本論は、主として「六朝小説」を材料に、六朝人の精神活動のいくつかの側面を考察するものである。序論では「六朝小説」に關し、日中の學界に認識の違いがあることを指摘し、本論は「六朝小説」を虚構とみなす中國の學界の立場ではなく、事實の記録とする日本の研究者の見解に賛同して論を進めることを論述した。各章の要旨は以下のとおりである。

 

 第一章、六朝動物化人變身譚の源流―「化鬼變身譚」とのつながりという視點から

本章は、三國時代以降大量に現れた、動物化人變身譚の源流について考察を試みる。從來、動物化人變身譚は、インドに由來するという説が有力であった。事實三國時代に漢譯された佛典の中には、狐が人間の姿に變化して食べ物を探す話や、狐が美女に化け、人間を誑かす話が見える。しかしインドの原典を調べると、前者は狐ではなくジャッカルであり、動物のまま登場し、人間に變身することはない。後者もまたその正體は狐ではなく女夜叉である。佛典には、狐・猿などごく普通の動物が、人間に變身するという話はなく、狐が人に變身するというエピソードは、漢譯佛典において、初めて加えられたものである。これは佛典の漢譯者が、當時中國に存在した動物化人變身の觀念を取り入れ、改訂した結果と考えるべきであり、動物化人變身譚のインド起源説は、明確に否定されるのである。

 代わって筆者が注目するのは、中國では古くから、動物が「鬼(幽靈)」に變身するという觀念があったことである。戰國時代から漢末まで、六畜や狐などの動物が「鬼」に變化して人間に害を爲すというエピソードが樣々な文獻に記録されている。「動物化鬼變身譚」は、これまでほとんど研究の對象とされてこなかったが、筆者は各種の文獻から多數の類話を收集し、分析を加えた。

 その結果、遲くも後漢には、動物は人間の姿をした「鬼」に變化することができ、人間と樣々な關係を持つと考えられていたことが明らかになった。「化鬼變身譚」は、動物の化けた鬼が力ずくで人間を襲っていた段階から、後漢以降、人間心理を巧みに利用し、智惠によって目的を遂げるという段階へ次第に發展していった。この發展の方向にそって、三國・晉代以降、人間に變身して人を欺く動物の話が大量に生まれてきたと考えられる。「動物化人變身譚」は、「化鬼變身譚」を源流とし、中國固有の妖怪觀念から生まれたとするのが、本章の結論である。

 

 第二章、「陽鬼」と「赤鬼」―六朝時代までの中國鬼觀念の一側面

 本章は、近世に定着した「幽陰的」鬼の認識、つまり鬼(幽靈)は暗闇を好み、色は黑く、陰濕で冷たいという認識とは相反する「陽」の性質をもった鬼・赤色の鬼の觀念が、六朝時代まで廣く存在していた事實を論證する。

 『墨子』巻八「明鬼下」は二つの怨靈復讐譚を記載する。いずれも無實の罪で殺された者の幽靈が、真昼間に現れ、朱色の杖や弓矢を用いて仇敵を殺害する。一方の杜伯は弓矢に加え、朱の衣冠を身に着けていたと記される。

 王充『論衡』「訂鬼篇」には、「鬼は陽の氣からなるものである。ゆえに世間の人が見る鬼はみな真赤(純朱)である」という記述があり、同書「言毒篇」は杜伯の故事に觸れ、「鬼の持ち物は陽火の類である。ゆえに杜伯の弓矢は赤い」と述べている。このように鬼やその身に着けるものが赤いと記されるもの、あるいは鬼が燃え盛る炎を伴って現れるという記述は、六朝志怪に多數見つけることができる。これは怨靈の怒りに對する人間の恐れが、觸れたものを燒き破壊する「火」と、炎の赤に具現化したものと考えられる。

 一方六朝の文獻には、鬼を陰的なものとして記述する例もある。死者は、死後直ぐに冷たくなり、地下に埋葬されるという經驗的事實から、幽鬼を陰的なものと捉えるのは自然なことであろう。六朝の鬼の觀念には、陰陽二種の鬼が、異なる原理に基づき併存していた。しかし鬼の「陽」の性質と赤い鬼のイメージは、唐代以降殆ど忘れられてしまう。その原因は、「人間は陽の存在・鬼は陰の存在」という觀念が確立し、それに抵觸する鬼の像は、不合理なものとして排除されたためであろう。その結果唐代の詩や傳奇小説には、冷たく青白い「鬼火」の描寫が現れる。この火にはもはや人間を燒き滅ぼす力はない。鬼は人間を直接的・物理的に苦しめることで恐れられるものではなく、いつの間にか人間を侵食し、呑み込んでいく、不可知の闇の存在を暗示することで、恐怖を與えるものとなる。「鬼火」は六朝と唐の間に起こった鬼の觀念の大きな變化を鮮明に示すものである。

 

 第三章、古代中國の鬼の衣服について―六朝志怪小説に記載された鬼の衣服描寫を中心に 

 本章は、六朝小説に、幽靈の意味での鬼の衣服が克明に記載されるという事實に着目し、先秦から唐代まで、鬼の衣服がどのようなものと捉えられ、描かれてきたかをたどり、その間に生じた變化の意味を考察する。

