本論文は、洋楽放送の成立と変容を、その組織体制と番組の作り手―番組制作者―の視点から歴史的に考察することを目的とする。考察の対象時期は、1925(大正14)年の放送開始前後から太平洋戦争終了後にかけての20余年である。即時性、広汎性というそれまでのメディアにない特徴を備えたラジオが、明治以降日本に流入した西洋音楽=洋楽をどのようにコンテンツとして組み入れ番組としていったのか、また当時の社会変化の中で洋楽を放送するということにどのような意義を見出し、あるいは付与していったのかについて検討する。考察を行うにあたり注目するのは、洋楽番組の制作を行った組織の変化、及び番組の制作を担当した人々の言説や行動である。

 本論文は、第1章(序論)と第11章(結論)を除き、3部、計9章で構成される。

 第1部(第2章~第4章)では、洋楽番組の制作を行う組織の形成、及び番組制作者の誕生及び成長の過程について検討を行った。

 第2章では、放送開始前後に洋楽放送の重要性が「浮上」したプロセスについて検討した。第1に、娯楽放送の重要性の「浮上」である。放送局の事業形態決定の過程で、監督官庁である逓信省は、多数の出願者を1つの組織に集約するとともに、営利を追求できない社団法人とすることを決定した。これにより、新聞社出身幹部の反発と警戒を招き、当初重要視していた報道が主要なコンテンツから脱落、代わって文化や慰安娯楽を提供することの意義が強調された。第2に、洋楽の重要性の「浮上」である。放送局幹部の教養・啓蒙重視の姿勢、逓信省による放送内容の事前検閲や取締り、あるいは放送局の自己規制によって想定していた慰安娯楽の提供の幅が狭まる中、洋楽は「中立」で「無色透明」なコンテンツとして認知されるようになった。この2つの「浮上」のプロセスを経ることで、放送開始前にその必要性が認識されていなかった洋楽が娯楽放送の一角を占めることとなった。

 第3章では、洋楽番組の制作を担当する番組制作者の誕生過程と、彼らが重視した洋楽放送の方向性について検討した。放送局内部には洋楽に明るい人材が全くおらず、放送開始当初から外部の専門家を嘱託として雇用した。当時の音楽会の形式や内容をそのままスタジオに持ち込んだ仮放送期から、オーケストラとの連携を図りコンテンツを安定的に確保した初代放送部長、服部愿夫の時代を経て、洋楽に対する幅広い知見と経験を持つ堀内敬三の時代に至って、放送局側が自律的に番組を制作する体制が形成された。堀内は洋楽が知られていないことを前提とし、平易で親しみやすい楽曲を中心に多様な種類の楽曲を聴き手に提供することを通じ、主に若年層の洋楽の受容を促進した。

 第4章では、洋楽放送の番組制作体制の変化、すなわち組織化の過程について検討を加えた。放送の全国中継化に伴い、個人の裁量や価値観が強く反映されていた番組制作体制は次第に組織化されていった。洋楽放送は専門家による委員会で企画を審議、決定する仕組みが設けられたが、非公開かつ合議制を採ったため閉鎖的だとの批判を招いた。その後委員会が突如解散し、企画から制作までの全ての業務をわずか2人の職員が引き継いだものの、以降数年にわたって洋楽放送は停滞した。1934(昭和9)年の日本放送協会(「協会」)の機構改革以降、協会のプロパー職員が年々増加し洋楽放送は組織内での番組制作が可能となり、外部への依存度が減っていった。他方、大阪(JOBK)では、学芸課長の奥屋熊郎の強力なイニシアティヴと信念により、ジャンル横断的な番組を次々に制作し話題を呼んだ。奥屋は、公益事業たるラジオはその特性を生かした独自の芸術=「ラヂオ芸術」を生み出さなければならないと強く主張し、東京とは異なる思想及び手法で洋楽を放送に乗せた。

 第2部(第5章~第7章)では、洋楽放送が単なる西洋音楽の紹介・普及を超え多様化していく過程を、いくつかの例を通じ検討した。

 第5章では、機構改革後に盛んになった洋楽を放送することに対する意義の付与について、「指導性」と「大衆性」の観点から確認するとともに、新たなタイプの洋楽放送が出現していく過程を確認した。機構改革時に逓信省が示した指導精神の確立、民衆を追従させる番組の編成指針などを洋楽放送の意義といかに結びつけていくかという議論は、組織外の「洋楽系知識人」たちによって主導された。彼らは、洋楽こそが聴き手の教養や文化の水準向上に役立つものであり、公益性の高いラジオは指導性をもって積極的に洋楽を放送すべしと主張した。この主張は洋楽放送の「思想的根幹」となり、またこれ以降様々なタイプの洋楽番組が開発されていった。

