本研究は、音響音声学的な方法を用い、現在中国の延辺朝鮮族自治州で使用されている延辺朝鮮語の音響特徴を、若い世代の話者を中心に示したものである。本研究では、延辺朝鮮語若い世代の話者が実現した朝鮮語を、音響音声学的に分析し、幾つかの発見を得ることができた。

 先ず、単母音に於いては、第一、許秦(2022)で解決できなかった課題を中心に、更なる考察を行うと同時に、延辺朝鮮語の若い世代の話者だけの単母音体系を提示した。その結果、先ず、本研究の若い世代が発音した母音/ㅓ/と/ㅗ/に於いて、男女共に於いて縦方向の位置、つまり開口度の順番が先行研究の場合と入れ替わっており、若い世代の母音/ㅓ/と/ㅗ/は、よりソウル方言に近い様相を示していると言える。次に、男性の場合、母音/ㅓ/と/ㅗ/が個人レベルでは区別されているものの、延辺朝鮮語の若い世代の話者の全体からみると、/ㅓ/と/ㅗ/のフォルマント周波数に於ける有意な違いが確認されない。更に、先行研究で女性の母音/ㅓ/は後舌母音として定められたが、本研究に於ける若い世代の話者の母音/ㅓは中舌母音としての性質を帯びている。尚、ソウル方言と咸鏡道方言の母音体系と比較を行い、延辺朝鮮語は音声学的には独自の体系を持ち、今後もソウル方言及び咸鏡道方言とは異なる変化の道を辿る可能性が高いということを提示した。

 第二、非語頭音節に於ける母音の音価のずれが生じる原因を知るため、本研究ではそれに特化された実験を用い、考察を行なった。その結果、非語頭音節に於いて音価にずれが生じるのは、恣意的な面が強く、発音の習慣などの個人差が大きく関与しており、同化、弱化のどちらであると、一括して説明するのは不可能である。

 次に、二重母音の考察に於いて、第一、二重母音/ㅒ/と/ㅖ/の音価の違いが保たれているか否かについて検討し、未だに、男女共に二つの二重母音を区別しているが、男性の場合、両者のF2の値による区別がなくなっていることが分かった。また、[j]系二重母音の場合と同じく、両者の核母音と、それに対応する短母音の音価の違いを男女別に観察したが、男性は二重母音/ㅖ/のF2の値に於いて、女性は二重母音/ㅒ/のF1の値に於いて、有意な違いが見られた。

 第二、同様に二重母音/ㅙ/と/ㅞ/に対しても、上述の方法で考察を行い、今回も男女共に二つの二重母音を区別しているが、二重母音/ㅒ/と/ㅖ/の場合とは逆に、女性の方で両者のF2の値による区別がなくなっていることが分かった。このような現象が生じたことに対し、女性に於ける母音/ㅐ/の音価の不安定性が関わっている可能性を考慮してみることができる。また、両者の核母音と、それに対応する短母音の音価の違いを男女別に確認した結果、女性にのみ、二重母音/ㅙ/と単母音/ㅐ/のF1、二重母音/ㅞ/と単母音/ㅔ/のF2に於いて、有意な違いが現れた。

 第三、母音/ㅚ/と/ㅟ/に関しては、それらが単母音であるか、二重母音であるかについて主に考察し、延辺朝鮮語若い世代の話者から得た音声データを見ると、それらが単母音として実現される場合は50%前後であった。また、母音/ㅚ/と/ㅟ/が単母音で実現されるか否かは、先行子音の種類、置かれた音節位置にも影響される。大体濃音に後行する母音/ㅚ/、歯茎音に後行する母音/ㅟ/が単母音として実現される割合が男女共に高く現れ、母音/ㅚ/は語頭音節に置かれる場合、母音/ㅟ/は非語頭音節に置かれる場合、単母音として実現される割合が若干高いが、相関分析による統計学的な分析の結果、音節位置が、単母音としての実現に対する影響はないとは言えないが、それ程高くなかった。

 第四、様々な環境に於ける二重母音/ㅢ/の音価について検討し、延辺朝鮮語若い世代の話者に於いて、性別に関わらず二重母音/ㅢ/がはっきりとした二重母音で実現される場合は極めて少なく、二重母音として実現されるとしてもほぼ語頭に置かれる場合に集中していることが明らかになった。また、母音/ㅢ/が単母音として実現される場合の音価は、単母音/ㅣ/とは異なり、それよりも開口度が広い[I]のような音価で実現されることが新たに観察された。

 更に、子音の考察に於いて、第一、延辺朝鮮語の若い世代の話者による閉鎖音の音価を、従来の研究による結果と照らし合わせながら、以下のような点をまとめた。先ず、延辺朝鮮語の若い世代の話者が発音した閉鎖音を全体的にみると、VOTの長さによる違いは激音と平音、激音と濃音の間には残っているが、平音と濃音の間にはなくなっており、これは先行研究の記述と一致する。しかし、個人レベルに於いては、平音と濃音のVOTの長さによる違いは未だ保たれており、延辺朝鮮語の若い世代の話者は平音と濃音がVOTの長さに於いての違いをある程度意識していることを意味する。次に、全体的にF0が三種類の閉鎖音の区別に於いて、有意な働きを示さない。これは、延辺朝鮮語が元々ピッチアクセント体系を持っており、ピッチが変わるだけで意味が異なる場合もあるので、アクセントを三種類の閉鎖音の区別にまで、その機能を拡張していくのが難しいからであると思われる。更に、語頭に於ける平音と濃音の区別はVOTの長さではなく、H1-H2が重要な役割を担う。一部のインフォーマントからのデータで、例外的なものが出てきており、H1-H2だけで語頭の平音と濃音の区別を記述するのは適切ではない。

