中世和歌と絵画・空間の相関

石井 悠加

序章

 本論文は絵画・空間との相関という視点から中世和歌を捉えることを主旨とする。そのために和歌の本質の、ひいては中世の文化的領域の拡大の要因となった「王権」と「宗教」に注目する。この二つでは、継承されるべき権威や正統性を可視化する目的のためにさまざまな手段が試みられているが、本論は主に「絵巻の制作」「御所の創出」に注目してこれらの可視化の動向における和歌の介在の様態について論じる。

 

第一部 絵巻『慕帰絵』の和歌

第一章 『慕帰絵』の制作意図──和歌と絵の役割について──

 本願寺三世覚如の観応二年(一三五一)の死の直後に制作された伝記絵巻『慕帰絵』(全一〇巻)に収載されている和歌を検証すると、四世善如に関連する詠歌が最も多く、当時はまだ稚児の姿であった善如は、立場の重要性を示すように覚如の側に頻繁に描かれている。また善如が覚如と直接関わる四つの場面では、彼が祖父覚如の後継者であり、深く心が結びつく存在であることが示されている。本絵巻は和歌と絵という二つの表現手段により、覚如の後継者の存在を示す意図を持つものなのである。

第二章 『慕帰絵』の和歌──慈円詠との出会い──

 愛息を亡くした日野兼光の元へと慈円が贈った慰問の詠歌は尊円親王の編纂した慈円家集『拾玉集』に収められたが、後に尊円親王はその詠歌が載る「慈円和尚御記」を、同じく愛息を亡くした日野資明の元へ送っている。覚如二男従覚が「家集的」とも言われるほどの父の大量の贈答歌群を『慕帰絵』巻九第三段に収載した理由は、一門の出自である日野家のこの出来事に触発されたためである。

 この贈答歌群の関連人物を検証すると、その多くが覚如の死の前後に亡くなった人々であることが分かる。『慕帰絵』は一門を支えた人々の記憶を、世情混乱の中で急激な世代交代を迎えることになった子孫へ伝える役割をも担う絵巻であった。

第三章 文明年間の『慕帰絵』補作について

 『慕帰絵』の巻一・巻七は足利将軍の召し上げにより紛失し、文明年間の八世蓮如の時に新たに補作されている。補作以前の詞書を伝えると考えられる蓮如書写本や本善寺本などによれば、もとの巻七第一段には勅撰集入集を願う覚如詠も収められていたはずである。しかし補作にはその一首はない。これは補作時に蓮如によって意図的に削除されたためと推測される。覚如は死後に勅撰歌人となっており、その願いが既に果たされたことがこの削除の要因かと考えられる。

 

第二部 和歌と絵巻・絵画の相関

第一章 『拾遺古徳伝絵』の和歌――真宗絵巻における法然の日吉社頭詠――

 法然門下における親鸞の位置を明確にする目的で親鸞伝絵とともに制作されたという真宗の法然伝絵巻『拾遺古徳伝』だが、他の法然伝にはない松山配流の折の詠歌場面など、親鸞の動向とは無関係な法然の詠歌場面が独自に設けられている。特に注目されるのは、少年時代の法然が出家を目前に日吉社頭で行われた歌会で和歌を詠む場面である。その和歌の表現は本地垂迹思想とも受け取れる上、画面には歌会の光景は描かれず、日吉社に参拝する法然の姿が描かれている。これは神祇不拝から権社崇拝へと転換していく14世紀前半の真宗によって求められた法然像であり、南北朝期以降の真宗系法然伝で踏襲されるこの場面は、次第に明瞭な本地垂迹思想の表現へと変容していく。

第二章 『遊行上人縁起絵』の和歌――白河関の一遍詠――

 時宗開祖の一遍の行状を描いた二つの絵巻『一遍聖絵』と『遊行上人縁起絵』は、どちらも白河の関で和歌を関所の柱に書きつける一遍を題材とした場面を持つ。その場面は白河関で和歌を詠んだ西行を想起させるが、その意図はそれぞれで異なり、前者は一遍が関屋明神に加護を願った場面、後者は制作者で一遍死後の教団を担った他阿真教が一遍とともに旅をし和歌を詠じた場面となっている。また前者は『西行物語絵巻』の白河関の場面と、その前後の雨宿り場面、藤原実方墓探訪場面を摂取したものと見られ、そして後者は正統な歌人の系譜に一遍を連ねようという意図をも持つことが、一遍の端正な容貌の描写から推測される。それは白河関では歌人は先人に敬意を評して身なりを正すべきだという説話に基づいた、歌人他阿真教による表現なのである。

第三章 『道成寺縁起』の和歌

 道成寺の絵解きに用いられている絵巻『道成寺縁起』の内容は、『今昔物語集』などに同話を収めるが、先行文献とは異なり、僧への女の執着の念と女の愛を受け流す僧の心情が偽の贈答歌ともいうべき詠歌によって表現れている点に特徴がある。熊野権現の名の下に女を裏切るこの絵巻独自の表現には、女の蛇体への変化を必然のものとする効果がある。

 また絵巻は逃げる僧と僧を追いながら姿を変じていく女の間に割り込むように「塩屋」(塩焼小屋)を描き込んでいるが、これもまた「塩屋の海人」が恋の苦しみを連想させるものであるという詠歌表現を利用したものである。

