本論文の目的は、「Xジェンダー」というカテゴリーの運用を中心に、「男」「女」に当てはまらない非二元的な性のカテゴリーが、様々な性のカテゴリーの運用との関係において、性の理解や自己知をめぐるいかなる実践を人びとに可能にしてきたのかを明らかにすることである。

 第1章では、出生時に割り当てられた性別とは異なる性を生きる、ジェンダー非順応な人びとをめぐる医学的、法的、社会的な状況が定まっておらず、当事者間で相互にカテゴリー化して排除しあうようなコンフリクトが存在することを確認した。このような論争的な性格ゆえの捉え難さに対し、本論文はジェンダー非順応をめぐる諸カテゴリーが日本の当事者においてどのように用いられ、自らの経験や人びとの集団を指示するものとして観念されてきたのか、その歴史的変遷を明らかにするという対処の方針を示した。かかる方針のもと、現在自明のものとして用いられている諸カテゴリーがいかなる性の理解や自己知を可能にしてきたのか、社会のなかでいかなる限界を抱えているのかを見出せる。

 第2章では、ジェンダー非順応な人びとを対象とする先行研究を検討した。まず、性をめぐるカテゴリーの使用は、政治的な可能性や限界として規範的に重要視されてきたが、それらの前提となる当事者がカテゴリーを用いてきた仕方の経験的な検討も必要であることを確認した。そこで、「男」「女」「性同一性障害(Gender Identity Disorder: GID)」などの性のカテゴリーが用いられる仕方を検討した研究を整理し、非二元的な性のカテゴリーが可能にする性の理解や自己知のさらなる検討が必要だと述べた。また日本の歴史的研究は、女装コミュニティ史や、「同性愛者」と「トランスジェンダー」のカテゴリー集団の分離について検討してきたが、非二元的な概念には焦点を当ててこなかった。これらの先行研究の限界を乗り越えるため、本論文では新たな概念の導入が人びとにいかなる実践を可能にするのかを探るというI. Hackingの視座に依拠し、グループにおける活動のあり方や性規範、カテゴリーが身体や性自認などの性の諸要素と結びつく仕方に注目し、非二元的な性をめぐる様々なカテゴリーの運用を探ることを方針とすることを論じた。

 第3章では、本論文の調査では、主に1990年代から2010年代に出版された、性的少数者専門誌やインターネット上のテクスト、29名に対する半構造化インタビューのデータを分析対象とすることを説明した。これらの多様な資料を用いることで、断片的なかたちでしか残されていない、非二元的な概念が用いられた社会的文脈や関連するグループの活動を詳細に探ることができる。分析においては、当事者が非二元的なカテゴリーを、その他のカテゴリーと関連づけながらどのように用い、それによって何をおこなっているのか、多様な文献資料やインタビュー・データを比較検討しながら観察することを述べた。

 第4章から第8章にかけては分析の結果を示した。

 第4章では、1990年代から性をめぐる二元的概念に依拠するカテゴリー集合が定着したが、非二元的な性を表現しようとする試みは、女装コミュニティのごく一部にとどまったことを論じた。女装雑誌や関連する男性学の文献上では、男女のジェンダー表現の切り替えを規範とする「女装者」からの差異化の試みとして、二元論が便宜的なものにすぎないという表明や、「オーバージェンダー」としての自己カテゴリー化が生じたほか、女装者の男女の切り替え規範の揺らぎを指して「インタージェンダー」というカテゴリーも生み出された。しかし「インタージェンダー」は、「TS(transsexual)」「TG(transgender)」概念を二元的な概念として厳密化する帰結をもたらしたことが示された。

 第5章では、1990年代末頃GIDのガイドラインが制定された時期、「G-FRONT関西」というグループでは、非二元的な「性自認」として「X」が名乗られ、脱二元化の試みや性別移行の規範へのついていけなさが当事者によって主張されたことを論じた。GID医療化の結果、二元論に依拠するGIDのガイドラインに基づいて身体的治療を進めることがGID当事者間で規範的とされていた。しかし「G-FRONT関西」というグループでは、グループ代表者やメンバーの活動などによって、「FtX(Female to X)」「MtX(Male to X)」というカテゴリーのもとで、脱二元化の必要を表明し、自らの性別の曖昧さを表現することが可能になっていたことが明らかにされた。

