本研究は、スピノザの主著『エチカ』を「自己知の倫理学」として読み解くことで、自己を知ることがいかにして倫理学的な意義をもちうるのかを解明する。この問いを考察するにあたっては、(a)なぜ倫理学の問題が知ることの問題へと還元できるのか、(b)なぜ自己を知ることが、他者との共同体の下で問われる倫理学を基礎づけることになるのか、という二つの要素を論じなければならない。本研究では、『エチカ』のうちに二つの自己知の契機を見いだした上で、そのそれぞれの契機について、これら二つの要素がどのように考えられるのかを分析する。
 まず、序章「自己知の論理」では、本論に進む前の準備作業として、『エチカ』で自己知の論理を担う「観念の観念(idea ideae)」という発想が、スピノザの思想形成の中でどのように展開されてきたのかを追う。これにより明らかになるのは、この術語が『知性改善論』で導入された当初は、諸事物の原因を明らかにする「自然の探究」から区別された「方法」の水準を確立する役割のみを担っていたが、『エチカ』においてその役割が拡張され、自己知の二つの契機、すなわち「自己の欲望を意識する」という契機と、「自己を知ることで神を愛する」という契機を確立する論理を示す役割をもつに至ったということである。こうして、『エチカ』では、これら二つの契機に応じて、(a)自己知がいかにして精神を導くのか、(b)自己知に導かれた精神がいかなる点にまで到達できるのか、という二つのことがそれぞれ問えるようになる。
 第Ⅰ部においては、『エチカ』における自己知の第一の契機、すなわち「自己の欲望を意識する」という契機を扱う。そこで、まず欲望とはいかなるものであるのかを解明するため、第1章「コナトゥス概念の起源」で、『エチカ』において欲望の根底に見いだされるコナトゥス概念の起源を解明する。先行研究では、スピノザのコナトゥス概念は、デカルトやホッブズのコナトゥス概念との関係が指摘されてきたが、本章の分析によれば、むしろデカルト『哲学原理』第2部における「自然法則(lex naturalis)」と、ホッブズ『市民論』における「自然法(lex naturalis)」に起源が見いだされる。次に、第2章「欲望の新たな定義」では、近世における欲望概念の基本的性格を踏まえた上で、『エチカ』第3部で示される欲望の全く新たな定義を分析することで、その定義において、欲望が「人間精神が意識するかぎりにおける人間のあらゆる活動の説明原理」として把握されることを明らかにする。ここから、自己の欲望を意識する」とは、この説明原理を意識することに他ならないということが導き出される。そのうえで、第3章「一つの同じ欲求を意識する」では、「一つの同じ欲求」という表現に着目した上で、(a)自己の欲望を意識し、かつその原因を知らない状態から、(b)自己の欲望を意識し、かつその原因を知っている状態へと向かう移行、すなわち感情から生じる欲望を避け、理性から生じる欲望に導かれるようになる移行が、一つの同じ欲求と結びつく認識の十全性の違いへと還元されることを示す。これにより、欲望の問題は、知ることの問題へと還元され、知性を完成させることを目指す『エチカ』のプロジェクトに組み込まれることが明らかになる。そして、さらにスピノザが理性から生じる欲望を「能動[=活動]」としてだけでなく、「徳」としても捉え直すことで、伝統的な徳論を新たな欲望概念によって置き換え、『エチカ』の中に組み入れたことも見いだす。
 しかし、自己の欲望の原因を知ることへの移行は、自然状態における一人の人間にとっては不可能である。なぜなら、人間の力能は自然の中では無に等しく、無数の外的原因の力に脅かされているからである。それゆえ、人間は自己の自然権を発揮し、理性にしたがって自己の欲望の原因を知っている状態へと移行するには、同じく自己の欲望の原因を知らない他の人々と共同体を形成し、自己の生の基盤を確保した上で、彼らとともに知性をできるだけ完成していかなければならない。ここにおいて、欲望の問題は、「自己の欲望」から「われわれの欲望」へと拡張されることになる。だが、「われわれの欲望」に対処するには、欲望の原因を知ろうとするだけでは不十分である。なぜなら、自己の身体と他者の身体が異なるゆえに、他者の欲望を引き起こす他者の身体の変状を自己の身体はもつことがないため、他者の欲望の原因を十全に認識すること自体が原理的に不可能だからである。したがって、「われわれの欲望」という水準を扱う場合には、われわれは他者の欲望の原因を知りえないままに、これに対処しなければならない。
