18世紀半ばにジュンガルを滅ぼし、カシュガル・ホージャ家の反乱を鎮圧した清朝は、中央アジアの東部、天山山脈の南北に広がる地域を勢力圏に収め、新疆と名付けた。その後19世紀末の国境画定により西北部がロシア領になった以外は、清朝時代の新疆の領域がほぼそのまま現在の新疆ウイグル自治区となっている。この約250年の間、中国の政権、すなわち清朝、中華民国、中華人民共和国はどのようにしてこの地域への影響力を保ち続けていたのか。特に政治的な混乱が続く一方で、経済開発や漢族の進出など、現代まで続く変化が生じた19世紀後半から20世紀半ばまでの時期は、新疆の歴史の中で重要な意味を持つ。本論文は、この時期を近代と呼び、この期間における中国による新疆統治を財政の観点から考察するものである。

 序章では、新疆財政の基本的な姿と先行研究の状況を示した上で、財政支援という課題とその意義を提示した。辺境防衛のために新疆には18世紀末から常に大規模な軍隊が配置されていた。この軍隊を維持するために多くの軍事費が必要であったが、現地での税収は限られていた。この財政赤字を補うためには、中央政府や財政的に余裕のある省が資金を送ることが必要であった。新疆統治の安定性や新疆と中国内地の関係を考察するためには、この財政支援の分析が不可欠である。しかしながら個別の産業分野の発展や税制、貨幣に関する先行研究は存在するが、財政構造の全体像や財政支援の実態の解明は不十分である。そのため本論文では財政支援について、制度、金額、地理的要素の三つの側面から計画や実態の解明を試みるとともに、財政支援制度と他の財政制度との関係、財政支援の実現具合と新疆統治の安定性との関係、資金を負担する機関の変化などから見る新疆と他地域との関係について考察することを目的とする。

 本論文は時系列を追う構成を採っており、第1章が18世紀半ばから19世紀半ばの動乱の発生まで、第2章から第4章が清末、第5章、第6章が中華民国時期を対象としている。

 第1章では、新疆統治をはじめた清朝が、当初作り上げた財政支援制度とその実態について分析した。清代には財政的に余裕のある省が、中央政府の指示を受けて、別の省へ資金を送る協餉と呼ばれる制度があった。新疆と甘粛省へ協餉を送る際には、経費の見積もりや送金の指示を早めたり、甘粛省が立て替え払いをしたりする特別な措置がとられていた。また現銀を現地に備蓄する制度もあり、協餉を送るための距離や時間を克服するための努力がなされていた。さらにカシュガル・ホージャ家の勢力が新疆南部に侵入を繰り返した1820年代から1840年代には、新疆へ臨時の軍費が送られるとともに、協餉の規定や備蓄制度が整備された。しかしながら、協餉が届いたとしても武器や茶など新疆では購入することが難しい物資もあった。こうした物資は内地から新疆へ直接輸送されることもあった。また制度面の不備も残っていた。特に甘粛省との間で新疆東部の財政的位置づけが曖昧であり、新疆内でも協餉が地域別、機関別に管理されているなど、この時点では新疆全体を財政的にまとめる構造がなかったことを指摘した。

 第2章では、1860年代から1870年代にかけて中国の西北部に広がった動乱の鎮圧過程における軍費の供給について考察した。動乱以前から引き続き、新疆へは主に山西、河南、四川といった内陸の省が財政支援を行うことになっていた。しかし当初清朝は陝西と甘粛での軍事活動を優先したため、新疆へ送られる軍費は少なく、軍事活動は進まなかった。1865年以降に沿海部の省からの資金が西北部へ送られるようになり、大規模な軍事活動が可能になり、動乱は平定された。

 従来の研究ではこの動乱鎮圧における左宗棠の役割が強調されてきた。本論文でも、彼の作った規定の持続性や資金調達の成功という点で、左宗棠の役割の大きさを確認した。一方で、送金の実現には中央の承認が必要であったことや、中央政府や彼の前任者による計画の存在も指摘した。また、左宗棠は管理する部隊や軍費の範囲を徐々に広げていったものの、最後まで彼の管理が及びにくかった部隊も残っていた。

 第3章は1884年の建省について論じた。建省とは清朝による新疆省の設置とそれに伴う様々な改革を指す。この前後の時期における、新疆への協餉の実態と関連する議論を、軍縮との関係に着目して分析した。建省を主導した左宗棠や劉錦棠は、多くの資金を求めていたと考えられるが、実際には軍事活動終了直後の1878年に届くことになっていた金額を、以後も継続して送金するよう求めることしかできなかった。しかしその後は軍縮が進展する一方で、予定されていた送金額の削減は行われなかった。清仏戦争の期間を除けば、送金状況も良好であり、中央政府や内地の省は、新疆への協餉の確保に努めていたといえる。