 第6章では、2001年頃から2010年頃、特例法制定を経て戸籍上の二元的な性別とも結びつく形でGID概念が普及したなかで、「X」が関西のグループの文脈を越えていかに名乗られていたのかを明らかにした。GID概念の普及は、GID概念を肯定的にアイデンティティ化する実践を生んだ一方、手術を目指さなければ「FtM」「MtF」ではないとする規範を生じさせた。こうした状況でも「X」が名乗られたことには、関西の諸グループでの活動のほか、インターネット上のネットワークが寄与していた。すなわち、非二元的な性概念を掲げたHPやmixiコミュニティが形成され、これらは「中性」「両性」などと細分化された立場のもと、個々人が性を表現することを可能にした。他方、FtM当事者のメンバーが多いグループでは、手術規範のもと、「X」は未治療であることを表す概念として用いられたことも明らかになった。

 第7章では、「Xジェンダー」や「ノンバイナリー」がインターネットを通じて社会に広まる2010年代に、当事者間で「Xジェンダー」定義の厳密化が生じた仕方を論じた。2010年代前半には、Twitterや匿名掲示板上での概念定義をめぐる論争を経て、「Xジェンダー」の個々人の定義を尊重すべきだとの主張が現れ、身体のあり方から自己を切り離して「Xジェンダー」として自己定位する実践が当事者間に可視化された。2010年代後半には、インターネット上の記事などを通じて、非二元的な概念が「性の多様性」の尊重という文脈や、パスポートの「X」など国外の制度や代名詞をめぐる議論を称揚するかたちで紹介されたことも示された。他方、当事者活動では、国際的に非二元的概念が承認されるなかで、非二元的な性概念を制度に組み込むジェンダー多元化と、二元的な制度の脱ジェンダー化がいずれも生じたことを論じた。

 第8章では、個々人が活動を通じて身につけたカテゴリーに関する知識を織り込みながら、いかにして非二元的な性概念のもとで自己定位してきたのかを論じた。まず、様々なグループに属してきた中高年の調査対象者は、「同性愛者」から自己を差異化し、「X」が用いられ始める以前にも、二元論の乗り越えを試みる思想に触発されていたことが示された。また、トランスジェンダー概念の下位概念として「X」を捉える調査対象者も、2010年代における「X」の曖昧化に対して、自らの認識との差異を表明していた。さらに、定義が定まらない未規定なカテゴリーとしての「Xジェンダー」や「ノンバイナリー」のもとでは、カテゴリーの意味を曖昧化する実践と、非二元的なジェンダー・アイデンティティや身体の医療化を求めて「Xジェンダー」「ノンバイナリー」の意味を厳密化しようとする実践といった、協働や矛盾をはらむ複数の実践が見出された。

 第9章では分析結果をまとめ、以下の意義や課題を指摘した。

 第一に、本論文は非二元的な性概念を一枚岩にとらえずに、時期やグループ、その社会的な文脈の差異に着目しつつ、人びとが非二元的な諸概念を運用することで何を達成してきたのかを多様な資料から明らかにした。これにより、非二元的な性概念を看過してきたジェンダー非順応な人びとの歴史的研究を補完し、特定の地域で用いられた非二元的な性概念が全国に広まるといった一方向的な変遷の記述を乗り越えた。

 第二に、本論文は非二元的な概念それ自体だけでなく、それらの概念に関連するGID概念やトランスジェンダー概念の運用が人びとに可能にしてきた実践をも描き出した。これにより、詳細が明らかでなかったGID等の諸概念の多義的な運用を示し、先行する諸概念が特定の経験を可能にする一方で、残余的な経験を可視化させるという、カテゴリーへの同一化と脱カテゴリー化がせめぎ合う両義的な過程において非二元的な概念が人びとに作用する仕方を明らかにした。

 第三に、本論文は個々人が利用しうる概念や関連する知識の違いをふまえたうえで、定義や社会的意味づけが明確ではない、未規定なカテゴリーによる自己定位の実践を明らかにした点で、経験的研究に対しても意義を持つ。これによりまず、支配的な解釈枠組みを自明視せず、個々人が活動の中で身につけた知識が自己定位の仕方に織り込まれる様相を描くことができた。また、とくに2010年代後半からひろく知られる個々人の定義づけを重視するカテゴリーとしての「Xジェンダー」「ノンバイナリー」が、カテゴリーの曖昧化と厳密化の実践をいずれも生じさせており、これは非二元的なカテゴリーの運用においても、二元的な性別移行の規範とは異なる、当事者間で概念の定義づけを相互に意識しあうような規範をもたらすことを示した。

 本論文は、身体的な水準での非二元的なカテゴリーの運用や、同性愛者グループのメンバーへの聞き取りの不十分さなどの対象における限界を持つ。しかし、本論文が示したカテゴリー運用の分析は、カテゴリー化と個人史との関係や、2020年代のノンバイナリー概念の可視化の影響、日本語圏/英語圏における非二元的な概念運用の関係といった主題へとさらに展開しうる。