 第二、破擦音の考察に於いて先ず、閉鎖音の場合と同じく、全体的にF0の各音響情報に対する影響は明確ではなく、三種類の破擦音の区別に於ける働きも認められない。次に、FD (frication duration)は、激音と他の二種類を区別する手段として働くということには疑問の余地はないが、破擦音については、置かれた音節に関わらず、平音と濃音を区別する絶対的な条件ではないと言える。更に、H1-H2は、破擦音が語頭に置かれる場合は、三種類の破擦音を弁別する有効な手段になるが、語中に破擦音が置かれる場合、平音と濃音の区別に於ける有効性がかなり劣る。また、語中破擦音の平音は話者によって異なるものの、有声化することが多く、CD (closure duration)が語中破擦音の濃音と激音の区別に有意に働く。尚、COG (center of gravity)も破擦音の種類によって異なり、濃音で一番高く、激音で一番低く現れるが、特に女性に於いてこのような傾向が顕著である。

 第三に、それに引き続いて延辺朝鮮語の若い世代の話者の歯茎摩擦音に対する考察を行なった。先ず、歯茎摩擦音の場合に於いても基本的に、F0は他の音響情報に影響を与えないが、語中環境に於いて、女性の歯茎摩擦音のFDの長さ、及び男女両方に於ける濃音のCOGがF0の高低による違いが有意であった。次に、FDの長さは、語頭環境に於ける二つの歯茎摩擦音の間には、有意な違いが見られないものの、語中環境に於ける二つの歯茎摩擦音の間には、有意な違いが見られた。これは、語中環境に於ける歯茎摩擦音/ㅅ/が有声音化しないため、/ㅆ/と弁別性を保つための補助的な手段として働くのではないかと考えられる。更に、語頭、語中を問わず、二つの歯茎摩擦音のH1-H2の違いは有意であり、平音の/ㅅ/がより高い値を示していた。最後に、女性の場合のみ、二つの歯茎摩擦音のCOGの有意な違いが現れたが、歯茎摩擦音が語頭に置かれる場合はその違いが明確であるのに対し、語中に置かれる場合は、COGによる二種類の歯茎摩擦音の区別が曖昧になる傾向が見られた。

 第四、延辺朝鮮語の若い世代の話者の鼻音に関しては、その音響特徴を先ず観察し、ソウル方言で鼻音が閉鎖音に聞こえるという現象が、延辺朝鮮語の若い世代の話者の間でも起こり得るかに関し詳しく探求した。その結果、先ず、延辺朝鮮語の若い世代の鼻音の音響スペクトラム上での様相は、ソウル方言と大差がなかった。次に、延辺朝鮮語の若い世代に於ける鼻音区間の長さ、即ち、鼻音の持続時間と閉鎖音のVOTの長さを比較し、鼻音の鼻音性が弱化する場合、それが閉鎖音に聞き取られる可能性が高いか低いかを検討した。結果として、延辺朝鮮語の若い世代が発音した鼻音の持続時間はかなり長く、対応する閉鎖音のVOTより明らかに長く実現されていた。つまり、延辺朝鮮語の若い世代の話者が発音した鼻音が、閉鎖音に聞こえる可能性は低いと推測できる。

 第五、延辺朝鮮語の若い世代の流音に対しては、主にそれが異なる音韻環境で如何なる音価で実現されるのかを考察した。先ず、延辺朝鮮語の若い世代の流音は、流音以外の子音の後ろでも鼻音化しない形で実現される場合が非常に多く、従来の音韻規則に必ずしも当てはまらないと言える。次に、朝鮮語の流音は、大きく分けて、舌側音/l/と、弾き音/ɾ/の二つの音価を持ち、語頭・母音間では弾き音、同じ流音と終声に於いては舌側音として、その実現は本来相補的分布を成す筈だが、延辺朝鮮語の若い世代の流音は、話者ごとに流音の実現様相が異なり、音韻規則に反することも多かった。それ故、流音の音価の定義は難しいのであるが、全体的に見れば延辺朝鮮語の若い世代が実現させた流音は、弾き音をそのデフォルトの音価と見なした方がより適切だと思われる。

 第六、最後の考察として、延辺朝鮮語の若い世代に於ける声門摩擦音/ㅎ/の弱化現象を音響音声学的に観察した。その結果、有声音間に於ける声門摩擦音/ㅎ/の弱化はほぼ必須的に起こるものだと言ってもいいだろう。ただ、その傾向としては、先ず、声門摩擦音に先行する要素が子音である場合、それが脱落しやすい環境は、先行子音が鼻音/ㄴ/と/ㅁ/である場合である。次に、声門摩擦音に先行する要素が母音である場合は、高母音、即ち/ㅣ/と/ㅜ/の後ろで、声門摩擦音がより脱落しやすいことが明らかになった。