本論⽂では、⽇中戦争の開始から太平洋戦争が勃発するまでの時期における⽇⽶関係の変化を、主にアメリカ政府の極東政策と、それに対する⽇本政府の対応過程を中⼼に考察する。 ⽇⽶両国の東アジア政策の差異を確認することで、当時のアメリカ政府の極東政策が持つ特徴をより鮮明に理解することができる。アメリカ政府は⽇⽶交渉過程で、太平洋地域における国際関係の諸原則と、貿易関係において各国に対する公平な待遇を約束する通商関係上の原則を強く主張し、その受容を⽇本政府に要求した。戦後にアジアの諸国が独⽴し、新しい国際関係が形成され、安定的な通商関係が維持された点を考えるとき、戦前アメリカが唱えた諸原則が、戦後のアジア社会に及ぼした影響をある程度認める必要がある。そのため、開戦過程においてアメリカが唱えた諸原則の内容と、それに基づく極東政策の持つ意味について考察することは、当時の⽇⽶関係の特徴を歴史的に理解するという意味だけでなく、現在のアジア社会の構成原理についての理解を深めるという側⾯からも、必要な作業であろう。

 戦前のアメリカ政府の極東政策の⽬標は、単に道徳的価値を強調したり、⽇本に敵対したりすることではなかった。第⼆次世界⼤戦が勃発し、⼤⻄洋⽅⾯における危機感が⾼まるなかで、アメリカ政府は太平洋地域に対しては事態の沈静化を望んでいた。このような⽬標に従い、彼らは⽇中戦争に⽇本の戦⼒を引き留めておくために中国を⽀援し、⽇本の戦争遂⾏能⼒を制限するために経済制裁措置を施した。同時に、アメリカ政府は太平洋地域に開放的で平等な秩序が適⽤されることを望んでいた。この地域の諸国に政治的な安定が確保され、公平な貿易関係が確⽴されることによって、この地域におけるアメリカ国⺠の⾃由な経済的活動が可能になり、国益が増進されるという構想であった。そのため、アメリカ政府は地域内において⽇本のような特定国の影響⼒が拡⼤することを望んでおらず、⽇本政府が求めた中国の占領地域に対する⽀配権の承認を最後まで拒否したと考えられる。

 アメリカ政府の極東政策についての理解を深めるためには、当時国務省極東部を率いた専⾨家であったスタンレー・K・ホーンベック(Stanley K. Hornbeck)という⼈物の活動に注⽬する必要がある。彼は極東部⻑と政治顧問として、⼀九三〇年代から四〇年代にかけてアメリカの極東政策を主導した⼈物である。ホーンベックについての先⾏研究では、主に⽇本に対して強硬な政策を主張したことが注⽬され、対⽇宥和的であったグルーと対⽐して彼の強硬な対⽇政策に焦点があてられた。ホーンベックが⽇中戦争で中国を軍事的、経済的に⽀援して⽇本に対する抗戦を継続させることを主張し、また⽇本の戦争遂⾏能⼒を低下させるための対⽇経済制裁を主張したのは事実である。しかし、そのような政策の根底には、太平洋地域における秩序維持のため、中国の政治的な安定が必要であり、⽇本の侵略的な⼤陸政策がそれを妨害していると⾒ていたことがあった。このように彼は積極的な極東政策を主張し、またそれは次第にアメリカ政府内で同意を得ていった。

 本稿は⼆つのことを⽬的としたい。第⼀に、ホーンベックの主張した積極的な極東政策がアメリカ政府内部で如何に拡がり、⽀持を得ていったかに注⽬し、また⽶政府の⽇中戦争に対する介⼊政策が強化されていく過程を確認することである。⽇中戦争の勃発直後消極的な態度を⽰したアメリカ政府は、⼀九三九年の⽇⽶通商航海条約の廃棄を通告し、⽇本の⼤陸政策に反対することを明らかにすると同時に極東問題に対する介⼊の程度を⾼めていった。⼀九四〇年の三国同盟の締結を契機にして中国に対する⽀援を強化し、同年下半期からくず鉄と⽯油製品の輸出を制限するなど対⽇経済制裁措置を施した。⼀九四⼀年七⽉に施された対⽇資産凍結措置とそれに伴う事実上の全⾯禁輸措置は、⽇本に対するアメリカ政府の経済制裁の代表的な事例である。また、同年四⽉から始まった⽇⽶交渉の過程で、国務省は⼀貫 して中国問題に対する⾮妥協的な態度を維持し、結局⽇⽶間の国交調整は実現できず、開戦を迎えるようになった。

 このようなアメリカ政府の積極的な極東政策に対して、⽇本政府が如何に反応したかを検討することが、本稿の⽬指す⼆つ⽬の⽬的である。⽇中戦争の勃発以降、⽇本政府は占領地に対する⽀配権を確保し、中国との戦争を終結させようとする国家的⽬標を持っていた。しかし、⽇中戦争問題が解決されない間に⽇⽶関係が悪化しアメリカからの経済制裁が強化されると、資源の確保が困難となった。⽇本政府が⽇独伊三国同盟を締結したのは英⽶との関係悪化からくるリスクを分散するためであったが、それは結果として欧州の戦争と⽇中戦争を連動させ戦争を世界的規模に拡⼤してしまう危険性を⾼めることになった。⽇⽶交渉過程で、⽇本政府は三国同盟条約の解釈を⾃主的に⾏うことでアメリカに対する参戦義務を事実上放棄することを持ち出し、アメリカ政府に⽇中戦争問題の解決のための協⼒を求める態度を⽰した。しかしこのような提案をアメリカ政府は拒否し、⼀貫して中国におけるいかなる⽇本の権利も認めない態度を⽰した。結局、⽇⽶交渉は合意に達することなく決裂し、⽇本政府は連合国に対する開戦を決定した。