 先秦時代には、幽靈は裸で被髪であるとする觀念がある一方、幽靈が記載される場合も、衣服に言及されることはほとんどなかった。出土資料によれば、遲くも戰國末期、秦の社會では、死後の世界で死者が衣服を必要とするか否かが問題とされていた。

 漢代に、衣服を纏う幽靈の形象は一般に受け入れられるものとなり、裸の幽靈になるのは恥ずかしいこととされた。また漢代に、鬼の衣服は、死者の葬られた時の衣服、あるいは生前に着ていた衣服と同じであるという觀念が形成された。

 六朝志怪の筆者は、鬼の衣服に關心を持ち、丁寧に記録した。漢代以降、あの世は、官僚組織を備えた階層社會と考えられるようになり、鬼の衣服は、それを着る者の社會的身分を提示するとともに、あの世の社會の實情を知るための情報とみなされた。佛教思想の廣がりに伴い、六朝時代には、生前の身分・家柄に關わりなく、死後の境遇は變わり得るという觀念が浸透した。人々の不安は増し、死後の世界の情報に對する欲求は増大した。鬼の衣服の記録が大量に殘されているのはこのような理由によると考えられる。

 唐代小説において、鬼の衣服に對する關心は急減した。鬼の衣服は、もはや貴重な情報ではなく、その描寫は、文學作品の完成度に關わる一つの因子と認識された。時には、亡くなった時の衣服が鬼の衣服となるという漢代以來の觀念を用い、また時には、生前の衣服は死後すべて脱ぎ捨てられると主張するように、鬼の衣服は個々の作品の要請に應じて自由自在に運用された。六朝小説は記録であり、唐代小説は文學創作であるという大きな落差は、鬼の衣服の描寫にも見て取れる。

 

 第四章、鬼怪を食べる話

 古代中國の文獻には、妖怪や奇怪な生物を食べるという記述を數多く見出すことができる。そのうち善神が悪鬼を食べるというタイプは、辟邪思想に基づくものとされ、わずかに研究が行われているが、本章は他にも二つのタイプがあることを示した。一つは遠隔の地に棲む怪物や、千年の長壽を保つ蝙蝠のように、世にもまれな存在を食べることで、特殊な能力が得られるとするものである。もう一つは、人間の周圍にいて害を爲す妖怪を、人間自身が食べて退治するというものであり、後者は出土資料や六朝小説の中に、樣々な社會的身分の人の行爲として記録されている。

 唐宋以降、鬼怪を食べることに對して禁忌意識が生じたが、完全にはなくならず存續した。

 

 第五章、六朝小説と佛典の關係に關する一考察―「愚公移山」「荀勖・鍾會」「桓温・女尼」などの話を例として

 佛典のなかの物語が六朝の小説に取り入れられ、中國風の話に變容した實例は、先行研究によって多數指摘されている。しかし、六朝小説の中には、まだ他にも佛典とつながりのあるものが數多く存在する。本章は、比較的よく知られた四つの話の源が、インド系の話にあることの論證を試みた。うち一つの例を擧げる。

 〔南朝宋〕劉義慶『幽明録』及び〔南朝斉〕王琰『冥祥記』所載、「桓温の前で自分の身體を切り刻む比丘尼の話」は、〔西晉〕竺法護譯『生經』「佛說比丘尼現變經」を源とすることを明らかにした。次にこの發見をもとに、以下の觀點を提示した。

 自分の身體を切り刻む比丘尼というエピソードは、インドから中國へ傳來した後、その主旨を逆轉した。インド説話のスパー尼は、自分の眼を賛美する男に對し、「好きならば、これを持っていきなさい」と言い、實際に自分の眼をえぐり出して與える。眼をえぐり出すことすら辭さないスパー尼の行爲によって、肉體の美のように虚しいものに執着することを戒める、というのがこの話の主旨である。これに對し、桓温の前で行われる尼の行爲は幻術によるもので、身體はたちまち原狀を回復する。自分の身體を傷つけて、佛の教えを説くという行爲は、中國では理解されず、恐怖をもって受けとめられた。そして肉體への執着を戒める話は、むしろ肉體に對する執着に訴えかけ、自分の身體が傷つけられる恐怖を喚起することで、桓温という實在の人物を教導する話へと變貌した。ここには中國とインドの文化の間に横たわる根本的な差異を見ることができる。

 

 附論、『山海經』「海經」の成立と鄒衍の祥瑞思想の關係     

 『山海經』に記載される海外の異獸の中には、鄒衍書と共通する記載が見える。また一部の異獸は『逸周書』に異國から獻上される動物として記載されており、「海經」は『逸周書』の情報を繼承しながら、神秘的要素を付加し、祥瑞動物化を進めたことが見て取れる。「海經」に記される多くの異獸と異國の人間は、漢代以降一種の祥瑞として受容されており、『山海經』の書自體、漢代に祥瑞災異情報の索引書としての性格を有した。以上を踏まえ。『山海經』が内包する祥瑞觀念について考察するとともに、『山海經』「海經」の成書問題についても回答を試みた。