本研究は、祖語に再建される喉音 (laryngeals) を想定することで『リグ・ヴェーダ』の韻律を復元する際に生じる一貫性の欠如の問題を解決することを目標とする。そのために、詩節を作った者である詩人と詩人家系に着目し、各詩人のサンスクリット語が喉音を想定する音節構造を保つか否かを分析する。

 まず、先行研究が持つ問題を明らかにする。既存の研究は、『リグ・ヴェーダ』の韻律復元の方法を指摘することが多い。つまり、インド・ヨーロッパ祖語やインド・イラン祖語、古インド・アーリア語前段階などにおける語形(歴史的語形)を再建し、その音節構造を、『リグ・ヴェーダ』の詩節を作った(「見た」)詩人が知っていたと考えて、不規則な韻律をもつ詩節を復元する。この中では、韻律が不規則である詩節が注目される。一方で、歴史的語形を想定せず伝承されている語形のままでも規則的な韻律が保たれる詩節は確かに存在する。それゆえ、伝承されている語形が同一であっても、出現している詩節により韻律復元の方法を適用するか否かが異なる。このように一貫性が欠如しているという問題は、これまで十分に検討されることがなかった。本研究は、下記の手法を用いて、詩人ごとに喉音を想定する歴史的語形の使用率が有意に異なることを示した。

 本研究において、上述の『リグ・ヴェーダ』の韻律復元にかかる一貫性欠如の問題を解決するために、まず祖語に再建される喉音が残存していたと想定することによって韻律が復元される詩節、およびそのような喉音を含む語幹の全出現箇所を分析する。『リグ・ヴェーダ』のそれぞれの詩節に対して、それを作った(「見た」)詩人の名前は伝承されている。それをもとにして、詩人ごとに、喉音によって韻律復元できる(=喉音が残存する歴史的語形が使用されている)詩節とそうでない詩節を数え上げ、統計分析によって詩人ごとの差異を明確に示す。さらに、機械学習を始めとする手法に基づいたテキストの類似度計算により、詩人らが文化基盤を共有する一方で特定のフレーズの使用率に差があることを明確に示し、詩人ごとの言語的特徴があることを明らかにする。

 本研究の意義を 3 つの観点から以下に示す。第 1 に、言語記述の点において、歴史的語形に残る喉音の残存環境を示した(3 章)。本研究は、喉音の音韻的あるいは音声的性質の解明を目的としていないため、詳細な議論を行っていないが、暗黙に想定されていた喉音の残存環境を明示的に記述する。第 2 に、言語学と文献学に支えられる個々の事象の分析(= 喉音を想定する語形の分析)と、その分析結果を集積して統計的に結果を導くまでの情報学的な分析の 2 つの軸によって言語変種あるいは詩人の詩的許容の範囲を解明することである(4 章)。詩人ごとに確かに言語の上での特徴の差異があることは、その背景にある社会を推測する上で欠かせない事実である。第 3 に、本論文には検証可能性の担保およびデータベース構築という方法論的な意義がある(2 章および 5 章)。前段落に挙げた手順の内、該当詩節の抽出、分析された語形、詩節番号と詩人名の組、統計分析、類似度算出については、それらを行うプログラムを公開している。そのため、従来の網羅的研究における欠点であった検証可能性を、本研究は担保する。さらにこれに付随するデータベースは、『リグ・ヴェーダ』の韻律研究以外にも利用可能である。

本研究は、『リグ・ヴェーダ』の韻律研究の中でも特に喉音に着目した韻律研究の中に置かれる。Gippert (1997) によって初めて網羅的研究が行われたものの、論文中に提示される韻律分析用テキストへのアクセス手段がないことと一貫性欠如の問題が見過ごされたことは対処されずに残る。本研究の立ち位置は、主にGippert (1997, 1999)を補い発展させるところにある。それに加えてさらに、詩人ごとの言語使用の差異の解明は、『リグ・ヴェーダ』時代の言語および社会の究明の一端を担う。

