本論文は、イスラームの預言者ムハンマドの教友たち(ṣaḥāba)の言説(法学説(madhhab)や法見解(fatwā)、法演繹(ijtihād)など)に対してイスラーム法学においてどのような役割と機能が認められてきたかに関する基礎研究をおこなった。特に、教友の言説(qawl)の(1)法源性(ḥujjīya)や法源としての機能の有無に関する法理学史研究(本稿3-7章)、(2)他の法源との関係性に関する分析(本稿5章、8章)、(3)教友の言説への追従(タクリード taqlīd)の是非に関する議論の研究(本稿9章)、(4)教友の言説による啓典や預言者伝承の一般的意味(‘umūm)が示す具体的内容の特定化(タフスィース takhṣīṣ)(本稿8章)の研究という4つの課題に取り組んだ。

 これまでの先行研究では、スンナ派四大法学派(ハナフィー派、マーリク派、シャーフィイー派、ハンバル派)のうち、シャーフィイー派のみが教友の言説の法源性と、法源に伴う機能としてのタフスィースなどの機能を否定したことが通説とされていた。しかし、本稿第3章で見るように、現代を代表するシャーフィイー派法理学者たちの間では、教友の言説の法源性の有無に関する見解は否定論一択としては収束しておらず、肯定論を支持する学者と否定論を支持する学者ではシャーフィイー(Muḥammad ibn Idrīs al-Shāfi‘ī, d. 820)の同論題に関する法理学説についての理解も異なっていることを明らかにした。

 ただし、彼ら現代のシャーフィイー派法理学者たちの共通理解として、シャーフィイーの法理学思想に対する彼らの理解や彼ら自身が支持する法理学説は別として、一時期のシャーフィイー派が学派として「教友の言説の法源性否定説」を学派の定説として支持していたことは明らかである。この「一時期」のシャーフィイー派の定説理解に対する研究として、Eric Chaumontに代表されるこれまでの先行研究は参考となるものの、果たしてこのような教友の言説の法源性を否定する動きがいつからいつまでどのような背景の元に進んだのかは、古典期から中世までのシャーフィイー派内部における定説以外の学説を考察しなければ明らかとならない。

 したがって本稿では、スンナ派諸学派の学派定説が確立し、各学派の交流が盛んとなった14世紀マムルーク朝で活躍したシャーフィイー派の学者であるアラーイー(Ṣalāḥ al-Dīn al-‘Alā’ī, d. 1359)、ザルカシー(Badr al-Dīn al-Zarkashī, d. 1392)による教友の言説の法源性を見直す思想運動に着目し、彼らの論考を基軸として、(1)教友の言説の法源性の否定論が定説化したと思われるセルジューク朝期以降の12-13世紀までの「シャーフィイー法学派・アシュアリー神学派」の学者たちによる教友の言説に関する法理学説(本稿6章)、(2)シャーフィイー・アシュアリー体制が成立したセルジューク朝期黎明期である11世紀以前の初期シャーフィイー派における他の法源との関係性を考慮した教友の言説の論じ方(本稿5章)、最後に(3)シャーフィイーの教友の言説の法源性に関する法理学説と実定法における教友の言説の援用例(本稿10章)を再考する。上記の考察を通じて、シャーフィイーが活躍した8-9世紀から14世紀までの教友の言説の法源性や規範性に関する法理学史を概観し、これまでの先行研究で明らかにされた古典期シャーフィイー派の定説である教友の言説の法源性否定論を古典期から中世のシャーフィイー派法理学史の記述を通じて相対化した。

 シャーフィイー派法理学学説史を紐解くと、上記の通り11世紀終わりから12世紀にセルジューク朝下のニザーミーヤ学院で活動しアシュアリー神学を奉じたシャーフィイー派の学者たちが教友の言説の法源性の否定を明確に打ち出した発端であると特定された。本稿4章では、シャーフィイー派以外のスンナ派諸学派の法理学者や最初期の法理学の成立に寄与したムウタズィラ派の法理学者による教友の言説に関する考察を比較しているが、「(1)教友の言説の法源性を否定し、それに伴い(2)後代の学者(アーリム ‘ālim/ムジュタヒド mujtahid)が教友へタクリードすることを否定し、(3)教友の言説によって啓典や預言者伝承などの明文(naṣṣ)の意味を特定すること(takhṣīṣ)は許されない」とする否定論の原型は「神学者の流派(ṭarīqa al-mutaqallimūn)」の法理学の始祖とも言えるムウタズィラ派のアブー・フサイン・バスリー(Abū Ḥusayn al-Baṣrī, d. 1085)の時代から確認できる。

