本論文は、『源氏物語』における登場人物たちの密通にかかわる罪の問題を中心として、物語がいかに儒教や仏教などの思想や宗教から影響を受けているのかを明らかにすること、そして、それらの思想、宗教をテクストの内部に取り込む物語の方法について考察することを目指した。『源氏物語』において、同時代の社会の価値体系は、登場人物の意識や心情に表れると同時に、物語の論理に取り込まれながらその展開を導き、作品世界を形成する大きな要素となっている。そこで、罪の問題にまつわる作中表現の分析から登場人物の意識を抽出すると同時に、作中に取り込まれた種々の思想、宗教が物語の構造においてどのような機能を担うのかを探った。

 第一部「光源氏・藤壺・冷泉」は、『源氏物語』のいわゆる第一部における光源氏と藤壺との密通の問題を中心に扱っている。第一章「藤壺の密通についての意識-「心の鬼」について-」では、藤壺の密通に対する罪意識について考察した。諸注釈において、密通にまつわる「心の鬼」は「良心の呵責」と訳され、登場人物が自身の犯した行為について罪の意識をもってとらえているとされている。これに対して、用例分析を通じて必ずしもこの語が倫理的反省の意識を表さないことを確認した。また、この語の用法には散文と和歌とで違いが見られ、密通などの秘密を抱えた人物の心情を描く『源氏物語』に特有の表現である可能性を指摘した。そして、そのように物語が作中人物の罪の意識を描き出すことを避ける点に、この物語の方法があることを論じた。

 第二章「須磨・明石巻の天変」では、須磨・明石巻で描かれる天変を題材に、天変をもたらす主体となる様々な霊威・神威が物語中で果たす役割について考察した。天変は、神仏や「もののさとし」、故桐壺院の霊などさまざまな形で語られているが、それらはそれぞれに作中の文脈を形成しながら接続し、源氏の流離から帰還までの大きな物語を導いている。物語の展開とともに天変のもつ意味は変化し、源氏の罪に端を発しながら、源氏に神仏の加護をもたらし、後には朱雀帝の責任を追及する。こうして、深部に秘匿された源氏の罪を償われたかのように見せることで、のちの栄華に潤滑に接続させていく物語の方法を考察した。

 第三章「冷泉帝の罪」では、密通によって出生する冷泉帝を取り上げ、作中で描かれる冷泉帝の「罪」の内容について論じた。諸説の整理を踏まえ、冷泉帝が親の罪を「宿世」として引き受けるという先行研究の理解の妥当性について検討し、疑義を唱えた。冷泉帝の罪は一義的には「不孝の罪」としてとらえられるのであり、冷泉帝の源氏に対する「孝」の実践が源氏の栄華を実現させていくという構図のうちに、日本において受容された「孝」思想や天命思想が物語中で利用されるあり方をみた。源氏の潜在的王権によるものとして論じられることも多かった冷泉帝の源氏補佐であるが、冷泉帝の行動は儒教的論理によって支えられている。

 第四章「光源氏の罪と道心」では、物語中で出家を志向する光源氏の思惟と密通の罪との関わりについて考察した。須磨下向以前においては密通の「罪」は主に愛執の罪として源氏に自覚され、出家願望と結びつく瞬間もあったが、それが持続することはない。そして、須磨下向以降においては、須磨への退去とそこでの擬似的出家生活を経て、源氏の密通の「罪」は問題にされないか、神仏から「ゆるし」を得ているかのように源氏に意識され、出家願望へと発展することはない。源氏に出家願望が兆すのは、自身の栄華を実感した際であり、栄華の実現と表裏一体である以上、どこまでも根源的なものとはなりえない。第二部以降、源氏の密通の「罪」が本格的に問題とされていき、柏木と女三の宮との密通事件が生じた際は、父桐壺帝に対する恐懼をもって源氏は藤壺との密通を振り返る。しかし、源氏の意識において、密通事件が深く反省されることはなく、人生の憂愁として位置づけられる。そこでは、そのような憂愁を得たためにかえって功徳を得たとする思惟が繰り返されるのであった。このように、密通の「罪」は物語の局面に応じて、源氏の人生にとって別の意味を持つのであり、源氏の罪に対する意識の描かれ方が動的に変化する諸相を確かめた。

