本論文は、清代におけるメディアの変遷過程を明らかにするとともに、この過程にみられる政治状況の変容を考察したものである。

 19世紀半ばまで、清朝域内における唯一の定期刊行物は邸報と呼ばれる、宮廷の動静、皇帝の諭旨、大臣の上奏文を日ごとにまとめて掲載した小冊子であった。それから約半世紀の間、西洋由来のメディアである新聞は邸報に代わって、時事情報を不特定多数の人々に定期的に伝達する役割を担うようになった。

 従来、邸報は中国の「伝統的メディア」、新聞は「近代的メディア」と位置づけられ、邸報から新聞への転換は、近代化の必然的な結果と自明視されてきた。その結果、邸報と新聞の間の連続性と断絶性や、新聞が中国で普及していった政治的・社会的要因は、必ずしも十分に分析されていない。

 また、ジャーナリズムの展開は、①宣教師による新聞・雑誌の発行→②開港場における商業新聞の出現→③変法運動期における政論新聞・雑誌の登場→④光緒新政期におけるジャーナリズムの飛躍的発展といった四つの段階を経たとまとめられる。しかし、視野をジャーナリズムそのものから社会全体に広げ、メディアを経済や政治と並んで、人間社会を構成する要素の一つと見なす場合、それが異なった時期に実際に果たした役割や、ほかの構成要素との相互関係といった問題は、十分に解明されているとは言い難い。

 そこで本論文では、「政権の情報統制と情報発信」および「政治情報に対する需要と言論活動の展開」という二つの角度から、清代における政治情報の伝播のあり方を分析し、メディアと政治の相互関係を明らかにすることを目指した。

 以上の目的に基づき、本論文は三部構成をとり、六つの章から成る。各章の概要は以下の通りである。

 第Ⅰ部「清代の文書行政と政治情報の商品化」では邸報に焦点を当て、新聞・雑誌が登場する以前の    政治情報の伝播のあり方を考察した。第一章「清代の「塘」と提塘制度」では『大清会典』で邸報の責任者と規定されていた提塘、およびその管轄下にある「塘」の仕組みを分析し、第二章「政治情報の商品化--邸報の発行と流通」では邸報の編集・印刷・配送の実態を解明した。

 清代の邸報は公文書と商品の両方の性格をもつ存在であったと考えられる。『大清会典』の規定からみれば、邸報の掲載内容は公文書であり、その発行と配送は地方行政の一部と位置づけられ、読者も地方官と想定されていた。しかし実際には、邸報の発行と配送は提塘のみならず、書吏、王公・宗室の従者、商業出版者、民間の配達業者といった複数の集団の協力関係によって実現されていた。事実上、邸報は料金さえ支払えば誰でも購入できる商品でもあった。中央政府は邸報の編集・審査も、印刷と配達に必要な資金の提供も行わず、誤報や虚報が摘発された際に関係者を処罰するという最小限の関与にとどめていた。

 第Ⅱ部「対外危機と新興メディアの台頭」では、邸報を中心とした政治情報の伝播の仕組みが19世紀半ば以降に直面した問題に注目し、新聞が中国で普及していった政治的・社会的要因を考察した。

 第三章「第二次アヘン戦争と対外関係情報の伝達」では、対外関係が清朝に与える影響が増大していったにもかかわらず、邸報には外政に関する情報がほとんど掲載されていなかったという問題が引き起こした結果を示した。戦況をどの程度知り得たかは個々人の情報収集能力に規定されており、顕著な情報格差およびそれに起因する混乱や現状認識の齟齬が生じていた。これと対照をなすのが、各開港場で形成されていた「英文の世界」であった。「漢文の世界」では政権の中枢に身を置かない限り、督撫レベルの官僚でさえ戦争と交渉の進行状況を把握できていなかったのに対し、開港場で暮らしていた欧米人は終始、英字新聞を通じて戦争の動向を注視していた。

 第四章「日清戦争関連情報の伝播と転換期のジャーナリズム」では、メディアの変化が中国社会にもたらした影響、および変法運動期におけるジャーナリズムの「政治化」の歴史的背景を浮き彫りにした。日清戦争中、漢字新聞は中央政府の積極的な情報発表がない状況下で、第三国の新聞と交戦国から発信された情報に頼りつつ戦争報道を行い、広く一般の人々に敗戦の衝撃を感じさせることを可能にした。敗戦の衝撃の大きさとあいまって、社会の政治情報への欲求と清朝中央の情報発信に対する消極的姿勢のギャップ、および下級官僚・知識人の意見発信への強い意欲と朝廷への政策具申の回路の狭隘さのギャップがさらに拡大した。康有為と梁啓超らがこの時期に政治結社の機関誌の発行に踏み切り、その結果として『時務報』をはじめとする政治色の極めて強い新聞・雑誌がかつてないほどの反響を引き起こした背景には、上述のような切迫した要求が存在していたと言える。

