16世紀以降の宣教師を媒介とする中国とヨーロッパとの出会いに関する研究は、これまで歴史や思想、言語や文学、科学や芸術等の多岐に渡る分野で行われてきた。近年では特に宣教師を介した出会いを中国文明とヨーロッパ文明の対話として捉える傾向が高まっている。こうした中で、主たる研究は中国宣教において最も存在感の大きい一部のイエズス会士の活動、とりわけ彼らが残した数多くの哲学的な著作に集中している。これに対して、イエズス会以外の教団も含めて、中国における宣教師が本来の目的のために長い期間編纂し続け、また、その数も圧倒的に多いはずの漢訳教理書などの宗教的著作は十分な注目を集めてこなかった。しかし、このような現状は見直される必要が出てきた。その背景としては、近年カトリック教会による宣教のグローバルな連携、そして宣教地間の比較に関する研究が盛んに行われていることが挙げられよう。宣教地間にみられる共通性と、それに対して各宣教地に見出される特殊性の両方を全体像の中で明らかにするために、明清時代の中国の事例は一層重視されつつある。

 本論は以上の問題意識を踏まえ、漢訳教理書の編纂・出版という、中国での宣教活動において一貫して継続し、イエズス会に限らず諸修道会の宣教師も参入した事業の歴史的展開に焦点を当てる。従来の各修道会を軸とする宣教学的なアプローチにとらわれず、本論ではテキストが成立する歴史的、社会的環境に目配りしつつ、テキスト間、修道会間、地域間の関連に注目する。これによって本論は、従来とは異なる角度から同時期の思想文化交流に光を当てることを試みる。本論は主に三つの目的を掲げている。第一に、漢訳教理書の数量や各時期の出版傾向等について分析し、全体像を把握した上で、漢訳教理書内部の多様性や主要な類型を明らかにする。第二に、膨大な漢訳教理書から成る一つのテキストネットワークを構築し、従来個別の著作を対象に行われた研究では十分に解明されてこなかった教理書の時代間、修道会間、地域間の関係を明らかにする。第三に、教理翻訳と教理書の編纂・出版から見た中国宣教をカトリック世界宣教の一環に位置付け、宣教師の他地域での経験と比較しながら、中国キリスト教史や東西交渉史における適応の問題や、修道会間関係等の課題を再検討する。

 本論は以下の三部、六章から構成される。第一部「教理書とはなにか――ヨーロッパから中国へ」では、第二部以降の個別課題の研究の基礎として、教理書出版の歴史的背景、漢訳教理書の概略を整理した。第一章では教理書というジャンルそのものの成立を、ヨーロッパ本土、及びカトリック教会の各海外宣教地における教理書の出版の両方を念頭に考察した。その上で、漢訳教理書の刊行がそれ以前に他地域で展開された教理書の編纂・出版事業と密接な関係を持ち、その影響の下で展開したことを明らかにした。

 第二章では、原本調査と復刻資料の両方から得られた情報を統合し、16世紀末から18世紀初頭において編纂・刊行された漢訳教理書の全体像を示した。その上で、漢訳教理書に対する従来の伝統的手法を相対化し、内容や構成、文体や言語、物理的特徴等の複数の軸で分析することにより、漢訳教理書の多様性を明らかにした。同時に、教理書の本文のみならず、序文や凡例、そして宣教史史料等も含めた総合的な考察を通して、個々の漢訳教理書の対象についても検討を加えた。対象には階層や信徒身分などのレイヤーが重層的に表れており、信徒と漢訳教理書の仲介を担う修道士、カテキスト(説教員)、信徒組織リーダーが重要な対象群であったことを指摘した。

 第二部「漢訳教理書の成立とその時空間性――イエズス会版教理書を手がかりに」では、第一部第二章における総体的考察を踏まえつつ事例研究を展開し、用語や内容の成立、翻訳過程における変容といった具体的な課題を論じた。第三章では、最も早い時期に成立し、かつ16、17世紀に最も広く流布した「教要」書物群に注目する。国内外の各所蔵機関で調査した多数のテキストを対象に、人文情報学の手法も活用しながら校異作業を行い、これを基に「教要」の諸テキストを四系統に分け、各系統の成立時期についても推定を行った。加えて、翻訳表現と教理項目の内容及び配列順序という二点に注目し、キリスト教の教理の翻訳が早い段階で定着しその後ほぼ変化しなかったという従来の通説について、再検証を加え、教理の翻訳が時代ごとに変化していることを明らかにした。

