アルベール・カミュが小説家としての長い沈黙の時期を通り抜け、1956 年と57 年に立て続けに上梓した『転落』および『追放と王国』の二作が読者らに強く印象づけるのは、まず何よりも彼の作風のあまりに大きな変貌、そしてその悪夢的なまでの沈鬱さである。前者においては主人公による饒舌かつ皮肉に満ちたモノローグの形をとりながら、同時代の社会に対するきわめてペシミスティックな考察が展開され、後者においてはそれまでのカミュ作品より遥かに荒涼とした風景のもとで、ひたすら苦悩する登場人物らの姿が描かれる。本論においてわれわれが試みたのは、カミュの小説作品が被ったこのような変容について説明するために、ひとつの作品集としての構想から分岐したこれら二作を考察の対象とし、政治的孤立と筆力の枯渇に喘いでいた1950 年代のカミュにおいて、文学による表現行為がいかなる意味を帯びるものとなったかを明らかにすることである。
 従来の研究において『転落』や『追放と王国』は十分に顧みられてきた作品とは言いがたい。それぞれの物語や挿話が個別の関心から言及されることは数多あるものの、この時期のカミュの物語群をひとつの連続性のうちに置いて詳細に論じた研究はきわめて少ない。未完の遺稿『最初の人間』が1994 年に死後出版されてから後期の作家像は大きく更新されてきた反面、『転落』や『追放と王国』がその新たな文脈のなかで持つ意味については近年まで十分な再検討がおこなわれてこなかった。本論ではそれぞれの物語について、現実の世界から虚構のなかへと流れ込んでいる様々な社会的分断の描出に焦点を当てながら、最晩年の「愛」をめぐる作品系列の構想を前にカミュがとった迂回路を辿りなおし、その全体像を記述することを目指した。カミュが失意のなかで自らに課した創作は、幾重にも分断されてゆく世界のなかでの実践として、いかなる積極的な意味を獲得していったのだろうか。
 本論は『転落』と『追放と王国』をそれぞれに分析対象とする二部からなる。
 第Ⅰ部では、『転落』の語り手ジャン=バティスト・クラマンスのモノローグを成立させているアイロニーの諸相を辿ってゆき、この物語の執筆においてカミュの小説作品の創作をめぐる理念がいかなる展開を見せたのかを考察した。
 第1章では、裁きという主題が懐胎された契機として『反抗的人間』をめぐるサルトルらとの論争の経緯を辿りなおした上で、『転落』が持つ実存主義哲学者らへの応答としての性格を検討した。そしてこの作品において、カミュがマルクス主義者らのうちに看取した理性の過信や神の否認といった人間主義の無節度が、クラマンスという語り手/登場人物によって戯画化され、演じられると同時に批判されていること、また、そうした戯画があくまで抽象化または脱歴史化されることで、物語が論争ありきのテクストにとどまることが忌避されていることを確認した。
 第2章では、『転落』においてダンテの『神曲』や旧約聖書といった伝説や神話が参照項として持ち出されていることを手掛かりとして、それらの伝説や神話が小説内でいかに変奏されているかに焦点を当てた。意味を反転させられた宗教的モチーフの数々は、人間同士の裁き合いが際限なく進行する世界を描き出しているのであり、主人公がそのような世界のありようをシンボルの歪曲によって諷刺するとき、当初において戯画的人物として着想されたクラマンスのモノローグには、逆説的にも作家自身の声が混ざり込むことになる。
 第3章ではさらに、クラマンスの転落劇の実質的内容をカミュ自身の経験との関連において解釈することを試みた。クラマンスはある日何者かの「笑い声」を聞いた瞬間から、自らの敵への警戒心を呼び覚まされ、次いで罪過への意識に苛まれはじめるが、敵対する人間同士の絶えざる裁き合いの磁場のなかで、自身のうちにも裁かれるに値する部分を見出し、矛盾に引き裂かれるという経験は、戦後カミュ自身が生きたところのものでもあったのである。
 カミュにとって、『転落』の執筆は多重のアイロニーによって自己と自己に反するものとが同一の登場人物の声の上で重なり合ってゆくという出来事だったのであり、それは少なくとも部分的には作者の意図の外部で起こったにせよ、イデオロギーの分断を超えた共通の苦悩の発見へと作家を導き、カミュの文学作品に新たな表現の道が開かれる契機となったのである。誰もが互いの前で無罪たりえず、他者の裁きに晒されながら生きなければならないという現代の人間たちの共通の不安について、カミュはこの作品において、最も親しみを込めた形で、自らもまたその同じ世界に連なる者として語ったのだとも言えるだろう。

