古期ギリシア語碑文に見られる定動詞の接語としての性質について

松浦 高志

 古代ギリシア語において,定動詞が接語(clitic)としての性質をもっていたこと,すなわち定動詞がアクセントをもたず前の語とひとまとまりにして発音されていたことを,本論文ではおおむね紀元前4世紀半ば以前に刻まれた古期ギリシア語碑文を用いて直接的に示す.定動詞がアクセントをもたないことは,古インド・アーリア語(ヴェーダ語)で主文の定動詞がアクセントをもたないことから簡単に予想される.またJacob Wackernagelは,古代ギリシア語において,名詞の呼格形と定動詞が語頭寄り(recessive)アクセントをもつことを根拠に,間接的にそれを示した.もっとも,古代ギリシア語でアクセントが表記されるようになったのは紀元前3/2世紀にビューザンティオン出身のアリストパネース(Aristophanes Byzantinus)が表記方法を考え出してからと言われているから,本論文で扱うような古期ギリシア語碑文では,アクセント記号が実際にどのように付されているかということを根拠に,定動詞が接語としての性質をもつことを示すことはできない.しかしその代わりに,接語としての性質に付随して碑文中に現れる数々の特徴をもとに示すことは可能である.本論文ではそのような場合を見つけ,可能な限り多くの例を挙げることによって,定動詞がアクセントをもたなかったことを初めて体系的・横断的に示した.

 接語としての性質に付随して碑文中に現れる数々の特徴というのは,主に(1) 連声(れんじよう)(sandhi),(2) 区(く)切(ぎり)記号,(3) 音節文字における空(くう)母音(empty / prop vowel)のことである.まず,ἐν πόλει > ἐμ πόλειのように,ある単語とある単語の間で連声が起こっていれば,その二つの単語はひとまとまりに発音されていたと考えられるから,どちらかの単語が接語としての性質をもっている可能性がある.すなわちこの例で言えば前置詞ἐνが接語である.次に,今回対象とするような古い碑文では,まだ分かち書きが行われていない(単語を区切るための空白はまだ用いられていない)が,同様の目的で区切記号,すなわち縦棒(|)やコロンのような符号(:)が用いられている場合がある.そのような碑文の中で区切記号が用いられていない箇所があれば,その前か後ろの単語が接語としての性質をもっている可能性がある.最後に,古いキュプロス方言碑文では音節文字が用いられているが,この音節文字では,語末の子音は空母音(実際には発音されないダミーの母音)を付した形で表される.ただし,その語末の子音の直後に前接性をもつ接語が続いた場合,その空母音は付されないことがある.したがって空母音の付されない例を調べることで,それに続く語が接語としての性質をもつかどうかがわかる場合がある.

 まず,第2章で区切記号の用法について検討した.区切記号とは,単語(群)を区切るために用いられている句読点類のことである.区切記号が,ある碑文では | ἡ ἀπαρχή | のように定冠詞と名詞の間で用いられていないのと同時に定動詞を区切るためにも用いられていないのならば,それは定動詞がアクセントをもっていないことを示している可能性が高い.ただし区切記号の用法は割合複雑であり,区切記号が用いられているために接語としての性質をもっていないように見える場合でも,実はその区切記号がほかの目的で用いられているために,実際には接語としての性質をもっていないことを表しているわけではない,ということが起こりうる.このような場合について,先行研究である程度は調べられているものの,本論文で扱うには不十分である.そのためすでに見出されている区切記号の用法をさらに詳しく検討するとともに,まだ見出されていない区切記号の用法がないかどうか検討し,ある単語が接語としての性質をもつかどうかの根拠として区切記号の用法を挙げる際にできるだけ誤りがないようにした.その結果,明らかに定動詞が前接している例がいくつか存在することを,区切記号の用法を根拠に示すことができた(第2.5.4, 2.7, 2.8節).なお,新たに「定型句の後に置かれる」という用法が存在することも示すことができた.これは動的νの用法と密接に関わっているため,第3章で詳しく検討した.

 第3章では,動的νが定型句末で用いられることがあることを指摘した.これ自体は定動詞が前接していることの直接の論拠として用いることはできなかったが,第2章で述べた「定型句の後に置かれる」区切記号の用法の類例として挙げることができる.これは次のように示した.碑文において動的νは,本来不要である箇所(子音で始まる単語の前)でも用いられていることがある.まず,そのような場合のいくつかは,その動的νが定型句末にある場合であることを新たに指摘した.次に,動的νの用法の一つに文末の単語で用いられる動的νがあることを考慮すると,定型句末で用いられる動的νは,ある種の区切りを表している可能性が高いということになる.さて,これは第2章で示した「定型句の後に置かれる」区切記号の用法と類似しており,またそれらの原因は同じであると考えられる.したがって,定型句の後ではある種の区切りがあると感じられたために,その箇所で動的νを用いたり,区切記号を置いたりすることがあると言える.

