本論文は、ナワトル語学・理論言語学の両分野において長年主流となってきた、「ナワトル語は非階層構造的 (nonconfigurational) 言語である」という見解に対する反証である。とりわけ、Baker (1996) による複統合性 (polysynthesis) と非階層構造性との不可分性に関する仮説への反例を提示することと、ナワトル語研究における語順現象の談話階層構造的 (discourse-configurational) な理解に資することを主目的とする。第1章 (Introduction) では、こうした研究のねらいを述べる。

 第2章 (Subject Language) は、本論文の対象方言であるナワトル語イシュキワカン方言 (Ixquihuacan Nahuatl) の概略である。同方言は、北プエブラ山地で話されている3つのナワ語方言群のひとつである西シエラ方言に属す。西シエラ方言は、3方言群のなかでもっとも研究が遅れており、包括的な方言記述を必要としている。このため、本章は、本論文の対象言語である同方言のあらましを述べるとともに、将来の西シエラ方言の記述の前提となる基本情報を提示している。

 第3章 (Nahuatl and Nonconfigurationality) では、次章以降の議論のための理論的背景を述べている。とりわけ、Hale (1982, 1983) が「非階層構造性」という概念を提示して以来の、主に1980年代に展開された非階層構造性についての議論と、Baker (1996) を中心とする複統合性と非階層構造性との関係についての議論を概観し、これらの問題におけるナワトル語の位置づけを論じている。

 ナワトル語は、ナワトル語研究者からも一般言語学の研究者からも、典型的な非階層構造的言語とみなされてきた。Baker (1996) の議論もこれを前提としている。 複統合的言語の諸性質を統一的に説明することを目指したBaker (1996) は、「非階層構造的言語における名詞句項は、真の項ではなく付加詞である」とする、Jelinek (1984) の代名詞項仮説 (Pronominal Argument Hypothesis) を理論の中核に据えているため、複統合的言語はすべて非階層構造的であると予測している。Baker (1996) では、議論の中心であるモホーク語と同様に、仮説を支持する言語の例としてナワトル語をくりかえし引用している。

 実際に、ナワトル語は、語順の自由度の高さ、項の自由な脱落、不連続構成素の存在など、非階層構造的言語に典型的とされる特徴の多くを具えている。また、統語論で階層構造性の代表的な基準と見なされてきた照応表現の束縛においても、英語型の言語とは異なる性質を見せる。ただし、ナワトル語型の言語では、項接辞がそもそも照応的ではないため、より分析的な言語で培われた統語的基準が、そのまま適用できるかどうかは疑問である。

 第4章 (Nominal Phrases) では、イシュキワカン方言における名詞句の階層構造性と、定冠詞 n の性質を概観し、同方言の提供する知見が、より柔軟で不定形な統語構造をもつと見なされてきた古典ナワトル語にも適用できる可能性を論じている。

 現代ナワトル語が、句のレベルでは堅牢な階層構造をもっていることや、定冠詞を体系的に用いることは、Flores Nájera (2019) などで指摘されている。本章では、イシュキワカン方言における対応する事実を記述するとともに、Baker (1996) の仮説との関係や、古典ナワトル語にみられる類似の現象との関係を指摘している。

 本章がとくに定冠詞に着目しているのは、複統合的言語における定冠詞の存在が、Baker (1996) の理論への反例であるためである。Baker (1996) の予測では、複統合的言語は、定性を体系的に標示する要素をもたない。これに反して、本章では、意味・統語の両面から、イシュキワカン方言の n が典型的な定冠詞であると主張する。

 また、イシュキワカン方言の n は、古典ナワトル語にみられる不可解なパターンを説明するための「補助線」になりうる。イシュキワカン方言には、主要部名詞と修飾形容詞の間には冠詞が現れない、裸の目的語は動詞の直後にしか現れない、コピュラ文の補語が定の場合には代名詞コピュラが挿入されるなど、厳密な規則や制約がある。これらの規則や制約は、見分けにくいものの、古典ナワトル語にも観察されるもので、Launey (1986, 1994) らによって散発的に指摘されてきたが、これまで重要視されてこなかった。イシュキワカン方言をはじめとする現代ナワトル語と古典ナワトル語との類似点を探ることによって、前者のみならず、後者の理解もいっそう進むものと期待される。

 第5章 (Clausal Configurationality) は語順についての章であり、本論文の核である。本章では、イシュキワカン方言の語順現象を概観し、それを説明する階層構造的なモデルを提案する。

 イシュキワカン方言をはじめ、ナワトル語の多くの方言は、SVO語順と動詞初頭語順の混合パターンをもっている。こうした言語は珍しくなく、マヤ語族に関して多くの研究があるほか、スペイン語型の言語についても、動詞初頭語順に着目した研究が進んでいる。比較統語論の分野では、しばしば、スペイン語型の言語は本質的には動詞初頭言語であり、最頻語順であるSVO語順は派生的な語順であると主張されてきた (Contreras 1991, Zubizarreta 1998)。本章では、イシュキワカン方言における語順のパターンの分析に、スペイン語型の言語に関する研究の蓄積が適用できると指摘する。

 本章では、実際のイシュキワカン方言の語順を説明するために、基底となるVSO構造と、その他の語順を派生させる移動操作を提案する。イシュキワカン方言では、SOV・OSV語順は一般的に許されないが、1つめの項が主題化されると容認度が上がる(S, OV・O, SV のように休止が現れる)。こうした事実から、イシュキワカン方言には動詞の直前に統語的なスロットがあり、動詞に先行する要素は1つだけ許されるという一般化が成り立つ。Zubizarreta (1998) がスペイン語に関して同様の指摘をしており、この位置を [Spec, TP] であるとしている。このことから、本章では、休止によって主題化された要素が現れる位置と、無標なSVO構文の主語が現れる位置が存在すると仮定し、Aissen (1992) にならってそれぞれを「外的主題」「内的主題」と呼んで、その性質を詳述する。内的主題は、一般的な意味での「主題」ではないが、自然言語の文の典型的な形式である主題・論述間の非対称性を確保するために付与される機能素性で、主題的であると考える。

 このほか、本章後半では、非典型的な語順を派生させるための付加的操作を提案する。(i) 外的主題化、(ii) n による焦点化、(iii) 述語焦点化、(iv) 分裂かき混ぜの4つがそれにあたる。(i) と (ii) はナワトル語に一般的にみられる現象で、先行研究でもしばしば指摘されている。(iii) は、VOS語順や、提示動詞以外でのVS/PredS語順を説明するためのものである。(iv) は不連続構成素を分析するためのもので、スラブ諸語などについて先行研究がある。

 ナワトル語の不連続構成素は、無秩序に現れるものではなく、特定の構文において、1語だけが動詞より前に置かれる分裂かき混ぜである。本章では、ナワトル語における分裂かき混ぜを、句内部に旧情報と新情報が混在するのを避けるための3戦略と解釈する。文の構造と情報構造が一致しない場合に、句内の異質な新情報部分を切り離し、形と意味の類像性を回復するために分裂かき混ぜが起こる。一般に、不連続構成素は、非階層構造的言語の典型的特徴とされることが多いが、上記の機能を考慮すれば、ナワトル語における不連続形態素は、むしろ情報構造から独立した統語構造が存在することを示唆する現象であるといえる。

 第6章 (Conclusion) では、前章までの議論を総括し、想定される反論への回答という形で本論文の立場を再確認する。