 第6章では、放送を通じた日本人による洋楽の創出について「国民音楽」を補助線にして検討を行った。ラジオは当初日本人作曲家の作品を放送することについて消極的であったが、機構改革時に逓信省によって示された「“日本精神”を基調とする日本文化の育成」指針への対処などから、この時期大きく発展を遂げた作曲界と関係性を深めながら「日本」や「国民」を冠した番組を企画していった。番組制作者はこうした番組を、日本人による(のための)音楽文化創出の必要なプロセスと認識し、時間をかけて育てていく必要があると考えていた。しかし日中戦争開始後、それらの番組には戦意昂揚や国家的精神の発揚の要素、あるいは諸外国に対する国家としての日本の顕示といった目的が付与されるようになっていった。

 第7章では、「軽音楽」番組の創出と展開を通じ、大衆に訴求する洋楽番組の開発の過程を確認した。軽音楽という語は放送によって使用され始め、当初アマチュアやセミプロが出演する際に限定されて用いられていた語であったが、次第にジャズやダンスミュージックなどの曲群も包含され人気が高まっていった。日中戦争の開始により軽音楽番組は一旦中断されたものの、その後多様化する聴取者大衆に対応する番組として再び放送され始め、1940(昭和15)年以降多種多様な音楽が軽音楽として電波に乗った。しかし太平洋戦争が近くなると放送回数が急激に減少し、開戦後は軽音楽を冠する番組がラジオから姿を消した。

 第3部(第8章から第10章)では、太平洋戦争期の洋楽放送の変化について検討を行った。

 第8章では、太平洋戦争開始前後1年の洋楽放送について、聴取者からの投書による反響を織り交ぜながら検討した。開戦前の洋楽放送は、時局の進展に伴い大衆向け洋楽番組の積極的な開発から指導性を強調した番組への方針転換や、厚生運動との連携強化などを模索していた。そうした矢先に太平洋戦争が開始され戦時体制に対応することとなったが、聴取者からは軍曲・行進曲に対する批判や『国民合唱』への痛烈な非難が多く寄せられ、目立った成果を挙げることができなかった。新たに開始した邦楽や民謡を素材にしたピアノ独奏番組には賞賛の声が多くもたらされたが、それらにはジャズや軽音楽の手法が含まれていた。開戦前までの洋楽放送を、番組を作る側も聴く側も引きずっていた。

 第9章では、1943(昭和18)年及び1944(昭和19)年の洋楽放送について、「音楽放送」への転換を中心に検討を行った。戦局の変化に対応し大衆をより意識した放送方針が掲げられる中、機構改革により史上初めて全てのジャンルの音楽を制作する部署が設けられた。部長に就任した吉田信は、『国民合唱』の方向修正、ラジオ発歌謡曲の制作、軽音楽番組の復活など大衆重視の音楽放送へと舵を切り一定の成果を収めたが、その後の戦況の悪化で人心の慰安が強調されるようになると、芸術音楽のレコード番組や芸術音楽の放送も重視されるようになった。

 第10章では、戦争末期から戦後にかけての音楽放送に関して検討を行った。1945(昭和20)年は終戦にかけて戦意昂揚を目的とした楽曲が急速に減少、終戦後は次第に様々な楽曲が放送されていったが、出演者や選曲の点から見れば両時期の連続性が明らかに見られた。終戦後も音楽放送を統率する立場に留まった吉田及び副部長の丸山鐵雄は、GHQ下の放送政策とも微妙に連動しながら大衆向けの音楽番組を積極的に企画したが、その発想や制作手法には戦前、戦中の音楽・演芸番組の影響が色濃く見られた。その後の音楽放送が、指導性を重視・強調した戦前の「洋楽放送」に戻ることはなかった。

 以上の考察から、洋楽が放送のコンテンツとして成長する過程において、「洋楽放送」という組織的「枠組み」の存在が重要かつ必要であったことが明らかになった。枠組みの形成には様々な事情や経緯があったが、この枠組みが連綿と存在していたからこそ、その中に取り込まれた音楽が「洋楽番組」として制作、発信され、放送発の洋楽として認識されることになった。それらの番組に関与した制作者もまた、洋楽放送という枠組みによって作り出され、枠組みの形成や補強に加担した主体の1つであったといえる。

 日本の放送は、所轄官庁の逓信省やその他の官庁、軍部や公的組織など「上」から常に規制や干渉を受けていた。また、洋楽関係者からは「放送局は音楽の直接の当事者ではない」と認識されていた。しかし洋楽放送は決して「上」または協会上層部からの命令や指示によってのみ制作されていたのではないし、洋楽関係者の言いなりになっていたわけでもない。番組制作者こそ、ラジオというメディアと洋楽の双方の特徴を熟知し、厳しい「上」からの指示・要求や聴取者からの要望に応えつつ、担当者の価値観や嗜好なども巧みに織り交ぜながら洋楽を発信することのできた「仲介者」であるとともに、日本の洋楽文化の発展を牽引した当事者として位置づけられよう。