 以上のことに注⽬しながら、各章では以下の内容を明らかにする。

 第⼀章では、スタンレー・K・ホーンベックの極東政策構想を確認し、⽇中戦争勃発期のアメリカ政府の対応を調べた。ホーンベックは太平洋沿岸地域の秩序維持のため、中国の安定化が必要であり、⽇本の⼤陸政策はそれを妨害していると批判した。⽇中戦争の勃発後、彼は事態の収拾を観望する⽶政府の態度と異なり、積極的な事態への介⼊を主張した。 第⼆章は、⽇⽶通商航海条約の廃棄問題が主なテーマである。同条約の廃棄を主張する意⾒がホーンベックなどの⼈物により⼀九三⼋年から議論され、その意⾒は近衛⾸相の「東亜新秩序」声明の発表により急速に省内で拡散され、実施されるようになった。⽇本政府は条約の更新のため努⼒したが、アメリカ政府は⽇本政府の提案を拒絶した。条約の廃棄は、アメリカ政府が⽇中戦争問題により積極的に介⼊することを⽰す意味として解釈された。

 第三章では、⽇⽶諒解案の作成過程で活躍した⼈物、井川忠雄について考察する。彼は経済官僚として活躍した⼈物であり、効率性と合理性を重視する思想を持っていた。⽇⽶交渉に積極的な態度を⽰したことも、経済問題を中⼼とする⽇⽶協⼒が持つ合理性と効率性に注⽬したためであった。

 第四章では、松岡洋右外務⼤⾂の対⽶政策を検討する。松岡の対⽶政策は、三国同盟を軸として、アメリカの欧州戦争への参戦を抑⽌することであった。しかし、アメリカ政府はそれにもかかわらず、対英援助を強化していき、松岡外交に対する反感を強く⽰した。

 第五章では、アメリカによる対⽇資産凍結措置と対⽇禁輸措置の実施を取り扱う。⼀九四〇年後半から⽯油類の対⽇輸出に関する議論は、アメリカ政府内部で⾮常に活発であった。⼀九四⼀年の六⽉頃になると、閣僚レベルで対⽇⽯油禁輸が議論されるようになる。⽇本の南部仏印進駐に際して、ローズヴェルト⼤統領は⽇本に対する全⾯禁輸措置が可能になる権限を現場の官僚たちに与えた。このように、対⽇禁輸措置は政権の⾸脳部と現場の官僚たちの意⾒⼀致によりなされた政策であった。

 第六章では、真珠湾攻撃直前におけるアメリカ政府の対⽇戦略を再検討する。欧州における戦争が激化する中で、アメリカ政府は⼤⻄洋⽅⾯に対する介⼊を強化し、イギリスとの関係を強化していった。⽇本による暫定協定案を拒否し、東アジアにおけるアメリカの⼀般原則を再確認したハル・ノートの⼿交は、暫定協定に否定的であった国務省内の意⾒、中国やイギリスなど連合国の反対があったためだったと思われる。

 第七章では、禁輸措置に対する⽇本海軍の反応を確認し、海軍の対⽶戦争決定過程を明らかにする。資源の確保に敏感であった海軍が、アメリカの経済制裁に対してどのように反応したかを論じることで、⽇本の開戦決定過程をより深く理解することができよう。

 結論として、次の⼆点を指摘することができる。第⼀に、アメリカ政府、とりわけ国務省の極東専⾨家たちは、⼀九⼆〇年代から太平洋全域の安定した秩序の維持とそれに基づく通商的⾃由の確保が、アメリカの国益につながると考えた。そのため、ホーンベックの率いる極東部の官僚たちは、⽇中戦争以降中国政府を⽀援し、⽇本の戦争遂⾏能⼒を妨害するための経済制裁の実施を主張した。⽇⽶交渉の期間中には、彼らは⽇中戦争で獲得された⽇本の諸権益を⽶政府が承認することを拒否した。このような彼らの態度は、⽇本の⼤陸⽀配により、アメリカの⻄太平洋地域に対する影響⼒が深刻に損傷されるという判断に基づいていたものと考えられる。

 第⼆に、⽇本政府の指導者たちと軍部は、⽇中戦争の勃発以来、終始⼀貫中国問題の解決を最も重要な国策として考えていた。⽇独伊三国同盟の締結のときにも、この問題は重要な⽬標として扱われ、⽇⽶交渉過程においても、これはアメリカとの交渉事項の中で最も重要な項⽬として扱われた。このような態度は1941年7⽉、アメリカ政府が全⾯的禁輸措置を施し、⽯油など重要な戦略物資を獲得することができなくなった以降にも維持された。独ソ戦が勃発し、ドイツに対するアメリカの参戦が決定されるなど、国際的戦略環境が⼤きく変化する状況で、⽇本政府と軍部は⽇中戦争問題に集中することを選択し、戦略的柔軟性を発揮することができなかった。