東周時代は中国古代史上における一大画期に位置づけられる。先行する殷~西周時代では祭政一致の神権政治に特徴づけられる古代王朝が発達し、青銅器の授受が王と諸侯の支配関係を形成・維持するうえで重要な媒介として機能していた。一方、秦漢時代では郡県制に代表される中央集権的支配体制が確立し、その諸制度は後の歴代王朝へと受け継がれることとなった。東周時代はこれら両時代の過渡的段階に位置し、秦漢時代の諸制度の揺籃期としての性格をもつ。それゆえに、同時代の様相の解明は中国古代史のみならず、古代東アジア世界における国家形成の問題を考えるうえでも不可欠の重要性を有している。

 これまで東周史研究の主流を占めてきたのは文献史学によるアプローチであり、実証的な歴史研究が同時代社会の様々な側面を明らかとしてきたことについては、今さら贅言を要しない。ところが、春秋・戦国それぞれの時代における史料状況の違い、両時代の過渡期に関わる史料の欠乏などに起因し、東周時代全体を通じた長期的視点に立つ分析が阻害されているという問題点も存在する。こうした問題点を解決するために、本論文は通時的分析を得意とする考古学の手法に基づき、東周時代全体を通じて最も豊富に出土資料が得られている華中地域を主な対象とし、社会構造の変革を青銅器の生産・流通体制の側面から明らかにしようと試みるものである。

 本論文は以下の6章から構成されている。

 第Ⅰ章では王権の祭祀を支える重要な器物として機能した東周時代青銅彝器を中心に、これまでの研究の歩みを振り返り、そこに見られる方法論上の問題点を指摘した。第一に器形・紋様・鋳造技術がそれぞれ個別に論じられ、それらを総合的に捉える視点が欠如していたこと、第二に青銅彝器同士の共伴関係に大きく依存した編年の方法が採られていること、第三に帰納された型式学的変遷が何を意味するのかという点が等閑に付されていること、第四に青銅器の果たす役割が極端に単純化して捉えられ、複雑なライフヒストリーの形成に十分注意が及んでいないことが挙げられた。

 第Ⅱ章では上記の反省に立ち、まず華中地域出土の青銅彝器を対象として、器形・紋様・鋳造技術を複合的に捉える視点から型式分類・編年を行い、東周時代全体を10期に区分する編年案を提示した。また同時に銘文史料などから各時期に絶対年代を与えるとともに、各器種・型式を横断して現れる単位紋様の表現手法に着目、それに基づいて資料群を設定し、作器者銘などとの対応関係からそれらが製作系譜の異同を表したものであることを論証した。さらに各製作系譜の分布上での動態を確認し、当初は複数の製作系譜が併存する形で行われていた青銅彝器生産が、前5世紀後半から前4世紀前半の戦国前期にかけて変質していき、前4世紀後半以降には一元的な生産・流通体制が確立していた可能性を指摘した。こうした動きは中央集権的支配体制の形成と密接な関わりがあるものと考えられるため、これまで文献記載の少なさによって様相が不明とされてきた戦国前期が、画期としての重要性を帯びていた蓋然性が浮上した。

 第Ⅲ章では、祭祀とともに古代における重要な国家事業とされた軍事の側面を明らかとすべく、当時最も盛行した青銅製武器である戈戟を取り上げ、第Ⅱ章と同じく型式学的分析からその生産・流通体制の変遷を論証した。まずは属性分析に基づく型式分類・編年を行い、東周時代全体を6時期に区分するとともに、銘文や出土文字史料から各時期の絶対年代を考察した。続いて各型式を横断して現れる形態的特徴の相関関係から、戈戟全体を5つの資料群に大別、それらが製作系譜の違いを表したとする仮説を立て、時期ごとの組成、分布の変化などからそれを検証した。その結果、青銅彝器に見られたのと同じように、戈戟においても当初複数の製作系譜の併存が前5世紀後半、前4世紀中頃の2回の画期を経て解体され、一元的な生産体制が達成されることを説いた。従来より中原地域出土の戈戟の銘文分析から、その生産体制は国家形成と密接な関係があることが指摘されてきたが、本章の分析結果によって、銘文史料が少なかった華中地域においても同様の動きがあったことが明らかとなった。またその端緒が戦国前期にまで遡る可能性が提示され、第Ⅱ章の分析結果と併せ、改めて同時期の重要性が浮き彫りとなる形となった。