 本論文の構成は次の通りである。

 1章: まず本研究の概要を提示し、本研究の意義、研究史における本研究の位置付けを示す (1.1 節)。次いで、本研究に必要な前提知識として、サンスクリットの音韻を概説した(1.2 節)あと、インド・ヨーロッパ祖語、インド・イラン祖語に再建される喉音を説明する(1.3 節)。そして、サンスクリット文献『リグ・ヴェーダ』の韻律(1.4 節)および韻律復元の研究(1.5 節)、詩人家系(1.6 節)を概覧する。特に、韻律復元研究は、1.5.1 節で『リグ・ヴェーダ』の韻律復元を概覧し、とりわけ喉音を想定する韻律復元方法に含まれる問題を 1.5.3 節にまとめた。すなわち、不規則な韻律をもつ詩節すべてあるいは祖語形で喉音を持つ語幹すべてを網羅的に調査できているのか、仮にそれを行ったとしても追検証が困難であること、同一の語形であっても喉音を想定するべきか否かが出現箇所によって異なることを指摘した。

 2章: 網羅的調査および検証可能性について、分析手法および『リグ・ヴェーダ』のデータベースを提示することで解決を図る。喉音が韻律に及ぼす影響について議論が始まってから 100 年ほど経過し、その間にインド・ヨーロッパ語比較言語学の見地が広がった。それによって検討すべき語の増減がある。また、はじめてテキストコーパスを用いて網羅的に韻律研究がなされた、そのテキストコーパスは今や利用が困難である。それゆえ、その研究の網羅性を担保する術がない。本論文ではこれらを同時に解決するため、喉音を含む単語のリスト、韻律情報およびその他の詩節情報が付与された『リグ・ヴェーダ』のデータベース、韻律計算ほかを行うツール類の 3 点を作成・共有し提示する。本論文における祖語形で喉音を含む語の調査の網羅性と検証可能性がこれにより保証される。

 3章: 『リグ・ヴェーダ』の語形のうちインド・ヨーロッパ祖語の語幹で喉音を含む語形をすべて検討する。喉音の痕跡が認められる音環境は、先行研究で言及される音環境も含めて根拠となる語形とともにまとめられる。

 4章:  3 章でも改めて認めた、喉音の想定をするか否かが出現箇所によって異なる問題を、詩節を創作した詩人家系の観点から捉える。喉音の想定を必要とする語形を用いる詩人は、少なくともその語形については喉音の痕跡についての知識を持って詩節の中で使用している。一方、他の詩人が喉音の残存を認めて使用する語形を、喉音が消失した音節構造で使用する詩人は喉音の痕跡についての知識を持っていない可能性がある。『リグ・ヴェーダ』2-7 巻である家集および 8 巻の詩人ごとの喉音の有無から、詩人ごとの傾向を明らかにする。特にKaṇva家系は第 1 世代の詩人をはじめどの詩人も比較的多く喉音の痕跡を想定する語形を用いている。Kaṇva が喉音残存語形を多く使う傾向にあること、Gr̥tsamada が喉音残存語形を使わない傾向にあることが、残差分析によって示される。1.6 節で見る詩人の特徴と合わせて考えると、他の詩人より比較的西で活動していたとうかがえるKaṇva (家系)は、他の詩人とは異なる音規則を持っていたと言える。

 5章: 機械学習による詩節間の類似度を計算し、詩人ごとの詩節類似度を確かめる。文書の分散表現による類似度から 7 巻は類似度の高い詩節を多く含むことが示され、7 巻が唯一人の詩人による詩節から成るとされている伝承と一致することを確認する。KaṇvaとGr̥tsamadaが近い内容の詩節を持つことと地理的な活動範囲が一部重複していることから、両者の喉音を残存する語形を用いる比率に有意差があることは、家系に起因する社会的な変種による音規則の相違によると考えられる。喉音の残存に関する一貫性欠如の問題は、詩人家系ごとの傾向によって部分的に解決される。