秦・前漢期における労役制度の類型と変遷

石原 遼平

 本論文は、中国秦漢時代における労役制度の類型と変遷を、出土史料から明らかにしようとしたものである。本論文における「労役」は基本的には国家による強制労働全般を指す語として用い、刑徒労役・債務労働・兵士の諸労働への転用なども考察対象としている。
 秦漢時代の労役制度の研究は正史などに残る断片的な記述や後漢時代以降の注釈によって行われてきたが、近年では秦漢時代の出土簡牘が急激に増加しており、これを用いて詳細に分析できるようになっている。
 中央集権的な大統一帝国として一括りに論じられることが多かった秦帝国・漢帝国だが、近年の秦漢研究では、統一帝国の成立後に残る地域性や地方行政の独立性が指摘されており、一元的な統一は長い年月をかけて段階的に成立したものであることが明らかにされている。本論文でもこのような秦漢帝国の地域性と歴史的展開を重視して労役制度を分析する。
 本論文は三部構成とした。第一部では労役制度に関係する簡牘史料の校訂と史料的性質の検討を行い、従来の研究では引き出し切れていない情報を引き出した。第二部では秦漢時代の各種労役について検討し、各制度の対象者、労役内容、義務期間、徴発方法などについて論じた。第三部では秦漢期を通じて労役制度の変化および変化の意味について検討した。

 各章の概要は以下のとおりである。
 第一章では、里耶秦簡の労役関連史料の校訂と集成を行った。秦の辺境の県城遺跡から出土した里耶秦簡には、刑徒身分による労役や徭に関する史料が多数含まれるが、釈読の正確さや簡の復元は不十分であるため、内容の検討に入る前にこれらの作業が必要であった。主に図版から再検討することで、より正確な情報を引き出すことに成功している。また、労役身分の労役内容が記録された「作徒簿」校訂・集成を行い本論文末尾に付した。 

 第二章では里耶秦簡作徒簿の作成から廃棄までの経緯、作徒簿の書式などを検討し、この史料を用いる際の留意点を探った。その結果、これらの簡が少なくとも一年程度保管された後に保存期間を満了して廃棄されたものであること、一般民の労役と労役刑徒の簿は別に作成されたことなどが確認できた。
 第三章では、里耶秦簡「作徒簿」を用いて刑徒身分の労役について検討した。その結果、秦の県行政は労役刑徒の労働力に大きく依存しており、その労役の性質は県行政の維持・中央への貢納・軍需に大別できることがわかった。また、労役刑徒の内訳についても検討し、隷臣・隷妾という比較的軽い犯罪によって転落する身分の男女比が極めて不均衡であることが判明したが、これは重大犯罪者の家族が没官された隷妾とされたことによると考えた。さらに、秦末には労役刑徒の人数の肥大化による管理不全が起きていたことを示唆する史料があることも指摘した。
 第四章では、更卒による労役について検討した。従来、更卒は一般民の代表的な労役だと考えられてきたが、本論文ではこれが制度上は県に属する兵士と位置付けられていたことを指摘した。更卒の労役が「徭」という一般民の徴発に含まれるか否かについて議論があるが、検討の結果「徭」の範疇には含まれないことを確認した。これは、更卒をはじめとする上番労役従事者が、県に属する下級の役職として扱われたためである。これらの知見をもとに、出土史料増加以前に最も重要な史料であった「董仲舒上言」について再検討すると、「董仲舒上言」はこれまで労役体系全体を述べたものとして扱われてきたが、ここに述べられているのは、従来考えられたような労役体系ではなく、「更卒」と「正衛」という地方と中央での軍役が成年男子の二大負担であること、および年間に徴発される辺境守備の人員数と諸々の力役の人員数が古よりも大幅に増加していることの二点のみであるとみるべきであることを述べた。

 第五章では「徭」と呼ばれる労役について検討した。「更」が「徭」に含まれるかについては従来から議論があるが、「徭」の運用範囲、義務日数、徴発方法などを検討することで、更卒の役をはじめとする「更」で従事する労役は「徭」には含まれないとの結論に至った。「徭」は女性を含む一般民の臨時徴発であり、様々な労役に従事させることができたが、原則的には急激な労働力需要に対応するための補助的な位置づけにあり、県に属する下級官吏・労役刑徒・兵士などを動員して足りない場合にのみ、実施が許可されたことを指摘した。「徭」の義務日数については爵位によって異なり、不更十二日、簪裊二十四日、上造三十六日、公士四十八日、無爵者七十二日である可能性が高いことを指摘した。徴発方法は自動的に義務期間に入る「更」とは異なり、県から郷に必要人数を割り当て、次に郷は里に必要人数を割り当て、最後に里で戸(世帯)や算(人頭税基準値)などによって、各人に割り振られたと考えられる。 

