第一部 『東醫寶鑑』の成立と医学史的意義

 朝鮮初中期の文化的背景は、国家主導による儒教思想と郷薬医学の導入に要約することができる。朝鮮建国時期、学問活動が可能な士大夫階層はもちろん一般の庶民階層においても儒教思想による社会文化や儀礼規範、心身を修養しようとする養生への高い関心が定着していた。そこで自身の人欲を節制することで身体性としての気を乗り越えようとする自己調節を実践して「天理の道」に至ることを目標とするようになったのであり、儒・仏・道の三教が共通の価値追求ということから調和合一するようになったのである。こうした思想思潮に従って、多数の朝鮮の学者は「格物窮理」の精神を持って人間の体と心について深く探究するようになり、朝鮮中後期になってからは儒学が発展し、「朝鮮性理学」と称される高い水準の学問的成果を収めるようになり、医学研究においても国家と個人による多様な医薬書編纂業績として結実するようになった。朝鮮は中国の朱子学を継承し、人間を理と気の両面性に分けて激しく論争し、「朝鮮性理学」という特殊性を持つようになり、自国産の郷薬を活用する政策意識を持って「韓医学」と呼ばれる独自の学問体系を備えるようになった。

 第一部・第一章「『東醫寶鑑』の成立における医学と社会の情況」では、第一節「中国と朝鮮の医学交流」及び第二節「一」「朝鮮初中期の思想文化と郷薬医学」において当時の社会的背景を考察し、朝鮮初期の民衆における医療恵沢の不足という実情を考慮した王室の仁政・愛民精神が実現されることで『東醫寶鑑』が誕生したことを明らかにした。また、第二節「二」「『東醫寶鑑』成立前後の東アジア三国における医学的影響関係」において、各国の研究者による詳細な資料を利用しながら、『東醫寶鑑』の編纂に基盤となった医書を分析し、『東醫寶鑑』が東アジア各国の医学に与えた影響、学術的成果、臨床医療の発達・変化の様相を記述した。

 第二章「『東醫寶鑑』の編纂過程と参与した人物の特性」では、宣祖と許浚、そのほか編纂に任命された助力者たち、許浚の生涯と彼に影響を与えた柳希春・楊禮壽・鄭碏などの人物について記述した。特に、戦乱前後にわたって、『東醫寶鑑』執筆の任務を完遂した許浚が「儒醫」という特殊な社会的位置にあった事実に着目し、中国と朝鮮にとって「儒醫」とは何かについて、その定義及び特質を総合的に考察した。その結果、許浚は道教的人体学と医学知識、儒・仏・道の諸経典に通暁した博識な人物であり、思想的な多様性を持った人物であったことが明らかとなった。また、許浚は『東醫寶鑑』の叙述において中国の六朝時代から唐代にかけて薬物中毒の弊害が多かった道教の外丹的方法を排除し、内丹的養生術に関する記述を選別・収録したことを強調した。

  

 第二部 『東醫寶鑑』の編制構成と道教的人体観

 第二部・第一章「『東醫寶鑑』全篇の構成」は、「内景」・「外形」・「雜病」・「湯液」・「鍼灸」の5篇から成る編制について記述した。『東醫寶鑑』は人体を内部の中心[内臓]について論じた内景篇と、外部の手足及び感覚器官[外形]について論じた外形篇とに分けられており、両篇を通じて全体を理解する独特な観点によって構成されている。そして、病症のみをまとめたものが雑病篇であり、薬処方と薬材に関する情報のみを集約したものが湯液篇であり、鍼灸療法に関する知識を収録したものが鍼灸篇である。前篇(「内景」・「外形」)において全体的な人体論を概観し、後篇(「雜病」・「湯液」・「鍼灸」)において疾病とその治療法を記述したところが既存の他の医書と異なる『東醫寶鑑』独自の特徴である。構成の部分的方法を見てみると、内景篇を初頭に配置して人体の中心を脳髄[頭部]と五臓六腑[腹部]との繋がりとして論じ、外形篇に載せられた部位と器官を内部と連結された体表[末]として認識する思惟方式を採択し、そこにもう一つの特徴を形成されていることが分かる。雑病篇は、伝統医学で病症を診断する方法として天地運気・審病・弁証・診脈に先に言及し、治療法として用薬・吐・汗・下を記し、病症が発生する原因については身体の外部要因・内部要因・内外両方の要因に分けて紹介している。

 既存医書に見られない『東醫寶鑑』の独特な成果としては、婦人と小児の疾病や健康管理の方法を専門的に研究し、総合的医書として編成したことが挙げられる。湯液篇は、初頭の薬物学に関する総論を叙述した「湯液序例」と各種の薬材を記載した各論から構成されている。湯液篇は、郷薬材と唐薬材とを区分するとう記述方法を採択している。郷薬材には漢文名称とハングルの薬材名を併記し、唐薬材には漢文の薬材名のみを記載し、薬材名の上に「唐」と表記している。許浚は湯液篇の叙述において薬材の名称を記入してから薬性と薬味について記し、その主な効果を記載している。鍼灸篇は「鍼灸」門だけで構成された有一門の形式を持ち、鍼灸の原理や実際の活用法のような臨床医術に必須の内容が記述されている。

