本論文はG. W. F. ヘーゲルによる(通常『大論理学』とも呼び習わされる)『論理学(Wissenschaft der Logik)』について、とくにその「第二書」に当たる「本質論」の構造と意義を明らかにすることを目的とした論考である。一般に「ドイツ観念論」と呼ばれる19世紀の思想潮流にあって、ヘーゲル哲学はしばしばその一つの頂点にも位置づけられる。後年の『エンツュクロペディー』へと成熟することにもなる、そうしたヘーゲル哲学の体系の中で、とりわけ「論理学」という「学」の一部門が欠くべからざる格別の意義をもつこと自体は論を俟たない。だが、まさにその「学」の一部門を最も明確に呈示する『論理学』という一つの著作が、そもそもいかなる哲学的課題を引き受け、またそこにいかなる解決を施そうとするものなのかという点について、その書が世に出て200年を越えた現在においてもなお、確固たる同著の答えを描ききる解釈は管見の及ぶかぎりいまだ与えられてはいない。

 たしかに、『論理学』というその書の名称のとおり、同著の「第三書」に当たる「主観的論理学」には、通常「形式論理学」において主題化されるものとしての、判断及び推論に対する論理学的とも言える分析が含まれている。しかしながら、その「主観的論理学」に先行する「客観的論理学」は、ヘーゲルによって「かつての形而上学に取って代わる」ものとして明確に位置づけられてもいるのである。それゆえ『論理学』の意義を解明しようとする試みには、その書がいかなる意味で「形而上学」に取って代わる「学」の一部門を呈示することができ、そしてなおかつその「学」がいかなる意味で本来の「論理学」へと接続することができるのか、という複層的な問いが不可避的につきまとわざるをえない。『論理学』という書をめぐって蓄積された先行研究を振り返るとき、その研究蓄積のうちには、同著で扱われる個々の主題のもとにヘーゲルの思想を掘り下げようとする知見が見出されうる。とはいえ、今見た問いをめぐって同著が示そうとする「形而上学的」なるものから「論理学的」なるものへと通底しているはずの一貫した論述の方向性がもつ実質的な意味は、いまだ謎めいたものとして現在においても解釈の余地を大きく残しているのが実情であると言える。

 本論文はこうした現状を踏まえて、同著においてまさに「形而上学」に取って代わる「客観的論理学」を呈示しながら、なおかつその議論の帰結において「主観的論理学」への接続を成し遂げるものとして位置づけられている、当の「本質論」の記述に沿って、同著が提示しようとする哲学的課題と解決を具体的に再構成しつつ、同著を貫くヘーゲルの思想が、いかなる根本的な目的と意義をもつのかを明らかにすることを試みるものである。とりわけ本論文は第一に、上述した「形而上学」、とくに伝統的にその第一部門に位置づけられてきた「存在論(Ontologie)」に対し、『論理学』と同様にその超克を目指した、カントの「批判哲学」の立場を常に対峙させることを通じて、同著がまさに「形而上学」を相対化する枠組を設定しようとしているという見方を提示する。そして第二に、この「形而上学」と「批判哲学」の立場を言わば俯瞰的に総合しうる視座として、『論理学』が一貫して、「スピノザ主義」に基づく洞察を援用しているという観点に従って、同著の解釈を与えることを試みる。

 たしかに、「存在論(Ontologie)」や「批判哲学」といった、『論理学』においてヘーゲルが明示的に言及を加えるトピックに対して、いかなる意味で「スピノザ主義」が同著の不可欠の要素となりえているのかは、一見したかぎりでは不明瞭である。しかし、そもそも対立する二つのものを総合するという、ヘーゲルの「弁証法」を担う「思弁的」理性の理解には、ヘーゲルに先立ってその意義を探り当てていた、シェリングの着想の影響が確実に見られる。なおかつ、実際に同著の冒頭において、「存在」と「無」を総合する機能を担わされる「生成(Werden)」という一つの概念には、やはりヤコービが剔抉したスピノザ主義の原理が念頭に置かれていることも事実である。本論文はそれら二人の哲学者がそれぞれ固有に形づくっていた「スピノザ主義」が、いかにヘーゲルに影響しえたかについて、本論文「序論」で手短に考察を加えた上で、この「スピノザ主義」に依拠した原理が同著の「思弁的」方法の核をなすものとして一貫して維持されることを論証することを目指すものである。