 第Ⅲ部「近代国家建設期の情報公開と言論」では、欧米・日本をモデルにした改革が進んだ新政期において、政府の情報発信と民間の言論活動が如何なる変化を遂げたかを考察した。

 第五章「清末における「官報」の発行と政府による情報発信の変容」では、「官報」の歴史的意義を検討した。義和団事件後、各地方政府は新政に関する諸情報を「官報」に盛り込み、購読を急速に増やそうとした。ここから、人々が政府の決定事項を結果的に遵守すればよいという従来の支配方法が限界を迎え、広く一般に国の政策を理解させることが国家建設の前提条件として求められるようになった、という統治原理の変化がうかがえる。そして、「官報」が啓蒙的色彩から脱却し、法令公布機関へと転換していく過程は、政府が情報の供与を通じて上から民を啓蒙する段階から、法令を広く一般が知り得る状態にする責務を負う段階に入ってきた過程でもあった。このような転換を後押ししたのは、法令公布制度の確立を求める民間の要請と地方諮議局の動向であり、国の担い手としての人々の自覚の高まりが見て取れる。

 第六章「新政期の政府と「輿論」--滬杭甬鉄道借款をめぐる対立」では、1907年に起きた借款反対運動を取り上げ、新聞報道が請願や集会といった政治活動と連動し、中央政府と対立するようになった過程を明らかにした。新政の推進に伴い、上海の主要各紙は朝廷の失策を批判しているうちに論調を強めていき、中央政府の信用そのものを疑問視する立場に転じた。このような立場はメディアによる官権力の監視・牽制を可能にしていた一方、政府によるあらゆる説明を一律に否定するという危険性も孕んでいた。借款導入を批判する「輿論」は、必ずしも外交交渉や鉄道政策を的確に理解した上での主張ではなかったが、中央政府の「輿論」への対応は結局、立憲制への移行という新政期の根幹政策に対する懐疑論に拍車をかける結果を招いた。

 

 本論文の結論は、以下の三点にまとめられる。

 第一に、新聞の中国での普及は、外政に関する情報を掲載しないという邸報の欠陥、そしてこの欠陥を表面化させた対外関係の変容と密接に関連していた。すなわち、西洋諸国との接触が増加していく中、様々な分野で既存の仕組みが新しい必要に対応できなくなったが、邸報に代表される情報伝達方式もその一つであった。宣教師が1830年代から中国で広めようとしていた新聞は、洋務の重要性が広く認識されるようになってはじめて関心を集めるようになったと言える。

 第二に、新政を契機に、清朝政権の情報統制と情報発信に対する姿勢が大きく変容した。20世紀以前、情報の統制に関しては、安定的な統治秩序を保つためには厳罰を伴う弾圧も辞さないが、秩序が乱されないと判断する限り、情報漏洩の慣行や民間の自生的な行動を容認する態度であった。情報発信に関しては、被治者が公的情報を知ることは禁じないものの、国政の動きを積極的に広く一般に周知させようともしなかった。

 20世紀に入り新政が進むと、政府は「官報」の発行に乗り出し、「輿論」の理解を得るために民間からの質疑にも回答し、積極的な情報発信を試みた。情報発信の積極化には、政治秩序の正当性の根拠を国民の意思に求めるという「民主的」な側面があった一方、情報の内容と流れをコントロールしようとする統制的な側面も内包されていた。だが、このような情報伝達面への介入の深化は、必ずしも「専制政治」の回復を目指した動きではなく、むしろ中央集権的な統一国家の構築という「近代的」な課題を達成するための模索と言うべきであろう。

 第三に、ジャーナリズムの急速な発展は、中央政府の弱体化とほぼ同時並行で進んでいた。義和団戦争で権威が大きく失墜した中央政府は、新政が展開していくにつれ失策がたびたび批判され、信用がますます失われていった。立憲制導入への要求が全国的に高まる中、「庶政はこれを輿論に公にする」方針を中央政府が自ら宣言した以上、ジャーナリズムを通じて表出された声こそが「輿論」であり、政策決定に反映されるべき意見であるという主張は、正当性を得ることになったのである。たとえ政府の判断に合理性があったとしても、「輿論」に従わないこと自体が立憲精神に反する行為と見なされ、さらなる批判を招く結果となった。

 清末のジャーナリズムは、「民智」を開き国民意識を醸成するという使命をかなりの程度達成したと言える。しかし、国家統合をなし得るような強力な中央政府の再建は失敗に終わった。「富国強兵の実現」「言論の自由」と「民衆の動員」の間の緊張関係を如何に扱うかは、民国時期の大きな政治課題となってゆくのである。