六朝時代においては、詩人たちが文辞それ自体の美しさを意識するようになり、詩や文の内容、表現される情や志と同様に、それをいかにして伝えるか、すなわち修辞が重視され、詩文の表現が磨かれ、散文とは異なる詩的言語が形成された。この傾向は陸機の「文賦」、鍾嶸『詩品』や劉勰『文心雕龍』などの論述からも窺える。一方、詩人が詩文表現にかける営為は、自己のもつ言語・教養など諸々の条件に縛られ、その条件は詩人の精神世界と深く関わっている。そのため、本論文では詩人の精神世界のあり方という視点から詩的言語の形成を研究する。

 この課題について考察を行う上で、第一部では言語、第二部では信仰の側面から詩的表現との関係を論じる。さらに、当時においては、権力者や文化を指導する人物の周りに文人が集まり、諸々の文士集団を形成し、詩人の考え方や言葉遣いも集団内での交遊に影響され、作り出された詩的表現はその集団に属する詩人同士の唱和により共有され、伝播されたことから、第三部では蕭子良の西邸集団を例として、詩的言語の成立に文学集団が果たした役割を検討する。 

 第一部は、第一章と第二章からなる。文学は言葉で綴る芸術であるから、詩文の創作には言語をどのように用いるかが根幹となるが、詩は韻文であるため、言語の諸要素の中では音韻の重要性が大きい。そこで、第一部では音韻が詩的言語に与えた影響を検討する。第一章では南朝における韻字の消長と新しい詩語の創作との関係を扱った。晋宋時代から斉梁陳隋にかけて、詩文の韻部は次第に区分が精密になった。韻部の分化により、新しい韻字が用いられるようになり、韻語(韻脚にある韻を構成要素に含む語)もそれ以前の時期よりさらに豊かになった。斉梁詩人の韻字使用状況を分析してみると、新しい韻字は往々にして沈約を始めとする用韻の精密な詩人の作品に出現したことが分かる。一方、庾信・蕭綱など、韻字を広く同用していた詩人の作品にも新しい韻字の使用は見られるが、それらはほとんど斉梁以降細分化した韻部から出たものである。それゆえ、斉梁時代の新しい表現の創作は韻部の細分化と何らかの関連があることが窺える。本章では五言詩を主な題材として、何大安氏の『南北朝韻部演変研究』、王力氏の『南北朝詩人用韻考』の韻譜、周祖謨氏の「斉梁陳隋時期詩文韻部研究」「魏晋宋時期詩文韻部研究」などの研究成果を参考にして、魏晋から南北朝までの韻部区分を比較することによって、どのような韻字が消長したかを確定した。さらに、南朝詩、特に沈約・庾信の作品を例としてあげ、韻字の使用状況を考察し、詩語の創作・伝播と音韻との関係を検討した。

 第二章では、第一章で論じた斉梁時代における詩語の消長と詩語の変化に続き、韻字使用が最も精審であった沈約を中心として、音韻の弁別と韻語の創作について考察した。当時、韻字を細分し独用していた人物には沈約のほか、王融・謝朓・范雲もいる。彼らはいずれも蕭子良の西邸に招かれた文士であるため、彼らが音韻を細かく弁別して用いているという事実は、西邸で行われた集会と関係があるのではないかと推測される。南朝時代には、優秀な文士たちが貴族のサロンに招かれ、詩文を競作したり、文章の討論を行ったりした。現存する西邸文士の作品には「阻雪連句遥贈和」という連句詩があるが、連句詩の創作を行おうとするならば、文士たちの共通認識となっていた韻部の区分があったはずであり、西邸で行なった四声に関する討論が詩人たちの音韻意識を練磨した可能性は高い。用韻が精審であるためには、厳密な弁音と語彙の構築の二つの要素、つまり、音韻に対する敏感さと語彙の蓄えとが必要である。西邸における編書・抄書を通して文士たちは豊富な知識と語彙を吸収したと考えられるが、学識だけでは用韻の精審さをもたらすのに十分でない。沈約は自分の言語的才能を生かし、新しい韻語を作り出したことで、その詩における韻字の使用は時代を超えてひときわ目立つ精審さを示すに至ったということが、江淹・任昉と比較することにより明らかとなった。