 送金経路を見た場合、動乱鎮圧後も各部隊への送金命令が乱立していた。建省に伴って、協餉の流れを一つにまとめる改革が行われた。従来はこの改革については、建省後も八旗の武官である伊犂将軍に一定の権限が残されたことから、財政権限の一元化が不十分であったと説明されてきた。しかし軍縮により撤退した部隊への資金の流れは整理されたこと、送られた資金を新疆巡撫が分配する体制が確立したことから、改革は成果を収めたと言えるだろう。

 第4章は、辛亥革命までの清末省制時期を対象として、財政支援の受領と移転の構造や、紙幣発行を含めた財政状況の変遷を解明した。この時期の新疆では、新疆巡撫、伊犂将軍、塔爾巴哈台参賛大臣の三者が財政上の関係を持ちながら活動していた。巡撫の下に位置する布政司庫には封存銀と呼ばれる銀の備蓄が毎年行われており、臨時の支出に対応していた。巡撫から伊犂将軍への支援も行われており、省制とそれに伴う布政司庫の存在が新疆財政に柔軟性や安定性を与えていた。

 財政支援の実現具合に着目すると、建省から1899年までは協餉はほぼ規定通りに到着していた。義和団事件の際は一時的に協餉が届かなくなり、さらに1904年以降は送金規定額そのものが減らされたものの、山西や四川という内陸部からの支援は依然として届いていた。通説では義和団事件以降には協餉が届かなくなったとされてきたが、この時点でも送金状況はある程度安定していたことが明らかになった。1907年以降は協餉の到着額が急速に減少し、事実上の不換紙幣の発行が兵士の不満や社会の混乱を招くことになった。

 第5章は省長楊増新が新疆を統治した1912年から1928年までの期間を扱う。まず彼の統治時期の財政収支の全体像と貨幣政策の解明を試みた。民国最初期は政治情勢だけでなく、財政的にも混乱期であったといえる。財政支出は多く、紙幣発行で収入を補っていた。1916年から1919年頃までは短い安定期であり、体制の確立とともに歳出が減る一方、歳入の増加が見込まれた時期であり、この時期には紙幣の回収が進められた。その後1920年、1925年と段階的に歳出が増えていく時代に入り、それに伴って新たに発行される紙幣の量も増えていった。ただし1920年代には、新たに発行された紙幣はある程度の信用を得て流通していたと考えられる。

 従来は、辛亥革命以後は新疆への財政支援は行われなくなったとされてきた。しかし1919年頃までは中央からの財政支援がある程度確認できる。史料不足により1920年代後半の状況は不明であるが、辛亥革命以降も中央政府や内地の各省は、新疆に対して直接あるいは間接的な支援を行っていたことを明らかにした。

 第6章は、1928年から1949年までの新疆の財政収支と貨幣政策について検討した。1930年代初めまでの動乱期の財政難から1934年以降の盛世才統治時期による財政状況の回復、1940年代半ば以降の財政状況の急速な悪化、という展開は先行研究の認識と同じである。ただし本論文では、盛世才の統治時期やその後も内地からの支援があったこと、特に1939年から1942年頃まで行われていたソ連から国民政府への軍事援助に関わる送金が、内地から新疆への資金の移動に重要な意味を持った可能性があることを指摘した。

 1939年の新疆の幣制改革により、新疆と内地の幣制は強いつながりを持つことになった。しかし同時に、内地から流入した大量の法幣や金圓券は新疆に滞留し、価値の下落によって新疆財政や現地社会を混乱させた。

 終章「財政支援からみた新疆の近代」では、本論文全体を通観して、新疆に対して行われた財政支援の特徴を分析し、さらに財政支援が新疆統治の中で担った意義について考察した。

 新疆への財政支援制度は成立当初から、送金にかかる時間を短縮し、臨時の支出にも対応できるように工夫されており、近代にはさらに制度が整備された。この制度によって多くの資金が新疆へ送られ、新疆統治の安定に貢献した。このことは、辛亥革命以後に内地の省が自律性を高める中でも、新疆省が中央政府とのつながりを保っていた理由の一つだと考えられる。財政支援により、辺境を防衛し、中国の一体性を保つという構造は、18世紀半ば以降常に存在していたのである。

 一方で近代における変化も指摘できる。建省以前の新疆への財政支援は、地域別、部隊別に送金する形を採っており、新疆と甘粛の財政的な境目も不明瞭であった。布政司庫を中心として資金を受領し、省内に分配する体制を作り上げた建省は、新疆に財政的な枠組みを与える改革であった。この財政的な一体性は、新疆という地域が一つのまとまりとして存続することに寄与したと考えられる。