20世紀には戦争や民族浄化という惨状が頻発した。この記憶が当事者にとってどのような意味を持つのか、また後代にいかに伝承していくかが、現代社会における重要な問題となっている。背景は千差万別であっても、悲惨な出来事と結びついた場所は、紛争という直接的暴力を経験したどの社会にも存在する。
 戦争にまつわる文化遺産は、出来事の終結から復興・再建を経てポスト・コンフリクト(紛争後)期に至るまでの長期的スパンでの精査を要する。戦争についての記憶は、長期間にわたり当該地域・国家・国際社会の根幹を動かす動力源としても機能するからである。争乱が残した痕跡である戦争遺産が、いかなる記憶の力学によって文化的・社会的・政治的に構築され、かつ現在的意味を持つのかを読み取る意義は決して小さくない。
 本研究では、戦争遺産を多様な主体の記憶が交錯する場として捉え、戦争の当事者である退役軍人と遺族、また戦争経験を持たない戦後世代がその場所に様々な意味づけを行っていく文化遺産化の様相を探究する。具体的には、朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日)の遺産である韓国・釜山(プサン)広域市の在韓国連記念公園(United Nations Memorial Cemetery in Korea、以降「国連記念公園」)が、記憶の場としていかなる意味を持つのかを考察することを目的とする。
 この考察では、同公園の前身となった国連墓地(United Nations Cemetery)が 1951 年に国連軍司令部によって創設され、文化遺産へと変容していく歴史的経緯を吟味し、国連墓地から国連記念公園への変遷をたどる中で、多国籍戦没者の遺骸の専有をめぐって国際社会、韓国政府、地域社会の間に働いた力関係の実相をあぶり出す。そして、今日、朝鮮戦争への参戦国のうちの 11 カ国、2,315 人の戦争死者(2,304 人の国連軍兵士、11 人の非戦闘員)が奉安されている同公園をめぐる記憶が、多様なステークホルダーによっていかに伝承されているかを究明した上で、文化遺産としての今後のあり方を展望する。

 朝鮮戦争に関しては膨大な研究の蓄積がある一方で、世界唯一の国連の公式墓地である国連記念公園に関する先行研究は、現時点で十数点あるに過ぎない。これは、1960 年から1974 年の間に、国連軍司令部から国連朝鮮統一復興委員会(UNCURK)へ、また在韓国連記念墓地国際管理委員会への2 回にわたる管理主体の変遷に伴い、初期の史料が1970 年代に国連本部に移管されて以降、同史料の所在把握と入手が困難になったためである。
 これらの限られた先行研究は、歴史学などの各分野において有意義な学術的土台を提供しているが、国連記念公園を死者から生者へと記憶を伝承する場や、文化遺産として捉える観点は欠如している。また、同公園の起源をたどる調査はごく少数の文献に見られるのみであり、初期の国連墓地の形成には日本の九州でなされた戦没者の個人識別が重要な役割を果たしたにもかかわらず、国連墓地と個人識別の直接的な関連性についての検証はなされてこなかった。休戦70 周年を迎えた今日においても、存命の参戦兵士の同公園に根ざした記憶と口述資料を活かした研究体制は貧弱と言わざるを得ない。
 こうした先行研究の状況を踏まえ、本研究では国連本部傘下の国連アーカイブ(United NationsArchives and Records Management Section)での文献調査を通して特定した1960 年代の史料を分析し、従来の研究で十分に光が当てられてこなかった国連墓地の歴史の一端を解明した。さらに、アメリカ国立公文書記録管理局やオーストラリア戦争記念館、イギリス帝国戦争博物館、カナダ国立図書館・文書館などの参戦国の史料とともに、ブリティッシュ・パテ(British Pathé)の映像、韓国政府と国会の一次資料、国連軍兵士の記録といった多岐にわたる文献の分析を研究手法として採用した。
 これに加え、朝鮮戦争に参戦した存命の元国連軍兵士や公園の広報課長、ボランティアの代表への聞き取り調査、公園の「ターン・トゥワード・釜山(Turn Toward Busan, 釜山の方を向け)」追悼式での参与観察を用いて、墓地をめぐる記憶の担い手による多層的な記憶伝承の営みについて探究する。これらを通して、複数の国家にまたがる研究の全体像を把握し、国際戦争史および現代史、国際機関としての国連に関する学術研究の空白を補完することを目指す。
 第一章では、国連記念公園の考察の土台をなす文化遺産化と戦争墓地、記憶の場に関する理論的系譜をたどる。とりわけ記憶術の創始者と見なされるシモニデスの逸話から、古代の記憶術が空間的秩序の原理に端を発することを確認する。この挿話は、戦没者の個人識別や、死者記念をめぐる生者の身体的行為、記憶と場所の接続に通底するという点で、本論文において重要な意味を持つ。