 第四章は、16世紀にヨーロッパで出版されて以来、多くのポルトガル植民地で翻訳されたイエズス会士ジョルジェの教理書に基づく漢訳教理書『天主教要啓蒙』を取り上げた。同教理書の特徴を、ポルトガル語原書及び原書からの日本語訳『どちりいなきりしたん』と比較しながら分析した。その結果、『啓蒙』が全体的な構成では概ね原書の枠組みに従っていることを確認した。内容に関して、一部においてポルトガルとは異なる現地特有の実情に応じて手直しも施されたが、改変が大きい日本語訳と比べると、原書の内容に基づき忠実に直訳する部分が多いことが明らかになった。

 第三部「多層的ネットワーク――漢訳教理書をめぐる修道会間、地域間の関係」では、教理書の編纂・出版をめぐる修道会間、地域間のネットワークに注目する。第五章では、托鉢修道会のドミニコ会、フランシスコ会、アウグスチノ会、そしてパリ外国宣教会やラザリスト会の宣教師の手になる教理書を整理したうえ、教理書の編纂・出版をめぐる修道会間の関連性を考察した。分析の結果として、第一に、教理書をめぐる修道会間の相互作用が多く確認された。遅れて中国宣教に参入した托鉢修道会等の宣教師が教理書を作成した際、彼らはイエズス会士の著作を大いに利用し、主要な内容や神学用語を継承していた。第二に、従来「典礼論争」を中心に描き出されてきた修道会間の競争・対立関係は、教理書の編纂事業には、少なくとも明白には反映されていないことが明らかとなった。各修道会は異なる宣教方針を掲げていた一方で、教理書の編纂・出版においては、横断的に存在していた共通認識が統一的な宣教用テキストの生成に繋がったと考えられる。 

 第六章では、研究対象をさらに中国大陸以外の地域にも広げた。ドミニコ会士が16世紀末から17世紀初頭にかけてフィリピンのマニラで出版した漢訳教理書の一つである『無極天主正教真伝実録』の内容と性格を明らかにし、中国大陸で出版され密接な関係を持つと思われる『天主実録』や『天主実義』との異同や相互関連を考察した。『真伝実録』は、先行研究によって指摘された用語面の他、内容面でも『天主実録』からの借用が多く見られた。また、儒教経典から表現を多く借用しキリスト教の教理に関わる議論に組み込む点や中国思想がキリスト教の教理に反さないとする融合的な姿勢において、『真伝実録』と『天主実義』が類似していることが明らかになった。

 各章の考察には、中国宣教における「適応」を問い直すという問題意識が通底している。そもそも宣教に用いるために編纂された教理書に注目したのは、中国宣教特殊論を相対化する意図があったためである。中国宣教においては、カトリック教会の他の宣教地域と同様に、宣教や持続的な信仰教育に必要なテキストが数多く編纂、出版された。第二章での考察を通して明らかになった通り、その中には『天主実義』のような儒教思想との対話を重視するものもあれば、その他の様々な階層への宣教に応じた様式や内容のものもあった。とりわけ、ヨーロッパの教理書から忠実に訳されたものや、他の宣教地で刊行されたものと共通する内容を持つものも存在している。この点において、中国ではキリスト教の教理は他の宣教地と同じく十分な形式及び内容で紹介されたと言える。そして、漢訳教理書は、対象の変化、教理教育における重点項目の調整、信徒数の増大や宣教地域の拡大など、宣教地の実際の状況の変化に応じて変容し続けていた。言い換えれば、宣教のために編纂された教理書は、常にその場その時の需要に適応した。このような時間的側面は、第三章で取り上げた「教要」書物群に最もよく表れていると言えよう。イエズス会士の公式な教理書として位置付けられる「教要」書物群に属する諸テキストは、成立した17世紀初頭から同世紀の末までの間に、何重にも変貌した。このことから「適応」の行為が恒常不変ではなかったことが明らかである。また第四章では、ポルトガル語原典を持つ『天主聖教啓蒙』の漢訳の過程に注目し、同原典から日本語に訳されたテキストと比較対照することで、「非適応」と「適応」の両側面が存在することを示した。ここでいう非適応的側面としては、例えば原典に基づく忠実な訳文、原語に基づく音訳の多用などが挙げられる。特に変容が大きいと思われる日本語訳と比べると、漢訳は原典に近いことが目立つのである。適応的側面は、日本語訳と同様に教会規定第五条が削除されたことやアニマについて加筆されたことが挙げられる。このことからは、適応の超地域性も指摘できる。さらに、第五章と第六章では、これまで「典礼論争」に代表される競争・対立の側面から捉えられてきた修道会間の関係を、漢訳教理書の編纂と出版の角度から相互関係や共通する側面に注目して捉え直した。その結果、従来「反適応」側に位置付けられてきた托鉢修道会などの宣教師が、実際の活動では適応的な側面を持つことが明らかとなった。こうした「適応」の実践に関する分析結果は、近年歴史学的見地から提起されている近世カトリック教会の「適応」の定式化という議論にも寄与すると考えられる。