本研究は、オーストリア・ウィーンの言語哲学者であるL. ウィトゲンシュタイン(1889–1951)の後期哲学を「アスペクト(Aspekt)概念を視座に据えて統一的に捉えようとするものである。

 

 まずもってアスペクトという概念は、かれの心の哲学、すなわち「何かに心があるとはどのようなことか」の探究において重要な役割を果たしている。「<内的な出来事>は外的な規準を必要とする」という『哲学探究』の一節にも象徴されるように、後期ウィトゲンシュタインは、秘匿された内界としての心という描像をはっきりと拒否している。しかしウィトゲンシュタインは、いわゆる行動主義者ではない。内界としての心という描像を拒否しつつも、物と対比された意味での心というものにしっかりと場所を確保しようとしているからである。その確保にあたって鍵となるのが、晩年のテキストで使用される(行動パターンではなく)「生活パターン(Lebensmuster)」という概念である。「パターン」よりもむしろ「生活」のほうに力点が置かれたこの概念をかれは、われわれ人間の生がもつ複雑さや不規則性に焦点を合わせるために用いている。ウィトゲンシュタインによれば、概念の基盤にはつねにわれわれの生活があり、本質的に異なる生活だけが本質的に異なった概念を作り出すことになる。しかしわれわれの生活は、メトロノームのように規則的なパターンを反復しているわけではない。むしろ、不規則に進行し、第三者からも予測不可能な非常に複雑なあり方をしている。

この生活パターンの不規則性によって、目の前の存在者の振る舞いは、一義的には解釈されえず、様々なパターンの一部になる可能性にひらかれる。それはつまり、振る舞いが表情性、アスペクト性を帯びるということに他ならない。ウィトゲンシュタインは、この振る舞いのアスペクト性の有無こそが、心をもつものともたないもの、規則的なパターンを刻む機械や単純な生を送る生き物と、われわれ人間とを分かつものだと見なしているのである。

 ところで、ウィトゲンシュタインの遺稿や講義録を紐解いてみればすぐわかるように、かれは、このアスペクト概念をより豊かで射程の長いものとして用いていた。その射程範囲は、個々のことばや文、さらには、後期哲学を象徴する「言語ゲーム(Sprachspiel)」にまで及んでいる。ウィトゲンシュタインは、ことばや言語ゲームに適用されるアスペクトのことをとりわけ「ポイント(Witz)」と呼んでいる。目的や勘どころ、ウィット、眼目、冗談等々の意味で日常的に使われるドイツ語だが、かれがこのことばに対してかけている負荷には非常に大きなものがある。というのもかれは、ことばや文、あるいは言語ゲームの「意味」を、このポイントという概念によって一挙に捉えようとしているからである。つまり、アスペクト=ポイント概念は、ことばの意味の探究としてのかれの言語哲学の方法一般を特徴づけるものとしても、決定的な役割を果たしているのであり、ウィトゲンシュタインにとって「哲学の問題とは、ポイントの問題」(MS 150 12)なのである。それゆえこの概念の解明なくして、ウィトゲンシュタイン哲学の全体像に迫ることはおよそ不可能だと言える。しかし皮肉なことに、ウィトゲンシュタイン哲学におけるこの概念の意義の大きさに釣り合うだけの十分な研究成果は、国内外を問わずこれまでほとんど示されてこなかった。こうしたウィトゲンシュタイン研究の状況下にあって、本研究はこのポイント概念の解明に正面から取り組むものである。

 

 本研究は、ウィトゲンシュタインの心の哲学を扱う第I部「心とアスペクト(Aspekt)」(1、2章)と言語哲学を扱う第II部「意味とポイント(Witz)」(3–5章)、および付録A、Bからなる。

 第1章では、かれがどのような意味で行動主義者でなかったのかについて論じた。行動主義は、心的な諸概念を何らかの行動パターンに関する概念と同一視することによって、じっさいに特定の心的状態にあることとそのような振りをすることの区別、ならびに、物的/心的という区別を潰してしまう。それに対しウィトゲンシュタインは、内界としての心という描像に訴えることなく、「振りをする」、および「心」という概念にしっかりと場所を確保しようとしている。その確保にあたってウィトゲンシュタインが着目したのが、われわれ人間の生活の複雑性、不規則性であった。この生活の複雑性や不規則性こそが、何かによって物理的に遮蔽されたり、隠されていたりするわけではないにも関わらず、なお見てとれない心なるものを生み出しているのである。そして振りをすることと実際にそのような心的状態にあることとの違いも、他人にアクセスできない私秘的な意図の有無ではなく、生活パターンの複雑さの程度の問題として捉え返されることとなった。