 第二章では、朝鮮戦争の勃発以降になされた国連墓地の物質的な場の造成に焦点を当てる。熾烈な交戦が続く中、朝鮮半島に散在する国連軍戦没者の遺骸が臨時墓地での仮埋葬、発掘、移送を経て、国連記念公園の前身である党谷(ダンゴク)の国連墓地に集結される過程を追っていく。そして、墓地の形成に不可欠であった日本の港湾の役割と、九州で東京大学の人類学者たちが行った戦没者の個人識別に光を当てることにより、身元確認と埋葬という行為が死者記念の中核となった点を強調する。さらに、国連墓地は、朝鮮戦争と、米軍が1951 年に米軍史上初めて本格化させた戦時中の戦没者の同時送還政策、またその一環として1950 年代半ばまで九州で行われた戦没者の個人識別の三者が交差した場所であり、国際戦争史や日韓現代史、環太平洋関係史の研究分野において重要な位置づけを占めることを明らかにする。
 第三章では、朝鮮戦争に参戦した15 カ国の戦闘支援国がピエール・ノラの言う「記憶の意志」によって、国連墓地を国連の公式な参戦国共同の記憶の場として構築していく過程をたどる。具体的には、国連と大韓民国との間の協定(1959 年)により、国連墓地が象徴的な場となって国連との関係性を獲得し、そしてそれを次第に失っていく軌跡を、文化遺産化の文脈に位置づけて論じる。さらに、休戦後半世紀にわたり、グローバル・ナショナル・ローカルの多重的な主体間の拮抗、調整、協力のダイナミズムによって、墓地に新たな意味が生成され、変容していく背景にある記憶のポリティクスを浮き彫りにする。
 第四章では、国連記念公園を「象徴としての場」と「機能としての場」が重なり合う場所と捉え、同公園を介した文化的記憶に焦点を当てる。まず、第一次世界大戦期を機に確立された英連邦諸国の不送還原則とそれに伴う戦争墓巡礼の実態から、同公園が英連邦の伝統と接点を持つことを検証する。その例として、毎年11 月11 日の11 時に同公園を中心に開催される公的儀礼の「ターン・トゥワード・釜山」を通して、公園が参戦国の人々による死者記念の拠点となっていることを確認する。そして、同公園に根ざした元国連軍兵士の講演と擬制的制度、映画、戦争未亡人の記録を考察することによって、国連記念公園が、閉ざされた過去の戦争墓地から、文化的記憶を伝承する開かれた場所へと変わりうる可能性を示す。
 第五章では、この公園を戦後社会の「生きている遺産」という観点から検討する。具体的には、地域大学生による報恩・奉仕活動の例を取り上げるとともに、釜山広域市が展開するユネスコ世界遺産登録推進運動の構成資産として、同公園が新たに意味を獲得していく文化遺産化の延長線上にあることを論じる。また、戦後 70 年が経過する中で死を迎えた元国連軍兵士がこの公園に奉安される様を、帰還する死者という観点から捉える。

 第六章では、国連記念公園が記憶の場として持つ意味を精緻化すべく、「見える場」に秘められた「見えざる場」、すなわち「忘却の場」の地層を掘り下げる。1951 年から約5 年間にわたり九州で日本の人類学者たちが個人識別を行った3 万人以上の戦没者のうちの約28,800 人の米軍戦没者が本国に移送された一方で、200 人に近い戦没者は国連墓地に奉安されたことを解明した。これを以て、国連墓地が日本、朝鮮半島、アメリカをつなぐ環太平洋の重要な結節点として機能したことを検証した。
 さらに、「見える場」と「見えざる場」の二つの場を対比し、戦争墓地に内在する記憶される場の光と、忘却された場の影への考察を深める。これにより、この公園が「2,304 人の国連軍兵士の死」および「11 人の非戦闘員の死」を併せ持つ、重層的な死の位相に基づいた場所であると論じる。そして、同公園が持つ意味を「国連軍を顕彰する場」という公式記憶に限定する態度は、完全ではない「記憶の場」を形成することに帰結し、多層的な記憶を担う文化遺産化のあり方を遮断するという問題を指摘する。
 終章では、それまでの議論をまとめて国連記念公園を求心力と遠心力が相互作用する磁場として捉え直し、同公園をめぐる文化遺産化の行方を見極める。また、「集団に埋没しがちである個人の人権や、非戦闘員をめぐる忘却されてきた歴史と記憶を同時に物語る稀な証」という新たな意味合いを同公園に見出す戦後世代が確立することによって、この公園に記憶の場としての知の境地が初めて切り拓かれる可能性を提示する。
 以上を通して、国連記念公園は、戦争に巻き込まれた他者の死を糸口に、生者が向き合うべき生の座標と人権の尊厳を省察させる場としての現在的意味を持つ、という結論が導き出される。この公園が文化遺産化を遂げていく過程を戦後世代が追うことは、過去のイデオロギーや彼我といった二項対立的な枠組みを脱し、今日の多文化共生社会の実現に資すると考えられる。参戦国のアーカイブに埋もれていた諸資料を駆使して新たな知見を見出し、戦争墓地である国連記念公園を諸様態の記憶が交錯する記憶のブリコラージュとして捉え直す本研究が、文化資源学の土壌において学際的地平を拡張する一助となることを願う。