 第4章では,連声が広範囲に起こるゴルテュン方言碑文について検討した.たとえばἐν πόλει > ἐμ πόλειでは,隣接する単語の間で外連声(external sandhi)が起こっているが,これと同様のことが,たとえば「名詞+定動詞」の組み合わせで起こっていれば,それは定動詞がアクセントをもっていないことを示している可能性が高い.さて,ゴルテュン方言では,ほかの多くの方言では失われた印欧祖語由来の語末の「母音+-νς」をそのまま保っているが,語末の「母音+-νς」は,次に母音で始まる単語が続く場合にはそのまま保たれる一方で,子音で始まる単語が続く場合にはνが脱落して -ςに変わることがある.このような変化が起こるかどうかには,単語の後接性または前接性が関係していると考えられる.したがってゴルテュン方言では,外連声と語末の「母音+-νς」のふるまいを調べることで,ある単語が後接性または前接性をもつかどうかを調べることができると考えられる.定動詞の前接性が明確に見て取れるのは,いわゆる『ゴルテュン法典』(紀元前5世紀)中のὀμνύς「誓いを立てた上で」(ICret. IV.72.ix.21)である.このὀμνύςは,ゴルテュン方言では本来*ὀμνύνςとなるべきである.これがなぜὀμνύςとなっているかについての満足な説明は今まで誰も与えていない.これは直後の定動詞κρινέτο (= Att. κρινέτω)が前接し,これら二単語がひとかたまりで発音されたからである.その結果連声が起こり,連続する子音のうち一つが脱落して *ὀμνύνσ-κρινέτο > ὀμνύσ-κρινέτο(5文字目の太字にしたνが脱落)となったと考えられる(第4.4節).また同じ『ゴルテュン法典』中では,指示代名詞οὗτοςの男性複数対格形にτούτος / τούτονςの二つの形態が存在するが,なぜこれら二つの形態が存在するかについての満足な説明は今まで誰も与えていない.実はこれにもὀμνύςと似た説明を与えることができる.すなわち指示代名詞οὗτοςが接語としての性質をもつことがあるためにこれら二つの形態が存在すると言える(第4.7節).

 さて,ゴルテュン方言碑文には,文章アクセントに関して新たな仮説を導くことができる例が存在することを指摘した(第4.9節).『ゴルテュン法典』中には,副文中の定動詞が接語としての性質をもっていることを示していると考えられる例がある.これは古インド・アーリア語で,副文中の定動詞がアクセントをもっている(接語としての性質をもっていない)ものとして表記することと矛盾するように思われる.しかしこの矛盾は,「副文中の定動詞のアクセントは,主文中の定動詞のアクセントよりは高いが,名詞等のアクセントよりは低い」と考えれば解消されることを指摘した.すなわち,古代ギリシア語と古インド・アーリア語の文章アクセントが,仮に印欧祖語のそれを受け継いでいる場合,高いアクセントと低いアクセントの中間段階のアクセントが存在し,副文中の定動詞のアクセントはその中間段階のアクセントに近いものであったのではないか,という仮説が導かれることになる.ただし,ギリシアとインドの双方の古代以来の文法学においては,中間段階のアクセントの存在は基本的に否定されている.そのためこの仮説についてはさらに検討が必要である.

 第5章では,キュプロス音節文字碑文について検討した.キュプロス音節文字では,空母音の扱いを調べることで,ある単語が前接あるいは後接しているかどうかがわかる場合がある.しかし空母音の用法も区切記号と同様に複雑である.したがってその用法を注意深く検討した上で,定動詞が前接しているために空母音が用いられていない箇所を指摘し,キュプロス方言碑文でも,定動詞が前接していたことを示すことができることを指摘した(第5.4.10節).またキュプロス音節文字を用いた碑文でも区切記号が用いられていることがあるが,やはりその用法を慎重に検討した上で,定動詞が前接していると考えられる例を指摘した.

 以上より,古期ギリシア語碑文によっても定動詞が接語としての性質をもつことが示されたと考えられる.

 最後に,以上の検討の過程で定動詞のアクセント以外についての新たな知見も得られたと考えられる.たとえば様態小辞ἄνは前接語にも後接語にも分類されないが,実際には後接性をもっていることが示唆された.さらにこれと語源が同じ可能性の高いκαが前接語であることから,これらの単語は前接性と後接性の両方をもっている可能性があることが示唆された.

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