本論文はシャイフルイシュラーク・スフラワルディー(1191年没)の主著『照明哲学』(Ḥikmat al-išrāq)の研究である。現代スフラワルディー研究はアンリ・コルバンをもって嚆矢とするが、彼はスフラワルディーの神秘主義的側面や古代イランの叡智との結びつきを強調した。それにたいしてより近年ではコルバンの解釈に反して、スフラワルディーの理論哲学的側面にもっぱら注目する研究が登場してきた。こうした反目の背景には哲学と神秘主義との二分法が陰に陽に前提されているように見受けられる。本論文はこうした二分法的な視角の踰越を試みる。この目的を果たすうえでの足がかりとして『照明哲学』という一書を体系的に読み解くことは大へんに有益である。同作は、二部構成をとるが、第一部では主に論理学や自然学、部分的に形而上学にかんする理論的思索が従来の逍遙学派哲学に比較的近い文体によって展開されるのにたいして、第二部では象徴的な言語によって光の哲学が記され、さらにある種の神秘体験のような記述も登場する。ことほどさようにこの二つの部は一見すると異なる著作に見えるほど異質な内実を有している。『照明哲学』はしたがってこれまでの研究がかたちづくってきた相反する二つのスフラワルディー像を典型的に示しており、それゆえに同書を一つの連続体として読み抜く試みはその両像の統合的解釈の可能性を示すことにほかならないからである。この試みを果遂するために本論は二つの視角を採用した。強度(intensity)と実在(reality)である。この両概念に即して『照明哲学』を読むとき同作は一つの有機的全体として現われてくるであろう。

 本論文は八つの章からなる三つの部からかたちづくられる。第一部ではスフラワルディーのテクストの分析をつうじて、論者が強度の思考法と呼ぶ、『照明哲学』において彼が採る中心的な思考法を浮かびあがらせる。第一章では範疇論、とりわけ実体論を論じ、スフラワルディーがそれに基づいて思索を展開するところの「強度」の概念の内実を明らかにする。

 第二章ではスフラワルディーの物体論を論ずる。スフラワルディーの自然哲学はいまだ研究がすすんでおらず、ほとんど研究者の注意が向けられてさえいない。しかしながら、スフラワルディーの物体論は自然哲学史上のマイルストーンをなす独自の学説であるという点のみをもっても論及されるにあたいする。だが自然哲学史上の欠隙を埋めるという意味だけでなく、彼自身の思考法を見届けるうえでもその物体論の精覈には大きな意義がある。一見すると無関係に見える自然学的な物体論と光の形而上学とが、強度の思考法という彼の根本的思考法をつうじて連関する次第が本章で確認される。

 これまでの二つの章で論理学的・自然学的な文脈から析出した『照明哲学』における強度の思考法を、つづく第三章では、存在論的領野へとみちびきいれる。スフラワルディーの強度の思考法は彼の形而上学において十全にそのすがたを現わす。存在論的に展開される強度の概念と、それに基づく主体変容の理論とについてこの章で論ずることになる。この分析をつうじて、その強度の思考法によってスフラワルディーが主体の存在論的変容を概念化しうるようになった次第を示す。

 第四章では哲学にとっての主体の問題を光の概念との関係から見定める。哲学史の観点から鳥瞰的に見るとき、この問題は(新)プラトン主義の系譜に属しているとさしあたりいうことができる。よく知られているようにスフラワルディーは新プラトン主義の影響場裡にあるが、第四章ではその背景からスフラワルディーにおける光と自己の概念を確認する。

 第一部では『照明哲学』体系の中核をなす強度の思考法を分析したが、つづく三つの章からなる第二部ではもう一つのモティーフを析出する。第五章はスフラワルディーの視覚論を扱う。純粋に自然学の文脈で扱われる視覚論は、その実、論理学や形而上学を含む彼の体系全体の根幹をなす彼の認識論的モティーフを明かしている。探究の結果、スフラワルディーの哲学が、特異的な実在あるいはものそのものに定位する認識論を基盤とすることが本章で示される。

 第六章と第七章は対になっており、この二つの章を通じて、スフラワルディーの存在論の中心的な特徴を示すことになる。第六章では、スフラワルディーのテクストからいったん離れて、イブン・シーナーの認識論、特に知性の機能を中心に分析する。イブン・シーナーの認識論はスフラワルディーと著しい対照をなし、それゆえ後者の特徴は両者の間の相異を通じて明らかになると考えるからである。第六章では、イブン・シーナーの認識論に見られる普遍性の優位、あるいは世界の究極的な普遍知解可能性といった特徴を示す。

 第七章では、スフラワルディーが、かかる普遍主義とは対蹠的に、光すなわち現われていることそのものである〈このもの〉の実在性を優位に置く立場をとっていることを明らかにした。自然学的な認識論の文脈では第五章で明らかにしたこの立場を、本章では、形而上学的な文脈に合流させ、彼の哲学体系総体を理解するために不可欠となる根柢的な思考法を示す。さらにこの議論をつうじて、その立場を「何性の本源性」と称するこれまでのスフラワルディー形而上学に対する典型的な理解が誤導的であることを明らかにする。

 照明哲学の中心的な方法論である強度の思考法といまここのこのものそれ自体に着目する立場が、相互にいかに関連しているかを最終第三部で論じた。第三部の唯一の章である第八章では、スフラワルディーの強度主義的方法と照明学的もの主義の関連を分析することで、認識主体の存在論的強度が高まることで認識の対象面の強度が高まり、客体としての世界そのものが更新され別様の真理がひらかれる、主体と真理との存在論゠認識論的構造を明らかにする。こうした運びは、一種の並行論として構造化されており、スフラワルディーが逍遙学派的二元論を徹底的に排除することを可能にしている。

 以上の分析を通じて、『照明哲学』におけるスフラワルディーの理説は神秘主義でも理論哲学でもなく、むしろそこでは哲学にとっての主体性が問題とされているのだと本論は結論づけた。本論の分析によれば、彼は、哲学は哲学をする主体に基づいていることを要求し、その主体そのものを問うことなしには哲学は進められないと考えた。かくて哲学の基底には主体性の問いが据えられ、哲学の体系は均一的プログラムでも情報の集合体でもなく哲学をする者の主体にしたがって開示される真理の体系となる。哲学者が哲学の前に問われる、かかる主体の倫理に対する視線が、『照明哲学』の全体を読み解くことで浮かび上がってくるのである。