本研究は、イスラーム初期の宗教指導者である十二イマームに関して編纂された、イマームの美質の書という文献群を主史料とし、12–14世紀西アジアにおいてスンナ派とシーア派がその編纂活動の中で互いをどのように認識し、影響を及ぼし合っていたかを、両派の置かれた政治的・社会的背景も含めて考察するものである。これまでの研究において、この時代のスンナ派とシーア派に関しては2つの大きな変化が議論されてきた。第一は一般的にシーア派の崇敬対象であるとされる十二イマームがスンナ派の間でも崇敬されるようになるという十二イマーム崇敬の隆盛であり、第二はイラクの都市ヒッラでシーア派諸学問が発展し、同市出身者を中心としてイラクのシーア派学者たちが為政者と密接な関係を築いていったという現象である。本研究では、この2つの研究蓄積を踏まえ、十二イマームへの超宗派的崇敬が広まる中で、イラクのシーア派学者たちがそれといかに関わろうとしたか、そしてそこでの彼らの政治的な目的とは何かを明らかにする。さらに、彼らのイマームの美質の書編纂の活動をスンナ派・シーア派関係史の中に意義づけることを目指す。

 第1章では、イマームの美質の書の編纂史と、その中で本研究が「超宗派性強調型」と呼称する美質の書の特徴を示す。高貴さを持つとされる特定の人物やモノ、都市などについての伝承を集めた美質の書という文献ジャンルにおいて、アリーや彼を含む十二イマームは繰り返し扱われたテーマの一つであった。そこでは、彼らの持つとされる血統や事績、奇蹟などの美質に関する伝承がまとめられた。自らの属する宗派が支持する宗教指導者の美質を語ることは、自派の正当性の主張はもちろん、時に他派の宗教指導者や教義への批判・否定にも繋がった。スンナ派は正統カリフや教友たちを支持する美質の書を、シーア派はアリーや十二イマームを支持する美質の書、すなわちイマームの美質の書を、各々の学術環境の中で編纂し、教義を整えていったのである。

 12–14世紀イラクのシーア派学者たちは、それまでの作品には見られない性質を持つイマームの美質の書を編纂していた。それらの作品は、①記載される伝承の半数以上または全体がスンナ派文献からの引用、②引用元としての文献の重視と情報源の明示、③著者のシーア派的立場の明示、④スンナ派に対する明示的批判の抑制、という4つの内容面の特徴と、⑤為政者への献呈を目的としての、または為政者に近しい関係においての編纂、という作品の成立背景に関する1つの特徴の、合計5つの特徴を持つ。スンナ派文献を多用し、十二イマームをスンナ派にとっても崇敬すべき対象であると示そうとするこうしたイマームの美質の書を、本研究は「超宗派性強調型」作品と呼称し、主たる分析対象とする。

 第2章から第6章までは、イラクのシーア派学者たちによる個々の超宗派性強調型作品の検討を行う。第2章では、超宗派性強調型に該当する最初の作品である、イブン・ビトリーク・ヒッリー(1204または04–05没)の著したアリーに関する美質の書『支え』と、類似の方法で補足的作品として書かれた『補遺』と『啓示の美質』を分析の対象とする。『支え』はその序文の記述から、アッバース朝カリフ・ナースィル(位 1180–1225)に献呈されたことがわかる。同じく序文では、同書がスンナ派文献からの伝承引用のみにもとづくことが明示されている。作品全体を通じて、典拠を示しつつスンナ派伝承を用い、スンナ派批判は抑制される。一方で、十二イマームの存在やマフディー(救世主)の問題などでは、スンナ派伝承を並べながらも、シーア派教義へと誘導しようという意図が見られる。イブン・ビトリークの一連の作品は、当時親シーア派、親イマーム的政策を展開していたカリフに対する、イラクのシーア派学者たちからの支持を示すものと位置づけられる。

 第3章では、ラディーユッディーン・アリー・イブン・ターウース(1266没)によるアリーの美質の書『確信』が、アッバース朝からイルハン朝への王朝交替やスンナ派の十二イマーム崇敬の隆盛といった状況においていかなる目的で編纂されたかを検討する。13世紀前半にスンナ派によっても十二イマームの美質の書が書かれるようになると、ラディーユッディーンはそれらを引用しつつ『確信』を著した。彼はアッバース朝政権とシーア派住民の関係が悪化していた時期にスンナ派批判書『珍奇』を著していたが、イルハン朝が成立し、彼がその下で統治に協力するようになると、スンナ派への名指しの批判を避ける形で『確信』が編纂された。

 第4章は超宗派性強調型作品の中で最大の作品である、アリー・ブン・イーサー・イルビリー(1293または93–4没)の『悲嘆の除去』を扱う。イルビリーはイルハン朝のバグダードの財務長官アターマリク・ジュワイニー(1283没)に仕えていた時期に同書の編纂を始めた。同書では、美質の書をはじめとする種々のスンナ派文献に含まれる伝承と、シーア派文献のうちで比較的穏健な内容の伝承とが効果的に配置され、十二イマーム全体が超宗派的崇敬対象として描かれる。当時利用できた文献を幅広く集めた同書は、同時代や後代のスンナ派学者によるイマームの美質の書や関連作品にも繰り返し引用されることになった。