 また本稿4章では、アラーイーやザルカシーと同時代の14世紀の他学派の法理学者として、ハンバル派のイブン・カイイム(Ibn Qayyim al-Jawzīya, d. 1350)、マーリク派のシャーティビー(Abū Isḥāq al-Shāṭibī, d. 1388)の見解を比較分析している。この中でアラーイーとほぼ同時代に生きたイブン・カイイムはシャーフィイー派による教友の言説の否定論を批判的に考察しており、それまでのシャーフィイー派による学祖シャーフィイーの法理学説理解(教友の言説の法源性を否定的に解釈する傾向)に対しても強い批判を投げかけている。イブン・カイイムの論考の中では、「多くのシャーフィイー派によって無視されている」とする学祖の学説として、教友の言説を四大法源の1つであるキヤースよりも優先する説が紹介されており、それは13世紀以前のシャーフィイー派の学者たちは引用していなかったものの、アラーイーやザルカシーなど教友の言説の法源性を肯定的に見直した学者たちによっても再注目されたことが確認される。彼らに加えて、同じく他学派に属しつつもシャーフィイーによる教友の言説の扱いに対する考察を残し、教友の言説の法源性を肯定的に解釈しているマーリク派のシャーティビーを併せて比較考察を進めると、14世紀にはシャーフィイーの法理学説の理解をめぐって教友の言説の法源性を肯定的に見直す動きがシャーフィイー派に限定されず広がっていたことが明らかとなる。

 ここで再び本稿が考察の基軸とする14世紀のシャーフィイー派を代表する2人の法理学者であるアラーイーとザルカシーに目を向けると、アラーイーの著作の校訂者が指摘しているようにスンナ派法理学史上はじめて教友の言説の法源性とその法(理)学上での機能をモノグラフとして残した学者であり、アラーイー自身が述べているように、彼以前の議論では法源性を論じる諸条件(教友の言説の公表の有無や教友の言説への異論の有無)、また法源性から派生される機能(タクリードやタフスィースの是非)の連関を体型的にまとめた論考は存在しなかった。アラーイーの『イジュマール・アル=イサーバ・フィー・アクワール・アッ=サハーバ(Ijmāl al-Iṣāba fī Aqwāl al-Ṣaḥāba)』は以上の点から教友の言説に関する法理学の古典理論を知る上で欠かせない文献資料であるが、これまでの先行研究では十分に注目されていなかった。また、同じく14世紀のマムルーク朝下でシャーフィイー派の学者として活躍したザルカシーはアラーイーよりも少し後の世代にあたる。現代でもしばしば参照されるシャーフィイー派法学者の人物列伝を残している彼の著した教友の言説に関する論考では、他のシャーフィイー派の学者の論考では十分に知ることができない11世紀以前の初期シャーフィイー派の学者たち(aṣḥāb)の法理学説が豊富に紹介されており、資料的価値が高い。アラーイーの論考が教友の言説の法理学論題を共時的に構造化した「横軸」だとすれば、ザルカシーの初期シャーフィイー派から14世紀までの通史的記述は本稿の考察に「縦軸」にあたる。

 アラーイーとザルカシーの両者ともに、教友の言説の法源性から派生される法理学の論題として、(1)教友へのタクリードの是非に関する論題と、(2)教友の言説によって啓典や預言者伝承の明文の意味を具体的に特定することは許されるかという論題を扱っている。本稿では、(1)のタクリード論に関して、14世紀の彼らのタクリード論に先行する11-12世紀のシーラーズィー(Abū Isḥāq al-Shīrāzī, d. 1083)、ジュワイニー(Abū al-Ma‘ālī al-Juwaynī, d. 1085)、ガザーリー(Abū Ḥāmid al-Ghazālī, d. 1111)のタクリード基礎論を踏まえた上で教友へのタクリードの是非を考察し、議論の前提としてタクリードの主体たる「学者(アーリム/ムジュタヒド)」と「大衆」の区別に注目した(本稿9章)。また、(2)に関してはアラーイーのあげるタフスィースの類型論を具体的に比較詳説している(本稿8章)。加えて、ハディース学者として高名であったアラーイーが例示している教友の言説の法源性を肯定するために論拠とされた啓典や預言者伝承その他の数々とそれに基づく否定論者との討論を本稿7章に収めたが、ここでは肯定論者が時には偽作ハディースなどを用いてどのように教友の言説の規範性を訴えたのかを具体的に知ることがきる。

 以上から、これまで教友の言説の法源としての権威や役割を唯一否定してきたとされるシャーフィイー派の内部において、14世紀のアラーイーとザルカシーがどのような時代状況の中からイスラーム法理学における教友の言説の役割や機能、権威を肯定的に再考したかを明らかにし、その歴史的意義や近現代のイスラーム思想への影響を考察する。