 より詳細に本論文の構成を述べると、本論文は『論理学』「本質論」の構成そのものに対応する形で、今示された視座に従って、「本質論」の記述を再構成しながらその内実を明らかにする。つまり簡潔に言えば、「本質論」第一編「本質」に対応する本稿第一部では、とりわけ〈形而上学〉の観点に従って定義された「現実存在」を間接的に語りうるための枠組——すなわち「本質」、「反省規定」、「根拠」——が示される。それに対して続く第二編「現象」に対応する本稿第二部では、その「現実存在」を経験的連関のうちにある「実在性」へと位置づけ直した、〈批判哲学〉の「超越論的観念論」の枠組——つまり「物」、「現象」、「力」——が、まさに形而上学的な「現実存在」を相対化するものとして示される。そして最後に、同じく第三編「現実性」に対応させられた本稿第三部では、以上のように「根拠」に代表されるような〈形而上学〉の観点に従って定義された「本質」的規定と、〈批判哲学〉の観点に従って「実在性」を帰属させられた「現実存在」という、二つの「現実性」を語る観点が、とりわけ〈スピノザ主義〉の「絶対者」の理解に基づいて総合されることが示されることになる。

 それに加えて本論文は、「本質論」を構成する九つの各「章」の主題——すなわち仮象、反省規定、根拠、物、現象、本質的相関、絶対者、現実性、絶対的相関——に沿って、その各「章」の記述においても、やはり今言及された〈スピノザ主義〉がもつ位置づけが、一貫して維持されていることを示すことを試みる。つまり、本論文はその各「章」に対応する第一章から第九章のうちで、実際にそれらの主題のもとに伝統的〈存在論〉およびカントの〈批判哲学〉に対応する契機が見出されつつ、同時に、それらを総合する〈スピノザ主義〉の観点がその主題における「弁証法」を駆動してゆく基軸をなしているという見方を具体化することを試みる。以上の一連の考察全体を通じて、本論文は「本質論」の論述が、〈形而上学〉と〈批判哲学〉の対立を〈スピノザ主義〉によって総合するという一見して単純な方針をもちながらも、同時にその過程が各「章」の主題の弁証法の中で繰り返されると同時に、三つの「編」を通じてその「思弁的」な原理を一貫して具体化する複層的なものであるという点で、言わば螺旋状に進行する極めて複雑な体系を作り上げていることを論証する。

 またこれら一連の考察を通じて、本論文はこの「本質論」を一貫して駆動する〈スピノザ主義〉が、「本質論」に並ぶ「客観的論理学」のもう一つの構成要素である「存在論」に通底するもう一つの〈スピノザ主義〉と対称性をなしているという観点から、両論の関係を示すことを副次的主題とする。すなわち上述で示唆されたように、「存在論」における「存在」が含意する「生成」という「思弁的」原理がまずもってヤコービの思想によって支えられ、「本質論」における「本質」が含意する「反省」という「思弁的」原理がシェリング哲学の「本質」論に由来するという見立てのもと、本論文はその「存在論」と「本質論」によって構成される「客観的論理学」が、最終的にその二つの〈スピノザ主義〉に由来すべき原理そのものを総合することに向かうものであるという見方を示す。それら二つの「思弁的」原理が緊密に交叉させられる次第は、「本質論」の道ゆきそれ自体において、「仮象」から「根拠」、また「絶対者」のうちでそれぞれ示される、肯定的側面をもつ解釈と否定的側面をもつ解釈の交錯として、まさにその原理の深化とともに漸次具体化させられてゆく過程として再構成される。とりわけ本論文は、「客観的論理学」そのものの帰結を提示する「本質論」第三編第三章「現実性」において、「主観的論理学」の基礎を担う「自由」の観念の導出という哲学的課題のもとに、このヤコービとシェリングがそれぞれ剔出した「生成」と「反省」の原理が、最も鮮明な形で対峙させられつつ、同時にその対立を通じて両者が標榜するスピノザ主義的実体論が互いに総合されていくことを示したい。

 最終的に本稿は以上のように——従来ヘーゲルの『論理学』の先行研究において、ともすればたんなる批判対象としてのみ見なされてきた、ヤコービおよびシェリングの哲学的思索の影響を再評価する道筋をつけつつ——、それらの〈スピノザ主義〉に由来する原理のもとに、伝統的な「存在(Ens)」の含意を引き受ける、「存在(Sein)」と「本質(Wesen)」の概念そのものの内実が、再び合流していくことを通じて、また「本質論」の各「章」のみならず、各「編」によって構成される「弁証法」の全体を通じて、『論理学』がかつての「形而上学」に取って代わりうる「学」を、自らの「思弁的」方法論を通じて提示しえていること、そしてまた今や『論理学』が、「主観的論理学」で示される本来的な「論理学」を基礎づける「学」として立ち現れようとしていることを結論づける。それら二つの原理が、いかにして本来的な意味の「論理学」の枠組を規定しえるものであるのかは、本論文の「結論」部において、ヘーゲルの「無限判断」を中心とした判断論に沿って素描を試みる。