 第Ⅱ部では各章において『追放と王国』のなかの六つの短編を個別に取り上げて考察し、カミュにおける1950 年代半ばの中短編小説群の創作をより広い視野でとらえることを目指した。六編の物語の背景に常に何らかの社会分断の影が描き込まれていることを軸として、そこに当時の作家を苛んでいたイデオロギー的孤立やアルジェリアをめぐる情勢の反映を読み取りながら、それらとの関わりのなかで当時のカミュがあえて「追放」をめぐる創作を自らに課したことの意味を明らかにしようと試みた。
 第1章では「不貞の女」をめぐって、住民の大部分がアラブ人である内陸のオアシス都市において、主人公がフランス人としての、また女性としての、帰属をめぐる問いへと導かれてゆく過程を辿った。彼女がノマドたちの野営地に見出す王国、また彼女が夜の砂漠でおこなう神秘的にして官能的な体験には、自らにつきまとうそうした帰属の意味からの解放の夢が仮託されているのだということが、この分析によって明らかとなった。
 第2章では「背教者」を取り上げ、このテクストがカミュの論敵となった左翼知識人らの姿を戯画化している一方で、悪を志向する主人公の苛烈な独白が、喪失した無垢性や善良さへのノスタルジーによって揺れ動く点に焦点を当てた。その苦悩と葛藤、そして身体的苦痛の描出によって、作家は自身と背教者のあいだにかろうじて共感の糸を結ぶのである。
 第3章では「唖者」について、そのなかで言い表される海の喪失に、執筆当時の作家の行き場のない郷愁の反映を見るとともに、この物語が社会主義リアリズムの批判的再解釈としての側面をもつことを確認し、それをもとに物語がアルジェリアの貧しいヨーロッパ系労働者たちに焦点を当てていることの意味を考察した。
 第4章では「客」を取り上げ、アルジェリア戦争の文脈を改めて確認しながら、歴史が有無を言わせぬ形で他者の存在や個人の行為の意味を変質させるという事柄の表現として物語の筋を捉え直し、最終部でアラブ人がおこなう選択の意味についての新たな解釈を試みた。また、執筆の過程で、物語の結末が現実のアルジェリア情勢の深刻化と同期するような形で書き換わり、主人公がアラブ人との相互理解や共存の可能性から遠ざけられてゆくことを指摘した。
 第5章では「ジョナス」に描かれるひとりの画家の失墜劇を辿ってゆきながら、カミュによる当時の創作活動がいわば入れ子のように短編集のなかに配置されている点、そしてこの短編に固有の俯瞰的でアイロニカルな文体が、演劇的なアイデアを介しながら、芸術家と彼を取り巻く社会との関係を表現する上で大きな機能を果たしている点について考察した。
 第6章では、短編集の最後に配置された「生い出ずる石」について、それまで他の短編でも取り上げられていたテーマ̶̶人種・階層の断絶や宗教的・文化的差異̶̶の反復や、『転落』とのあいだに共通のイメージを分かち持つ主人公のトラウマについて考察した上で、最終部で彼が石を担い、それを河岸の小屋へと運んでゆくことの象徴的な意味について検討した。

 これら個々の短編の分析から浮かび上がるのは、1950 年代のカミュが、自らを取り巻く社会が幾重にも分断されてゆくなかで抱え込んでいたジレンマを、異なる場所、異なる境遇に身を置く登場人物たちが共有してゆく過程である。一方で、物語の主人公たちの造形は、カミュにとって自らとは隔たった存在を描き、他者の声を自身のテクストに宿す試みでもあった。歴史から疎外されながらも、同時に歴史のなかで意味づけられた生の重みから逃れることのできない他の人間たちの苦悩を、想像によって虚構のなかに創り出し、その複数性において示すこと̶̶それは現実のなかでさまざまな形で追放を生きる他者たちへの呼びかけであり、彼ら/彼女らとの対話の糸口を探る試みであっただろう。
 1950 年代のカミュがこれらのテクストを執筆していたのは種々の社会分断に引き裂かれながらであったが、そこに書かれているのは単に分断を憂えてみせる言葉からは程遠い。分断に満ちた現実を直視しながら、死という退路すらない苦悩について語り、その苦悩を現在時のものとして生きるよりほかない人々と物語の言葉を分かち合うことで、彼ら/彼女らを沈黙から解放する̶̶このような〈分断のなかの詩学〉にカミュが辿り着きえたのは、これらの追放をめぐるエクリチュールを自らに課すことを通してだったのである。この時期のカミュにとって、虚構はそれまでにも増して、現実を受け止め、理解し、そのなかで明瞭にものを見るための手段となったのであり、同じく苦悩に満ちた現実を生き続けるほかないわれわれが、せめて明晰であり続けるためにこそ、それらの言葉は20 世紀の一作家から、現代の読者にもまた差し出されているのである。