 第二部「柏木・薫」は、『源氏物語』の第二部、第三部を題材に、女三の宮と密通を犯す柏木や、その子薫について考察した。第一章「柏木の密通事件における意識」では、物語の第二部で密通事件を犯す柏木がどのように「罪」を意識するのかを考察した。柏木の意識の中では、「源氏に対する葛藤」「女三の宮への思慕の念」「露見の恐怖」「死の覚悟」という四つの要素が繰り返し出現している。その中で密通を肯定的にも、否定的にもとらえる点が柏木の意識の特徴であった。柏木において、罪の意識と結びつくのは、「おほけなし」「そら恥づかし」「空に目つきたるやう」といった語で表現される源氏への畏怖と露見への恐怖である。当初、源氏に秘密が知られることを恐れていた柏木の意識は、超越的存在としての天への恐懼に変わる。そして、自らの死を自覚してからは、源氏だけでなく、後に残していくことになる家族に対しても「罪」を実感するようになる。柏木の「罪」の意識は、密通そのものに対してよりも、光源氏や自らの周囲に対して発生するのである。光源氏においても、密通自体は情愛の発露として人間の避けられない業であるとして諦観する意識が見られる。

 第二章「不義の子薫の背負うもの」では、第三部における薫について、両親の不義密通が人物の造型や物語の主題的内容とどのように関わるのかを考察した。薫は、第三部の始発から「罪」を背負うとされる人物であったが、その罪の内実を探ると、冷泉帝に見られたのと同様、父に対する不孝の罪としての性格を帯びている。しかし、冷泉帝が自らの罪を解消するために源氏へと孝を尽くすことで、源氏の栄華が実現されていくという第一部の世界とは対照的に、薫の心内で煩悶されるのにとどまり、その出生の秘密を知ったことが後の物語の展開にかかわらない。一方、薫の道心について考えると、薫がなぜ出家を志すのか、作中にはっきりとした説明がないことが問題となっている。先行研究では、薫の人物造型や物語の主題の面から論じられることはあったものの、その直接的動機はあまり説明されていない。これを両親の罪との連関でとらえると、両親の罪障軽減のために自らが出家を志すという薫の孝心と、両親の不義密通とその悲劇的帰結から生じた結婚及び人間関係全般に対する根源的な絶望とが孝思想の論理と「世」の語の利用によって語られていることに気づく。かようにして、両親の密通の「罪」は薫の心内の深部に根付いているのであった。

 第三章「薫の「世」」は、前章の延長としての薫の「世」をめぐる意識についての考察である。薫の物語において「世」の語が多義的・多層的に、繰り返し用いられており、それによって薫の厭世観や出家願望が重層的に描かれることを確認した。また、「世」の認識が宇治の八の宮や大君たちとの共感を生む一方で、現世への執着へと転化していく過程を読み取った。自らが「世」と異なる憂愁をもつという自覚によって精神的に結ばれていた薫と大君であったが、薫が大君に「世」づくことを求めるがために、二人の心に埋めがたい溝が生じる。やがて、二人は「世」を隔てることになり、薫は現世にさすらい続けるという皮肉な情況が「世」の語の反復を通じて描かれるのである。

 ここまでの研究は物語による思想、宗教との関係を探り、物語の方法を発見するものであったのに対して、附章の「花宴の史実と虚構—「探韻」を中心に—」は、物語が歴史を取り込むことによって、いかに虚構世界を構築するかを明らかにするものである。花宴巻で描かれる作詩の儀式描写を取り上げ、当時の歴史的実態や先行する『宇津保物語』での描写との比較対照を通して、物語の方法を論考した。先行研究においてあまり解明されていなかった「探韻」という作詩遊戯を主に取り上げ、物語の准拠の問題としてとらえている。さらに、儀式の場における天皇と臣下の関係について、物語的虚構という観点から考察した。