本稿は、南米アンデス地方の先住民言語であるケチュア語、その地域変種の 1 つであるアヤクーチョ方言における類型論的特徴を、移動表現に着目して分析するものである。ケチュア語アヤクーチョ方言 (以下アヤクーチョ方言) は豊富な接尾辞を用いた形態法が発達した言語であり、特に用言形態法において類型論的に興味深い特徴が数多く見られる。ケチュア語は言語学研究だけでなく社会的にも現在注目を集める言語であり、特にアヤクーチョ方言は文法記述の更新および新たな蓄積が待望される地域変種である。

 移動表現は、1940 年代から現在に至るまで言語類型論における重要な分野として研究が進められている。移動は地域や文化を問わず普遍的かつ日常的な現象であり、どの言語にも移動事象を表す言語表現があると推測される。移動という普遍的な概念の言語表現を通言語的に比較することで、言語表現の多様性、そして個別の言語を超えた普遍性の解明に大きく貢献できる。

 アヤクーチョ方言における移動表現は、この言語における様々な領域の文法現象と関連している。例えば移動という概念の中核的な構成要素である経路は、アヤクーチョ方言では動詞語根、格接尾辞および格接尾辞を伴う体言、動詞接尾辞という 3 つの文法的クラスで表現可能である。経路だけでなく様態や直示も複数の文法的クラスで表現可能な概念であり、この言語では移動を構成する概念の表示手段を柔軟に使い分けることができる。このようなアヤクーチョ方言の移動表現は、移動表現の多様性と類型を探る上で重要な事例となる。本研究は、このような理論的貢献が期待されるアヤクーチョ方言の移動表現分析を、言語類型論的見地から包括的に行う初の試みである。

 このように複雑な特徴を持つアヤクーチョ方言の移動表現を分析するため、本稿では実験的手法に基づく調査を行った。この実験的手法 (A 実験、C 実験) は、移動表現の国際共同研究プロジェクト Motion Event Description across Languages (MEDAL) で共通して用いられるものである。統一された手法を用いることにより、得られたデータを多言語間で比較することができる。本稿ではこの手法で得られたアヤクーチョ方言の移動表現を他の言語と比較することにより、その類型論的特徴を明らかにする。

 そして本稿は、アヤクーチョ方言の移動表現の類型論的特徴として、以下の 4 点を主張する。i) アヤクーチョ方言は特に主体移動において経路の両面表示が非常に頻繁に用いられる言語である。経路両面表示とは、経路が主動詞と主動詞以外の要素で同時に表される表示パターンである。特に動詞接尾辞 -yku は単独で経路を表すことがほとんど無く、原則として主動詞など他の経路表示と共に現れる。アヤクーチョ方言における経路両面表示の頻度の高さは、この言語の話者による選好と文法的要請の両者が重なった結果と言える。アヤクーチョ方言の話者は、経路を主要部で表示する表現を好む。一方で、アヤクーチョ方言の移動表現において参照物に言及する場合、参照物を指示する名詞句は必ず格接尾辞を伴う。このとき使われる格接尾辞は原則として経路を表示するものであり、したがって参照物に言及する時には経路主要部表示の有無に関わらずほぼ必ず経路主要部外表示が現れる。アヤクーチョ方言の経路両面表示は、経路主要部表示を好むという選好と経路主要部外表示を義務的に行うという文法的要請の組み合わせによって起きるものである。

 ii) アヤクーチョ方言の移動表現は、移動のタイプによって大きく異なる特徴を見せる。移動のタイプとは、移動事象において移動物が自律的に移動するか (主体移動)、他者からの使役行為によって移動するか (客体移動)、実際には移動していないが、疑似的に移動していると解釈されるか (抽象的放射) による移動事象の分類である。アヤクーチョ方言は主体移動においては経路主要部表示および両面表示を強く好む言語であるが、客体移動と抽象的放射においては経路主要部外表示が経路主要部表示に比べてはるかに優勢である。移動表現の類型論は主体移動の分析を中心に発展してきたが、近年では主体移動と客体移動・抽象的放射の間の差異にも注目が集まっている。アヤクーチョ方言の移動表現は移動のタイプによる移動表現の多様性の大きさを示している。

 iii) アヤクーチョ方言の移動表現は、同じ主体移動であっても経路の種類によって大きく異なる特徴を見せる。i) で述べた通り、アヤクーチョ方言は主体移動の全体的な特徴として経路主要部表示および経路両面表示を好む。しかし、経路の種類を細分化すると、経路主要部表示がほとんど見られない経路も存在することがわかる。経路主要部を好む経路場面の傾向は、単純経路局面場面と複雑経路局面場面で異なっており、単純経路局面場面で主要部で表示されることが多い経路場面の中には、/Up/場面のように複雑経路局面場面の構成要素として表される場合はほとんど主要部で表されないものもある。移動表現の類型論的研究は経路表示を分析の基礎としてきた。アヤクーチョ方言の移動表現は、経路全体の表示方法だけでなく、経路そのものの多様性に着目した分析の重要性を示している。

 iv) アヤクーチョ方言には、少数の経路場面でのみ用いられる単機能的な経路表示手段と、幅広い経路場面で用いられる多機能的な経路表示手段がある。経路表示手段の多機能性と単機能性は、表示手段の文法的クラスによる傾向が見られる。具体的には、経路動詞と位置名詞は単機能的であり、格接尾辞と動詞接尾辞は多機能的である。動詞接尾辞 -yku は従来指摘されていた「下へ」「中へ」に限らず、より抽象的な「特定の参照物へ」という経路も表す多機能性を持っているという点で興味深い。さらに、経路動詞 pasa「通る」 (スペイン語からの借用語) はこの傾向に対する興味深い例外である。この経路動詞は、経路動詞のほとんどが単機能的であるのに対し、直示表示の機能も併せ持つ特異的な多機能性を見せる。

 これらの本研究における発見は、ケチュア語の文法研究だけでなく、移動表現の類型論的研究に多くの示唆を与える。主体移動において経路両面表示を強く好むというアヤクーチョ方言の類型論的特徴は、膠着的な形態法や方向接尾辞をはじめとする用言形態法の発達など、ケチュア語特有の文法的特徴と強く結びついている。一方単純経路局面の経路タイプおよび単純経路局面と複雑経路局面の間の経路表示パターンの違いはこの言語の文法からは予想できない特徴であり、移動表現の類型における重要な理論的ポイントとなる。

 このように、本稿が明らかにしたアヤクーチョ方言の移動表現の類型論的特徴は、個別言語の文法研究と言語類型論の両方の分野に大きく貢献する。