 第Ⅱ部においては、スピノザがこの問題に対処するために、「理性の指図」「国家の諸基礎」「性情」という三つの概念を導入したことを明らかにする。まず、第4章「理性の指図と共同性の契機」では、ホッブズとスピノザにおいて、それぞれ「理性の指図」が共同性の契機とどのように関係しているのかを比較することを通して、スピノザがホッブズとは別の仕方で、倫理学と政治学の領域を新たに画定し、両者を接続させたことを示す。次に、第5章「国家の諸基礎としての欲望」では、『エチカ』第4部定理37備考1における「国家の諸基礎」という表現をめぐるテクスト上の問題に新たな解釈を提示することによって、国家を維持する諸基礎の問題を探り出し、そこにおいて『エチカ』における欲望の理論と政治学的著作における最善国家論が相互に補い合う構造になっていることを見いだす。そのうえで、第6章「人間の性情と倫理学」では、知性の完成に還元されない「性情(ingenium)」概念に着目した上で、性情と欲望の関係を分析し、その視点から人間を自然と社会の中に埋め込まれた存在として捉えるスピノザの発想を明らかにするとともに、『エチカ』第4部定理67‒73における「自由な人」に関する議論と、第5 部定理1‒20 における「感情の療法」に関する議論が接続されることを示す。これら三つの概念により、「自己の欲望を意識する」という自己知の契機が補完されることで、自己を知ることが他者との共同体の下で問われる倫理学を基礎づけることが保証されるのである。
 第Ⅲ部においては、自己知の第二の契機、すなわち「自己を知ることで神を愛する」という契機を扱う。まず、第7章「自己充足と自己知の展開」では、自己知と神への愛をつなぐ上で枢要な役割を果たす「自己充足(acquiescentia in se ipso)」という感情に着目し、種々の自己充足に伴う自己知がいかなるものであるのかを論じる。この論究によって、感情に囚われた段階から、理性の観想を経て、最終的に神への知的愛を享受する段階へと至る『エチカ』の道のりそのものが、自己充足に伴う自己知の変容と連動していることが明らかにされる。次に、第8章「神を現在するものとして表象する」では、『エチカ』第5部定理32系における「神を現在するものとして表象する」という表現を出発点に、神に対する愛と神への知的愛との関係を考察する。従来のスピノザ研究では、もっぱら神への知的愛の重要性が説かれてきたが、本章ではむしろ神に対する愛の方が、現在性の下での神への知的愛の働き方を規定し、かつ共同性に開かれているという点で、『エチカ』においてより重要な役割を果たしていることが示される。最後に、第9章「もう一つの倫理学」では、フーリンクスとスピノザにおける「神への愛」の理論を比較する。それを通して、スピノザにおいては、フーリンクスの場合とは対照的に、人間が自己の能動性を肯定する自己知により、自己充足と神への愛を抱き、さらにそこに含意されている能動[=活動]としての欲望に動かされることで、自己を超えて共同性に開かれた倫理学が打ち立てられることが示される。
 以上によって、自己知の二つの契機それぞれにおいて、(a)なぜ倫理学の問題が知ることの問題へと還元できるのか、(b)なぜ自己を知ることが、他者との共同体の下で問われる倫理学を基礎づけることになるのか、という自己知の問いの二つの要素が明らかになる。
 こうしたわれわれの論究は、スピノザ研究史の観点から言えば、『エチカ』における共同性の契機を重視する点で、20世紀後半のフランスにおけるスピノザ解釈を受け継ぐものである。その点で、本研究は『エチカ』における共同性の契機を自己知の問題の中で捉え直すことによって、この解釈の伝統に新たな視点を導入したと位置づけることができるだろう。また、『エチカ』を「自己知の倫理学」として読み解くことは、「汝自身を知れ」という箴言と結びついた古代以来の倫理学の伝統の中に『エチカ』を位置づけて捉え直すことにもなる。これは、幾何学的な秩序で書かれた『エチカ』の異例さに注目し、しばしば哲学史との断絶を強調してきた従来のスピノザ研究とは別の可能性を示すものでもある。このように捉え直すことによって、古代以来の倫理学の問題を引き受けつつ、それを取り込む形で、知性を完成させるという『エチカ』のプロジェクトが遂行されていることが初めて見えてくる。このことは、スピノザ哲学とはいったい何であったのかを明らかにする上で、重要な視点を与えるはずである。
 これに加えて、『エチカ』を「自己知の倫理学」として読み解くことは、単なるスピノザ研究を超えて、さらに「自己とは何か」および「知ることはいかなる意義をもつのか」という二つのより大きな問いの探究の中に位置づけられる。この論究を引き延ばせば、主体性(主観性)や認識の問題に新たな光を投げかけ、古代から現代まで連綿と続く観念論の伝統を全面的に見直すことにも寄与するはずである。