 第二章「『東醫寶鑑』の道教的人体観と養生論の展開様相」では、まず内景篇の「身形藏府圖」について分析した。「身形藏府圖」は天地の構図によって顔面の呼吸器から下丹田までの呼吸する人間の姿を天人の間で疎通するメカニズムとして形象化した人体図だとされている。また、「身形藏府圖」について道教的目的を持っている人体図という理由は、「神の内守・気の流れ・精の保存」という道教的身体観及び養生論の三つの共通法則を従うためである。「神」は体内の主導能力であり、知恵と聡明の根源であるため、体内において守るべきであり、「気」は人体の出入り口、貯蔵及び通路の原理であり、持続的に「流れる」ことを意味し、「精」は人体の生成と寿命の源泉のようなものであるため、枯渇されてはいけないし、神と同様に体内において保存されるべきものである。『東醫寶鑑』はこうした人体原理を踏まえて医学理論を展開したが、この身体観は古代中国の黄老思想に基づくものである。中国伝統医学に継承された黄老思想の要素は、天人相関論、数秘学的思惟、養神主義または心性修養の重視、五臓神説、心君主論などに要約することができる。

 ここで「身体の中心」に関して深く議論をしたが、人体の中心をどこに置いて見るべきなのかという問題は、本論文の主な探究テーマである。身体の主要中心部に関する議論は、道教養生術と医術における主眼点と分岐点を論ずるものといえる。古代の黄老道家は、五臓神の中で「心臓」に居する神が最高の君主格だと述べているように、人体の最も重要な中心部を「心」と見たのであるが、心臓神が治める命令に従い心臓の神を保存することが生命の保全と養生の核心であったのである。また、精を生命力の源泉と見なしたこと、精が生成・貯蔵される器官である命門が位置する「腎」を下丹田と称して重視したこと、また頭脳部を上丹田と称して心臓部を中丹田と称した道教の三丹田論についても検討した。三丹田は気のルート、つまり呼吸の移動経路である。三丹田論では、人体の中心を一つの所に固定して見るのではなく、人体を流動するものとして認識し、上・中・下に三分することで各部位の重要性を均等に分散させることが可能となる。ここで「心」を神の居所としてではなく、血液の生成及び供給器官の心臓として認識することが道教から医学へと進歩する分岐点となる。こうして既存の心論は、「心神」と「心臓」とに二分化され、「心」に関する認識がより精密に進展した。

 三丹田の上・中・下の図式による「呼吸による気の移動ルート」を見ると、「天」という外部的自然から「地」という人体の内部へと気を引き入れ、上部の気道、胸部の心肺[上気海]、腹部の腎[下気海]を通って、最後に足部の気街[承山穴・踝の上下]に到達するようにし、その後同じルートに沿って息を吐くという反復運動が行われることが分かる。またこれに関して、「呼吸」という言葉の中には、「天」の神性が込められた気を口[出入口]を通じて体内に「呼び入れ」、物質性としての精が貯蔵されている腎を経て、足部の地面に「及ぶ」ようにするという語源的意味があるのではないか、と論者の解釈を提示した。また、このようなルートでは、気の呼吸に止まらず外部から飲食物を摂取して消化吸収し、栄養素を上部に移動して精気や神気を体表に発現させ、排泄物を下部に移動させて排出するという反復運動が行われるが、そこにも三丹田の呼吸と同じ原理が働いていることを指摘した。

 最後に、『東醫寶鑑』内景篇と外形篇を連続的に分析することで内臓と外官との連結関係を明らかにし、それが人体と外物が互いに感応するように備わった先天的形態のシステムだという本論文の観点を提示した。第一に、精は腎が主管し、腎に関わる外形の部位や器官を通じて精の状態が表れるようになることを指摘した。内景篇と外形篇によると、腎が主管する系列としては、骨(背・腰・歯・足)・髪・臍・耳がある。第二に、気は呼吸系列の心肺を通じて身体内外を出入りする。内景篇と外形篇の記述を通じて呼吸器官に属する心と肺は、各々舌と脈、皮と毛髪を主管することを明らかにした。第三に、神と五臓の精気が発現する能力及び病症の表面化に着目し、頭部・顔面の感官が持つ「通路と知覚機能」の両面性について考察した。そして、① 頭と鼻は、天谷によって神を蔵し、外気を通過させることによって神が出入りする器官であること、② 顔面と眼は五臓との配当関係を持ち、臓腑の精が集合して神が発する部位であること、③ 眼と口舌はともに出入り口・竅としての側面と知覚機能を備えた筋肉体としての側面の両面性を持つこと、の三つの要点を指摘した。