 第六章では秦・漢初の刑徒身分の肥大化の主要な要因である「収」の原理と淵源について検討した。秦および漢初には重大な罪を犯した男性の妻子及び財産を没官する「收」という制度があった。これは従来、祭祀の継承を断つことの威嚇効果による犯罪抑止を目的とした制度だと考えられてきたが、犯罪以外による「收」の事例や「收」の免除規定を検討することで、戸主が恒常的な重い労役を伴う身分に転落し、農業生産に寄与しない戸を解体し、再分配する目的があった可能性が高いと考えた。また、この制度は漢文帝によって廃止されるが、その目的は第三章で検討したような刑徒数の肥大化による財政の圧迫および女性・未成年の比率の増加といった問題を解決するためのものであったことを指摘した。
 第七章では、松柏漢簡「卒更簿」を用いて、更卒の負担日数の地域ごとの不均衡および更卒制度の変遷について検討した。文帝改革により民の主要な労役負担となった更卒は、県に所属する兵士であるという制度の特質上、各県の労働力需要と成年男子の人口によって上番頻度が変動し、各県で負担が均一にならなかったことを明らかにした。このような不均衡は銭納の普及により解消され、負担が一律となり、更数が減っていったと考えられる。
 以上、全七章の検討に基づいて、終章では秦・前漢期の労役制度の全体的体系および秦・前漢期を通した制度の変化について検討した。
 第一節では、第二部での検討によって明らかになった個々の労役制度の特徴をもとにこれらを体系的に整理すると、秦の制度設計では大きく分けて二種類の方法によって国家の運営に必要な労働力を徴発していたと考えられることを指摘した。一つは役目・身分を割り当て、県官のスタッフとして役目に就くものであり、これは常勤あるいは上番制で従事する。もう一つは爵位によって規定の日数が義務付けられる狭義の徭役であり、これが「徭」と呼ばれる。後者の「徭」は、規定の上では前者の役目労役では労働力が賄いきれない場合のみ行われるもので、臨時的労働力需要に応じるための補助的な徴発である。また、前者には成人男性しか従事しないが、後者には女性も従事すると考えられる。身分による労役には刑徒労役・官奴婢およびこれに準ずる債務労役などがある。役目による労働には行政上の何らかの任に除されるものや軍事的な任に就けられるものなど様々な性質のものがある。これら役目・身分労役はいずれも特定の役職・身分につけて、県官のスタッフとして扱うものであり、常勤を基本としているので、義務日数は設けられていないが、上番で従事することもある。上番制の場合はその役目に任じられた者が一回一ヶ月を単位として、三交代から十二交代の頻度で上番する。これに対して「徭」は労役の内容は決まっておらず、多目的に臨時に徴発されるものであり、年間一定の義務日数が設けられている。「徭」には中央の財政の一部という性質があり、更卒の役・刑徒労役に代表される役目・身分労役には県のスタッフとしての性質があることも指摘した。
 続いて、第二節では第三部の各論で明らかになった諸事実を総合することで秦・前漢期の労役制度の変遷について検討した。秦・前漢期の労役制度は幾つかの段階を経て変化するが、中でも重要な転機は漢文帝の労役刑徒の削減と昭帝期の更卒の錢納化であると理解した。文帝改革による大規模な刑徒削減の埋め合わせのために、更卒の雑多な労働への転用が増加したとみられ、これによって、更卒は名目上では兵士であるが、事実上は輪番制の労役となると考えられる。これが、漢にあたかも「更」と「徭」という二系統の労役があるかのように見える原因であるが、その実、「更」は県の下級の役目の就任形態であり、狭義の労役とは区別されることを指摘した。これらは、事実上の労役に変化しても、県に属する兵士という本来の制度の名残は暫く残り続けるため、年間の負担日数は県ごとに大きな差があったが、昭帝期の更卒の錢納化以降にこれが解消され、この変革によって本来県に属する兵士であった更卒は中央財政に取り込まれることとなることを指摘した。 

 第三節では、本論文で検討した秦・前漢期の制度と後世の制度を比較した。秦漢時代の労役制度の後世への影響はあまり指摘されてこなかったが、本論文で検討した結果、秦・前漢期の労役制度の体系は、後世の制度と類似点が多く、中国徭役制度の基本構造は秦漢時代にすでに形成されていた可能性が高いのではないかと述べた。
本論文で論じた点は多岐にわたるが、秦漢労役制度の全体像を明らかにし、県に属する役職・身分による役目としての労役が中心であった秦制から、漢文帝期以降に段階的に一般民の負担へと変化し、漢昭帝期以降に最終的に中央財政に取り込まれる経緯を説明したことが特筆すべき成果であると考える。

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