本論は、姫君や后を主軸とする『源氏物語』の世界に女房や女官が混在することにはいかなる意義が認められるのか明らかにすることを基本方針とするものである。第一部「女房論」では従来の女房論の課題を引き継ぎ、物語の語りとの関連にも触れながら、作中女房の物語内容上の機能を宇治十帖に力点を謄く形で検討した。第二部「物語文学の女官」では、研究史の比較的浅い対象である物語の女官に焦点をあて、 とくに物語の尚侍について物語文学ならではの発想の系譜や虚構作品特有の性格を分析した。また第三部「後見と遺言」では、女房の課題からは若干方針が逸れるが、作中の後見の関係性を問題とし、後事の依託をおこなう遺言の機能について考察した。女房と女官、さらには後見の観点から物語の各局面を読み直すことで、本作の方法と達成について新たな評価を加えることを目指した。

 第一部第一章「『源氏物語』の語り手と女房」では、『源氏物語』の語りの体裁や、語り手と作中女房の関係性について検討した。女房を語り手であるとする『源氏物語』の体裁の意義や、その設定が作中で一貫していないことを確かめたうえで、桐壺巻や浮舟の物語では、語り手と女房が互いに認識を共有したり、捉え直したりするなかで各局面の進展が促されていることを指摘し、語り手と女房の認識を一定の横想を持った作者が操作していることを想定した。作中の女房たちは、周縁から事態を批評したり感懐を述べたりすることで物語展開を推し進める役割を語り手と分担する存在であると考えた。

 第二章「玉霊の物語における女房集め」では、玉霊の女房が新たに召し集められる場面を取り上げ、玉霊十帖の展開方法のほか、第二部の物語や後代の物語との関係性について考察した。玉麓方の女房による女房集めは、玉霊の身辺に頼りがたい女房を呼び込んで、のちの朔黒閾入を招く布石になっている。玉霙の物語の発端部では、女房たちの行動の結果、男君の聞入を招く状況が生じているほか、光源氏についても女君を厚遇したものと語られているのに対し、第二部の物語では密通が生じた責任を光源氏に求める形で語り進められており、各々の相違が認められる。女房による女房集めが男君の閾入を招いている点は、『狭衣物語』の今姫君の物語と共通しており、類型から逸脱した玉麓方の女房集めは、後代の物語の展開方法の先駆けとして捉えられることを指摘した。

 第三章「弁の君の発話」では宇治十帖の女房のうち弁の君の発話の膨大さに注目して、宇治十帖の展開方法や語りの態度について検討した。弁の君の発話は、無遠慮で多弁であるという印象を薫に与えるほか、大君に不信感を抱かせ、中の君の共感と帰郷への志向を誘発することで、薫の恋や大君の死、浮舟の登場を導いていた。また膨大な発話只を通して、主人を喪った弁の君の生き永らえる悲しみが掘り下げられてもいる。弁の君の膨大の発話からは、作中女房の発話を各局面の動因とする宇治十帖の展開方法や、女房の内面にも焦点をあてる複眼的な語りの態度がみてとれ、それは浮舟の物語の方法が開拓されていく過程を垣間見せるものでもあったことを論じた。

 第四章「浮舟との邂逅と女房扱い」では、浮舟の女房扱いの設定に注目して物語の展開方法を考察した。浮舟と邂逅した際、匂宮が相手を自邸の女房であると認識したのは、出会いの場である廂の間が女房の局として用いられる場合があったためと考えられる。廂の局は男性が女房と交渉を持ち得る場でもあり、匂宮は女房も対象になる独自の「癖」を有していたため、浮舟への接近が導かれ、薫との三角関係が成立する。一方、薫は浮舟を大君の代替にしようとするため女房として扱っておらず、生活を保障してやろうとしていた。男君たちの対照的な態度は、浮舟が匂宮の熱意にほだされていながら将来を頼るべき相手として薫の方も見限れず、自死の決意まで追いつめられる展開を必然化していた。既存の妻争い譚に比べると、愛情と生活の間で揺れる浮舟の場合は、より現実的な葛藤が描き出されていることも論じた。

 第五章「蛸蛉巻における宮の君の位相」では、宮の君の出仕と継子譚との関連を検討したうえで、その挿話の機能を考察した。皇統の女性が女房の立場に身を落とす事態は先行する継子譚においてすでに描写されており、宮の君の出仕もその発想の系譜にあるものであったと考えられる。蛸蛉巻後半の物語では、 女房から主人格の姫君に至る各階層の女性たちとの関係を通して、宇治の女君たちが相手でなければ薫の恋は進展し得ないことや、未だ薫が浮舟と一個人として向き合っていないことが表されている。宮の君の存在は女房と主人格の姫君の中間的な視座を担うものであり、宇治の女君たちが相手でなければ煎の恋は進展し得ないことや、未だ蕉が浮舟と一個人として向き合っていないことが表されている。 宮の君の存在は女房と主人格の姫君の中間的な視座を担うものであり、薫の認識を多角的に捉え直すことを可能にしていると指摘した。