 第2章では、物的概念と心的概念の違いを、それらを使用してなされる判断の言語ゲームのルールデザインに即して明らかにした。物に関する判断と心に関する判断のゲームを比較したとき、不一致が生じたときのわれわれの反応の仕方が異なることにわれわれはすぐに気がつく。多数の人が喜んでいると判断するところでそのように判断しない者への反応と、赤を赤でないと言う人に対する反応は同じではない。このルールデザインの違いは、何に由来し、また何を意味するのか。ここでも重要となるのが、われわれの生活パターンの複雑さである。この生の複雑さによって、現に観察される他者の振る舞いが、様々な生活パターンの一部になること、つまりはアスペクトをもつことを可能にしている。生活の不規則性とそれに由来する予測不可能性が、人間の振る舞いを、規則的なパターンを刻む機械や単純な生を送る生き物にはない、様々なアスペクトをもつものにしているのである。これこそが、判断の発散を許すものとして心的状態の判断の言語ゲームのルールがデザインされている事態の真相である。

 つづく第II部「意味とポイント(Witz)」(3–5章)は、ウィトゲンシュタインの言語哲学におけるアスペクト=ポイント概念の位置づけを明らかにする作業に充てられた。

 第3章では、言語ゲームのポイントについて論じた。ここでは、Timo-Peter ErtzによるRegel Und Witz: Wittgensteinsche Perspektiven Auf Mathematik, Sprache Und Moral(2008)を批判的に検討し、通俗的なポイント=目的解釈をしりぞけ、言語ゲームのポイントを「ルール同士を序列化する視点」として新たに解釈した。それは、画像のアスペクトが「線描同士を序列化する視点」であるのとまことに類比的なのであり、この意味でポイントとは、アスペクト概念の一種であることが確認された。

 第4章では、ことば(文)のポイントについて論じた。言語ゲームのポイントが言語ゲームに対する見方や視点であるならば、ことばのポイントとは、ことばについての何らかの見方、とりわけことばの使用に対する見方であるはずである。ウィトゲンシュタインは、ある草稿において「意味とはすなわちことばのポイントのことである」(MS 130 43)と述べている。ではなぜ「ポイント」=「ことばの使用に対する見方」がことばの「意味」と呼ばれるに値するのだろうか。この問いに応じるにあたって筆者は「意味とは意味の説明によって与えられるものである」というウィトゲンシュタインの基本的なスタンスに着目した。そして、ことばの使用に対する見方(一次的/二次的、本質的/非本質的、統一的/非統一的)が、意味の説明のゲームにおいてじっさいにどのように与えられることになるのかを具体的に検討した。

 以上の考察をもとに、第5章では、言語ゲームのポイントでもなければ、ことばのポイントでもない「ポイント」概念一般についての特徴付けを与えた。一言で言えば、ポイントとは、何かを何かから区別するために、そしてそれだけのために使用される概念である。したがって、あることばをべつのことばから区別するものはすべて、ことばのポイント=意味になりうる。この点を押さえることによって、ウィトゲンシュタインの意味に関する議論を統一的に解釈することが可能となる。

 周知のとおりウィトゲンシュタインは『哲学探究』の43節において、ことばには使い方以外の意味があることを示唆していた。そして、使い方とは別の意味としてウィトゲンシュタイン解釈者たちは、しばしば「心理学の哲学」で論じられたことばの「表情」に着目をしている。しかし、ことばの表情とは、(ゲシュタルト崩壊や、意味が閃くといった場面のように)ある時点でのことばと別の時点でのことばとを区別するためのたかだかひとつのやり方に過ぎない。さらに言えば、ことばは、使い方や表情だけでなく、まさにその音や表記によっても区別されうる。つまり、音や表記こそがそのことばの意味であると正しく言えるような文脈もわれわれの生活には用意されている。使い方や表情、音・表記それぞれの観点から、ことば同士を区別する文脈があることによって、そのどれもがことばの意味となりうるが、同時にそのどれもが、ことばの意味そのものとはなりえない。ウィトゲンシュタインの哲学に即して「ことばの意味とは何か」という問いに一言で答えようとするならば、それは差異を確保することをその本質的な機能とする「ポイント」ということになる。

 以上の考察を踏まえ、筆者は最終的に、ウィトゲンシュタインという哲学者を、差異の哲学者として描き出した。