と信仰と教派の定義がそれぞれの研究で異なり、定義が不一致であったため、筆者なりの定義を示した。そして、上述した本論の問題意識及び研究方法を明らかにした。

 第二章では、テルハールの研究Practicing Scripture, a lay Buddhist movement in late imperial Chinaにおける第二章 "Patriarch Luo: From Soldier to Religious Teacher"(羅祖:軍人から教祖へ)を紹介した。テルハールの研究は筆者に近い問題意識で行われていておおいに参考になるのだが、視点を異にするところもある。筆者の本論は羅教の伝説の内容を示すのみならず、様々な文献に見られる類似した内容を対比し、成立時期や地域に対する分析を行い、加えてその作者も考証して羅教の伝説をより体系的、立体的に構築した。またテルハールが言及したものよりも多くの領域の史料を取り上げ、文学作品や清朝政府の史料なども取り入れた。

 第三章では、羅教の成立と伝播について考察を行った。第一節では、羅祖の修行、開悟、説法などの事跡を整理し、その後の羅教の伝播と禁教や関連する歴史的事件を取り上げた。第二節では、運河の形成、漕運の制度を簡略に紹介し、そうした背景の中で、水手羅教及び青帮がいかにして形成され発展していったのかについて、先行研究を踏まえつつ、羅教の歴史をもう一度整理し直した。

 第一章、第二章、第三章で先行研究の整理考察を終え、第四章では、本論の新しい視点から主に取りあげた諸文献(『五部六冊』、金山寺碑、『聊斎志異』羅祖篇、『三祖行脚因由宝巻』、先天教不明宝巻、諸青帮手冊)に見られる、羅教の伝説の筋書きに対して整理し、考察を行った。

 『五部六冊』は最も羅祖本人に近い資料であると同時に、一切の羅教伝説の原点でもある。『五部六冊』では『開心法要』版と康熙十七年刻本という二種の版本を取り上げ、それに関する文献学研究を踏まえつつ、それぞれの序文を考察し、『開心法要』版に関しては、その出版及びその注は羅教の分派である斎教の影響下にあるものであり、羅祖の事跡が詳しく記されてある『苦功悟道巻』の前に附せられた「祖師行脚十字恩情妙頌」も斎教の影響下であるため、分けて考えるべきだという結論を得、清康熙十七年刻本に関しては、『苦功悟道巻』の後ろに附せられた「北檀州羅祖部巻追思記」の作者を詳しく考察することにより、それが実在する人物だとわかり、これも『五部六冊』自身とは分けて考えるべきであるという結論を得た。以上のことを踏まえて、『苦功悟道巻』、及び「北檀州羅祖部巻追思記」と「祖師行脚十字恩情妙頌」に見られる、羅祖の事跡を描写した筋書きを分析整理し、その間の関係を明らかにした。

 金山寺碑は2006年に発見され、中国社会科学院の梁景之研究員が考察を行い、写真付きの論文を出している。碑文には、羅祖の事跡と現地の信者に関する情報が記されてある。梁研究員の研究を適宜批判しつつ、碑文の記載内容を更に詳しく考察した所、現地の信者の部分を除き、今までの伝世文献と類似性の高い記述であることがわかった。

 『聊斎志異』羅祖篇は文学作品であり、先行研究ではこの存在が言及され、内容紹介が行われただけで、他の羅教関連資料と対照して、更に詳しい分析は行われてこなかった。筆者は詳細な分析を通じて、『聊斎志異』羅祖篇は「北檀州羅祖部巻追思記」との類似性が高く、それまでの文献に見られる羅祖の伝説を受け継ぎつつも、新たなストーリーを加えたものであるという結論を得た。

 『三祖行脚因由宝巻』は羅教の分派の一つである斎教の経典であり、「祖師行脚十字恩情妙頌」との関連が深い。この宝巻では、それまでの羅教の伝説を継承し、細部に一部変動が見られるだけではなく、羅祖が法術で番兵を退けたものの投獄され、獄中で協力者を得て五部真経を著し、侵攻を企む番僧と問答を交わして見事退けた、という一連のストーリーが新たに加わっており、羅祖が神格化されている。これは、羅教の伝説が現実の姿から離れ、虚構が入り込んだ神話へと変容するターニングポイントであった。この他、十九世紀中期の宣教師エドキンスが中国の南方で調査を行った際に発見したという『羅祖出世退番兵宝巻』と『三祖行脚因由宝巻』とを比較検討した結果、細部に至るまでもが一致していることから、両者は同一藍本から形成された可能性が高い。