第四章 世阿弥の佐渡配流と『金島書』

 将軍の勘気を蒙り佐渡へ流罪となった世阿弥は、その旅の過程と佐渡での見聞を詞章とした小謡集『金島書』を制作した。ここで世阿弥は都に伝わっていた京極為兼配流時の奇瑞伝承の舞台を佐渡の八幡宮に設定しているが、これは将軍足利義教の篤い八幡信仰を意識してのことだろう。

 『金島書』は古典の引用によって様々な流罪の古人を連想させるが、その端緒となるのが瀟湘八景のうちの「遠浦帰帆」の想起と白居易の詩句の引用である。ここで世阿弥は自身が謡の主体となり、これらの古典の中の水辺の老翁像と一体化する。そして源顕基の「配所の月」の引用により、舞台でかつて演じた作品の中の流謫の人々の境遇に今現実に置かれているという世阿弥自身の感慨を、新たな作品へ結実させているのである。

 

第三部 和歌と離宮・別業の相関

第一章 北山殿における詠歌史

 西園寺家が13世紀前半に北郊に造営した北山殿における詠歌史の様相を、公経・実氏・実兼・永福門院鏱子・実俊までの所有期に分けて辿る。

 北山殿の造営当初、周辺には大規模な桜の植樹が行われた。公経の死後も実氏・実兼期の西園寺家が天皇家と強固な姻戚関係を結ぶ中で、北山殿は行幸御幸の地となり、次第に北山の桜は御幸を迎えるために植えられた「みゆきを待つ桜」と記憶されるようになり、詠歌表現の中にその記憶が共有されるようになる。御幸の伝統が途絶えた後にも、永福門院鏱子詠や日野名子の日記、処刑された公宗遺児の実俊の詠進歌などの中にその記憶が留まっている。

第二章 鳥羽殿における詠歌史(付・年表)

 白河院が11世紀末に南郊に造営した鳥羽殿は、院政期の政治と文化の最も重要な舞台である。その詠歌空間としての特質を歴史・景観・権力関係を通して明らかにする。

 12世紀末から13世紀初の争乱による荒廃を経ても、鳥羽殿は再興されて歴史と権力の象徴としての意義を保持した。しかし後嵯峨院期の再興の後、両統迭立期以降の鳥羽殿は荒廃の一途を辿る。その時に鳥羽殿が持っていた意義を再び想起させる役割を果たしたのが和歌である。亀山院は和歌で亀山殿が鳥羽殿に代わる空間であることを示し、伏見天皇は鳥羽殿への朝覲行幸を行い、白河・堀河両院以来の正当な鳥羽殿の所有者の系譜にあることを和歌に詠出している。

第三章 亀山殿における詠歌史

 後嵯峨院が13世紀半ばに西郊に造営した亀山殿では、既存の「亀山の桜」という神仙思想的な詠歌表現を実景として再現することを目的として、造営当初に吉野山から運ばれた大量の桜の植樹が行われている。この離宮には仏事空間、女院たちの居住空間、眺望・晴儀の空間などとしての役割があり、その役割がそこで詠まれた和歌にも影響している。後嵯峨院は亀山殿に対する所有意識をたびたび和歌に詠み、ここでの和歌は『続古今和歌集』賀部の中核となった。後嵯峨院の廷臣の中で14世紀まで生きた小倉公雄は、後嵯峨院の文永二年九月の歌合の盛会での御製歌を強く記憶に留めて、この日への懐旧の念を晩年まで詠み続けた。南北朝期に入って亀山殿が離宮としての役目を終えた後にも後嵯峨院期に植樹された吉野の桜のイメージは謡曲〈嵐山〉へと継承されている。

第四章 白河殿における詠歌史

 白河殿は11世紀後半に藤原頼通から白河院に献上された鴨川東の別業を前身とし、13世紀後半に亀山院によって禅宗寺院(南禅院)に改修された。それ以前にも白河には貴族たちの別業があり、桜を訪ねて人々が散策する遊覧・風流の地であった。院政期の白河では歌林苑という新たな文芸圏も形成されている。そのため白河殿には人々が往来する開放された都市的空間という他の離宮にはない側面があったことがこの地を舞台とした説話や歌会、詠歌表現などに表われている。また白河では川底の砂の白さと川岸の桜が詠まれるが、この桜は栄華の地であり人々で賑わう白河と幽玄の地である吉野のイメージとを結ぶ架橋ともなっている。

 

終章

 絵巻と仙洞離宮の関係を捉えることで、中世和歌と絵画・空間の相関性を示す。

 後白河院が法住寺殿内の蓮華王院宝蔵に蒐集・秘蔵した絵巻のコレクションは権力の象徴であったことが知られる。ところがその後、後鳥羽院の水無瀬殿については四季の風景を御製歌とともに描いた絵巻が制作され、後嵯峨院の亀山殿については宸筆御八講の法会を描いた絵巻が制作されている。亀山院は「絵合」を企図したが、そのために調進されたのは、亀山院の威光が父院時代に遜色ないことを示すために後嵯峨院時代の行事を描いた絵巻であった。ここには絵巻を保管する離宮から離宮を記録する絵巻へという関係の変化が見える。

 絵巻にはある時空の記憶を留め、保管し、再び放つ仕組みが求められる。その時に力を発揮するのが舞台としての離宮であり登場人物の肉声としての和歌であった。

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