 第5章では、シーア派史上最大の学者とも言われるアッラーマ・ヒッリー(1325没)が、シーア派に改宗したイルハン朝君主オルジェイトゥ(位 1304–16)に献呈したアリーの美質の書『確信の開示』を検討し、その半年前に同様に献呈され、スンナ派への激しい批判を含む作品『高貴さへの大道』との性質の違いを考察する。この性質の違いは、アッラーマ・ヒッリーが宗教助言者として仕えたオルジェイトゥの、改宗前後のシーア派政策の変容を反映していると考えられる。宮廷内での宗派間論争が激化した時期にそれと呼応するように『高貴さへの大道』は書かれたが、改宗後にオルジェイトゥがスンナ派への配慮を示すようになると、その転換に対応するようにスンナ派批判を抑制させた『確信の開示』が著されたのであった。

 第6章では、超宗派性強調型作品の衰退期を扱う。『シーアの行く道』は、ジャラールッディーン(14世紀後半に活動)がイラクを支配したジャライル朝の君主シャイフ・ウワイス(位 1356–74)に献呈したアリーに関する美質の書であり、その内容の多くは『確信の開示』にもとづいていた。しかし、この作品以降には同様の特徴を持つ作品は書かれなくなる。一方で、イラクのシーア派学者たちによる美質の書編纂活動自体は継続され、イブン・ミウマール(1341–2没)がアリー一族を讃えつつスンナ派を批判する美質の書『托鉢の器』を著すなど、14–15世紀にも他の性格を持つ作品が残された。超宗派性強調型作品が衰退した理由としては、スンナ派の十二イマーム崇敬が拡大し、その超宗派性を敢えて強調する必要がなくなったことや、イラクのシーア派学者らが自らの宗派性を隠し、別の分野での著作活動を通じて為政者に接近するようになったことなどが考えられる。

 第7章では、スンナ派学者サドルッディーン・ハンムーイー(1322没)の十二イマームの美質の書『二本紐の首飾りの真珠』に焦点を当て、ヒッラのシーア派学者たちから彼への宗派を超えた伝承教授を分析する。イラン高原出身で高名なスーフィー家系に属したサドルッディーンはヒッラのシーア派学者たちから、スンナ派伝承とシーア派伝承の双方を学んでいた。美質の書編纂者以外のイラクのシーア派学者たちもまた、十二イマーム崇敬の隆盛を利用し、イマームに関心を持つスンナ派たちに対し、自らの宗派を超えた幅広い知識をアピールして接近していたのであった。

 第8章では、スンナ派批判に主眼を置く美質の書や関連作品を分析し、超宗派性強調型作品が編纂される政治的・社会的な背景とは何かを考察する。スンナ派への明示的な批判を展開する作品はイラクだけでなくイランのシーア派学者たちによっても書かれたが、いずれも政治・社会情勢の変化からシーア派の地位が向上もしくは危ういとされる時期に編纂された。美質の書の性質は、著者自身の関心だけでなく、為政者の政策やシーア派の置かれたの状況に応じて選択されたと考えられる。

 終章では、ここまでで明らかにしてきた超宗派性強調型作品編纂の諸特徴をまとめ、本研究の意義を示す。超宗派性強調型諸作品は前述の5つの特徴を共有しながらも、十二イマーム崇敬の広がりや編纂目的に応じて、扱うイマームの範囲やスンナ派文献の提示方法を変化させていた。そして、為政者やスンナ派の十二イマーム崇敬を利用し、シーア派の立場を強固なものにしようとしていた。同型作品の中で最も大部かつ多様な文献を利用した『悲嘆の除去』は、イマームに関心を持つスンナ派学者らにとっても重要な文献として受容されていった。十二イマーム崇敬をめぐるスンナ派とシーア派の関係は、両派が互いの信仰のあり方や共通性に関心を寄せ、自派と他派の思想やその境界を議論しようとした「対話」の歴史と意義づけることができる。本研究全体を通じて、中世イスラーム時代の両派が持つ宗派意識の多様性と柔軟性を明らかにすることができた。

 補論では、先行研究で「宗派意識の希薄なスンナ派」とされることの多かった、十二イマームを崇敬するスンナ派学者たちに着目する。そして、彼らの残した十二イマームの美質の書に示される、彼らの宗派意識に関する記述を分析する。こうした著者たちは、特にシーア派教義と密接に関係する、第12代イマームをマフディーとみなす問題において、宗派意識を表明する傾向があった。この問題に関する彼らの立場を仮に「脱シーア派的肯定論」、「スンナ派・シーア派混交的肯定論」、「否定論」の3つに分類し、それぞれの特徴や後代の議論への影響を明らかにする。