 第二部は、第三章と第四章からなる。六朝時代には、道教や仏教などの宗教が盛んになり、詩人の宗教受容の在り方も文人の知識構造や思考回路に影響を与え、さらに詩的表現に影響を及ぼした。そこで、まず第三章では、詩における仙道描写の在り方とその効果を考察した。特定の場で歌われた祝頌的な遊仙楽府とは異なり、遊仙詩は、仙道表現を用いて幻想世界を構築するものの、現世から神仙の世界を眺めた詩である。遊仙詩以外にも、南朝詩においては、楽府やその他の詩でも仙道描写が使用されている。思想に目を向けると、神仙思想が存続した一方、儒家的神仙観も当時の士人の思想に潜んでおり、このような思想の在り方は詩人の用いた仙道描写の複雑性を導いた。神仙思想の風化に従い、遊仙楽府の創作も衰えたが、神仙説や道教によって誕生した言葉や表現は簡単に消えることはない。仙道描写を支えた思想上の基礎がなくなっても、姿を変えて別の形で使われ続けた。これらの仙道描写は、神仙以外のコンテクストでも美辞として用いられるようになり、詞藻の華美を重視する南朝詩人の詩的表現を豊かにしてきたのである。

 第四章では、仏教詩における山水描写をめぐって、仏教遊山詩の位置付けとその描き方を考察した。南朝では仏教が盛んになり、仏教詩も多く作られた。その中には、山に登って山水の景物を描くものがあり、本論文ではひとまずそれを仏教遊山詩と名づけた。仏教遊山詩は仏教と関係をもつが、神秘的な幻想を描くというより写実的精神によって山水景物を詠うものであり、なおかつ文人詩の流れに位置している。そのため、仏教遊山詩の表現や技法はいずれも従来の詩賦の伝統から養分を得たものといえる。また外なる事物に対する仏教的観照法も加わって、仏教遊山詩にはいち早く後世の山水詩のような景物描写が出現し、山水詩の成立に大きな影響を及ぼしたのである。

 第三部は、第五章と第六章からなる。ある語句を使用する際に、それを他人との関わりなしに一人で使用していたのでは、文学史に影響を与えることはできない。集団が形成され、その中で新たに作り出された表現を相互に学び合うということがあったために、その表現がほかの場へと広まり、ひいては言語表現を豊かにしていったのである。西邸サロンは当時の一流の詩人たちに、詩の表現を切磋琢磨する場を提供し、そこで行われた詩文創作活動は、斉梁、さらに隋唐に至るまでの詩文表現に影響を与えた。文人たちが集団の中で互いに及ぼした影響は無形であるため、その存在を推察することは難しい。集団の内部において、彼らがいかに影響を及ぼし合ったのか、また言語表現がどのように後世の詩人に継承されたのかということについて、文献には明記されていない。第三部では西邸サロンで作られた応教詩や唱和詩の言葉遣いを比較することを通じて、集団文学の成立を明らかにすることを試みた。その中で、第五章では蕭子良の西邸サロンの性格を分析して、蕭子良の文学集団の政治的影響が希薄だったため、西邸文士が参加した集会の多くは文化社交的な性格を帯びていたことを指摘する。

 第五章を前提として、第六章では西邸における応教詩・唱和詩・贈答詩・同題詩の創作で見られる文士たちの詩的言語の共有と伝播を考察する。西邸では蕭子良が名儒や名僧を招致したり、類書の編纂を行ったりしたほか、「文章談義」と詩文唱和の会も行なっており、これらの活動を通して、西邸はそこに所属する文人が互いに交際し、知識や表現を共有する場となった。西邸文士の共作作品(同じ場で作った同題詩や贈和詩)には、詩的表現の類似点が見られ、文学集団において詩的表現が共有され伝播したことが看取できる。さらに、それらは後世の詩人たちにも受け継がれていった。

 本稿は以上の方面にわたって、南朝詩人の詩的言語がいかに成立したかを考察した。詩人の持つ言語や思想、また外的な側面では詩人同士の交際や交流、これらはいずれも詩的言語の成立と伝播に影響を与えた。以上のように、詩の表現が生まれるメカニズムを探求することを通して、六朝期以降の韻文の研究に一つの視点を提供することを試みた。