 第Ⅳ章では河南省淅川県で発見されている楚墓群出土の青銅彝器を対象として、伝世という現象に注目しながら、ライフヒストリーの変化とその歴史的背景について考察を行った。研究者の間で年代観に混乱が見られた淅川楚墓群出土の青銅彝器のなかには、製作年代と埋納年代の間に大きなずれが生ずる、いわゆる伝世が発生している可能性を指摘、これまでの共伴関係に依拠した編年では「ノイズ」として扱われてきた伝世を、型式学的分析と銘文分析の両面から客観的に認定し、その性質の変化を論証した。その結果、おおよそ春秋末を境として伝世のあり方に大きな変化が見られることが判明し、淅川楚墓群に埋葬された薳氏一族のなかで、他氏族から贈与された器から、自ら長期間継承し伝世した器へと重視される対象が移り変わる様子が見られた。このことは、急速に政治的優位性を失いつつあった、旧世代の貴族の置かれた時代環境と深く関わるものとし、同時期に発生していた大きな社会変化を別の角度から照射する現象である可能性を指摘した。

 第Ⅴ章では、青銅彝器のもつライフヒストリーの多様性をさらに明らかとするために、対象地域を中国全土に広げ、青銅彝器の生産から流通、副葬に至るプロセスを考古学的分析、銘文分析の両面から考察した。山西省侯馬市で発見されている鋳銅遺跡出土の鋳型を取り上げ、そこに表された紋様の特徴を分析、同じ特徴をもつ製品の分布状況の検討から、それが同時代の貴族社会のネットワーク、遠交近攻の外交戦略に影響される形で、一諸侯国の領域をはるかに超える遠隔地へと流通していた実態を明らかとした。さらに銘文内容の検討から、青銅彝器の流通の契機には婚姻や贈与など、様々な儀礼的文脈が見られることを確認し、そうした契機によって移動を繰りかえす青銅彝器が、結果として長期間伝世する現象も見られることを指摘した。こうした伝世青銅器のほかにも、当時製作されていた青銅彝器のなかには、西周青銅器を忠実に模倣した「倣古青銅器」の存在も認められた。来歴の深度、遠い過去や伝統を表象するという機能が、当時の人々によって重視されていたことが推測され、青銅彝器のもつこうした側面が、この時代に新たに求められるようになった「レガリア」としての価値を裏書きしていたと考えられる。このことはまた、周王室の権威が衰退した春秋時代社会の大きな特質を反映していると結論づけた。

 第Ⅵ章では以上の各章の検討結果をまとめ、さらにその結論に対して補足を行った。第Ⅱ章・第Ⅲ章の検討により、華中地域では前5世紀後半から前4世紀前半にかけて青銅器の生産・流通体制に変革が起きていたことが明らかとなったが、それは第Ⅳ章・第Ⅴ章で検討した青銅器の扱われ方・ライフヒストリーの変化とも軌を一にするものである。特に青銅彝器の型式変化に顕著に表れていたように、量産化に伴う製作工程の省略と、伝統的な紋様を保持しようとする保守性との鋭い対立は、新旧世代の貴族間、および同時期に形成されつつあった「都市型官僚層」との間に生まれていた絶えざる社会的矛盾の表出として捉えられ、大局的に見れば後者が前者を徐々に圧倒する様子が窺われる。そして一元的な青銅器の生産・流通体制が現出した前4世紀後半には、国家的な財政機構や物流統括の機構、さらにはそれに支えられた新たな身分制や王権のあり方が確立していたことが推測される。

 以上の検討結果を踏まえるならば、これまで文献上で中原諸国との比較から後進性が指摘されてきた楚国においても、戦国中期頃には相当程度に中央集権化が進行していたと評価され、なおかつその形成のうえで、前5世紀後半から前4世紀前半の戦国前期が大きな画期をなしていたと帰結される。このことは、東周時代社会像を捉えるうえでも重要な意義を有し、その解明に向けて新たな視角を提供するものと言える。