 第二部第一章「『うつほ物語』俊蔭女の尚侍就任と王昭君説話・長恨歌・竹取物語」では『源氏物語』の尚侍とも関連の深い『うつほ物語』の俊蔭女を取り上げ、尚侍就任に至る過程でみられる先行文学引用の機能を検討した。内侍のかみ巻の物語は、王昭君説話の元帝、「長恨歌」の玄宗、『竹取物語』のかぐや姫の求婚者と、先行する男性像を次々と朱雀帝に重ね合わせていくことで、俊蔭女に対する寵愛の重さを表現し得ている。尚侍となった俊蔭女は帝から后として扱われ、他后にも優る手厚い待遇を受けているが、尚侍就任前後の重層的な引用は朱雀帝の寵愛深さを表わすことで、俊蔭女が女官でありながら他后を超えた存在になることを必然化していると考えられる。

 第二章「朧月夜の出仕と尚侍就任」では、標題の対象について物語展開上の機能や物語史上の位相を検討した。まず朧月夜の出仕を継続させた弘徽殿大后の判断は、女性の出仕を肯定的に捉える物語成立期の価値観に通底し、朧月夜を近親者の後見役にし得る点でも政治的な意義が認められる。そのため、朧月夜が出仕を継続したことで紫の上が安定した妻の座を築く展開も自然な形で実現している。朧月夜の尚侍としての性格は俊蔭女との共通性から先行物語の尚侍の型を踏まえたものと考えられ、その寵姫としての一面は、光源氏が「癖」によって朧月夜との恋に奔走し、朱雀朝の伸長が抑制される結果を導き、あくまでも女官の立場に留まることは、光源氏が須磨退去から再起する余地を生じさせていた。また朧月夜の場合は、帝と男君の板挟みになる苦悩が掘り下げられている点に俊蔭女とは異なる独自性を認めることができる。

 第三章「玉鬘の尚侍出仕における「公」」では、玉鬘の尚侍としての性格について物語成立期の歴史的実態との関係を再検討し、物語展開の方法を考察した。平安中期以後、史実において尚侍は名誉職化するが、玉鬘の物語では尚侍が公務に携わる存在として語られている。そのなかで光源氏は玉鬘の任尚侍があくまで公務に携わる者としてのものであり、帝の要請に応じた就任でもあるとする論理によって、他后妃との対立が予想されるなか後宮に玉鬘を送り出すことを合理化し、彼女を自らの好色の対象にし続けようとしていた。物語成立期の尚侍との共通点とされる帝の寵愛による他后妃との軋礫と、それによる玉鬘の苦悩も、光源氏との恋の文脈に収斂する形で語られている。物語は、養女と養父の恋の進展に応じて尚侍像を語っているのであり、それを史実における一時代の尚侍像に集約して捉えることには限界があると考えられる。

 第三部第一章「『うつほ物語』国譲巻における源季明の遺言」では源季明の遺言に注目して、国譲巻の展開方法や作中で描かれる人間像を考察した。正頼が季明の遺言を守り、実忠が遺言を守るのをあて宮が支援することは、自家の権益とは関わりのない行為として語られている。それによって后の宮に対する優位性や秩序ある政治状況を実現し得る資質が表され、あて宮腹皇子の立坊を必然化していた。遺言を守れば幸福が訪れる、という説話由来の発想が『うつほ物語』では踏襲されているが、同種の発想は国譲巻の物語展開の背景にも潜在しており、政争における勝利を決する一因になっていると考えられる。政治状況が緊張度を増す中でも他者を憐れむ心を持ち続ける様子も含めて、政争下の人間心理を多面的に描き出している点に国譲巻の物語の達成が認められることを論じた。

 第二章「『源氏物語』における後事の依託」では作中の子供の後事を依託する遺言に注目して、物語の長編化の様相を考察した。当該の遺言は後事の託され方に注目すると発想の型を見出すことができ、男親から女親へ娘の入内を託す、男君が後事の依託を仕立て上げる、後事の依託によって女君と男君の関係が成立する、といった事例が認められる。それぞれ後の事例では、前の事例には描かれなかった遺言を実行する経緯や依託によって拓かれる展開、依託相手を選ぶ過程などが描かれている。物語は遺言の物語の型を反復させながら微細な変化を加えているので あり、それによって新たな趣向の物語を生み出し続けたのだと考えられる。

 「結論」では、『源氏物語』の女房の描写は些細なものであっても物語展開の大局と関わっていることや、女房の描写を史実の資料として扱う際には慎重さが求められること、また女房や女官、遺言の型との関わりにおいて『源氏物語』には物語文学として成熟したあり方がみてとれることを指摘した。そのうえで『源氏物語』は女房や女官を混在させることで、姫君や后の存在のみでは実現し得ない展開をも可能にし、 それらの場合には描き得ない内面を追究してもいることを論じた。物語の世界に女房や女官を抱え込むことで、各箇所の展開を柔軟に進行させながら、多様な局面と心模様を語り、姫君と后の存在のみでは到達し得ない豊かな世界を築き上げたのだと結論づけた。