 先天教不明宝巻はオランダの漢学者J・デ・ホロートによって発見されたものであり、『三祖行脚因由宝巻』を受け継ぎつつ、細部の描写が増えており、羅祖を神格化する色彩が更に濃くなっている。

 諸青帮手冊は水手羅教を前身とする民国期の青帮の構成員によるもので、明代の水手たちの間に伝わっていた羅教の伝説を記述したものである。諸青帮手冊間での筋書きの類似性は高く、そこに見られる伝説は、多くの文章から口伝で伝わっていたことがわかり、1998年に出版された姜豪という元青帮の弟子が著した『和談密使回想録』とも一致度が高いことから、口伝であったことの裏付けが取れ、その伝説が一脈を成すものであることがわかる。諸青帮手冊に見られる筋書きは『三祖行脚因由宝巻』を受け継ぎつつ、羅祖に師匠の金祖、弟子の陸祖、及び更にその弟子三人を付け加え、その弟子三人が政府から漕運を請け負ったという、水手の背景が色濃く反映されるストーリーが付加されている。

 第五章では、第四章の大筋の共通点を踏まえつつ、細部の相違点について整理、分析を行った。それぞれ、羅祖の生平及び死後、五部真経作成の経緯、番兵を退けた経緯、を軸に分析を行った結果、羅教の伝説は数系統に類別できることが判明した。このほか、青幇手冊に見られる羅祖が天書を書いて番兵を退けたという筋書きは、文学作品『警世通言』の「李謫仙醉草嚇蛮書」の筋書きと酷似している。ただ、馮夢龍が編纂した『警世通言』は清代では通行しなくなったため、この書物からではなく、『警世通言』が誕生する前から既に流伝していた戯曲や伝説から素材を取り入れたものだと考証した。また、異なる藍本として、現実の羅祖との比較、羅祖の軍籍、民間宗教の要素という三つの面から、『聊斎志異』羅祖篇を考察した。そこに描かれた羅祖の軍籍、辺境防衛、修行、活動範囲、及び後世の子孫による供養等、大部分の筋書きは現実の羅祖と一致し、羅祖の故郷一帯で彼の物語が語り継がれていた可能性が高い。

 第六章では金祖、張永、党尚書について分析を行った。金祖のイメージは青帮手冊ごとに異なるが、その原型は歴史的事件で活躍した人物や小説の登場人物のみならず、禅籍や史学の書籍、筆記資料にも見られ、金祖は金碧峰、金幼孜、金純の三人の話を組み合わせて造り上げられた人物であるという結論を得た。このうち、明代に流伝していた金碧峰の伝説、および実在の金碧峰について更に考証した。また、羅教の信者を手助けした可能性がある人物、張永は明代の歴史上で実在した宦官であったことを考証し、更に羅教経典を刊行したと思われる党尚書の実際の身分は、北京の書賈であったことを明らかにした。

 第七章では羅教の伝説の南北系統説を打ち立てた。羅教の伝説には様々な要素(時代背景、教派、信仰団体、地域性)が複雑に絡み合っていることをここまでの章で示したが、これらを更に整理すれば以下の二点の結論が得られる。一つは、羅教の伝説は時の推移とともに、様々な文献から原型を取り込んで膨張を続けるが、同じ王朝内においては時間推移があまり関係せず、教派や地域性によって内容の豊富さや仔細が異なる。もう一つは羅教の伝説には諸藍本系統があり、それは教派よりも地域によって分かたれるということである。それぞれの地域で流伝する羅教の伝説は、その地域の特性に合わせて細部が変更され、ストーリーが書き換えられるのである。以上の分析により、本論で取り上げた史料を三つの細かい藍本システムに分け、羅教の伝説には大きく分けて南と北の二つの大きな藍本系統が存在するという結論を得た。本章では更に羅教信者が伝説を創り上げる際に持つ意識についても検討を行った。羅教信者は通俗的な文章で、士大夫とは異なった精神世界を表現し、口伝の形式で伝承を行った。その伝説創作において、教祖を祀り上げ、自身の合理性と合法性を主張し、羅教にとって重要な人物を讃えようとする意識が見られたと言えるであろう。