1. 博士論文の目的、問題設定

 本博士論文(以下、本論文)は、清水幾太郎(1907-88)の社会学的著作を主な検討対象とし、彼の社会学者としての歴史的位置付けを明らかにすることを目的とする。日本の社会学史の中で、清水幾太郎は、主に戦後の論壇の中で時には左派のオピニオンリーダーとして、時には右派の核武装論者として論陣を張った著述家として、もっぱらその政治的立場の変遷に徴してその歴史的な位置付けがなされてきた。しかし、清水は同時に、社会心理学・社会意識論研究、メディア研究、社会学史研究といった多くの分野において後続世代の社会学者に大きな影響を与えた社会学者でもあった。『流言蜚語』(1937)、『愛国心』(1950)といった社会心理学的研究、また『オーギュスト・コント――社会学とは何か』(1978)といった学史的著作は思想史や社会学の観点から高い評価を受け、今なお再刊が進められている。

 そこで本稿では、清水幾太郎の社会学がいかなる問題意識の下に展開されたものであったのかを明らかにすることをその課題とする。既存の清水論では、彼の政治的立場の振幅の大きさや関心の変遷、また時事的な発言も含めた著述の多さのため、彼の社会学者としての姿を統一的に描くことはなされてこなかった、という問題があった(2. 以降で具体的に論じる)。

 本論文では、清水幾太郎の社会学に一貫した主題があるという立場に立ち、上記の問題を克服することをめざした。具体的には、清水幾太郎の社会学的著作のなかで、「人生」、つまり人間が社会の中でどのような自己形成を果たすのかという主題と、「闘争」、つまり人間が生きること自体が社会の中に潜在する矛盾や欠陥との闘いであるという主題とが密接に連関しているという点に着目することにより、彼の1930年代から50年代の著作のうち主要なもののうちに、これまで論じられてこなかった清水の一貫した社会学的関心が通底していることを明らかにできるのではないか、という見込みのもと、分析を進めた。

 

2. 先行研究の整理と本稿の立場

 これまでの清水幾太郎に関してどのような研究がなされてきたのか。本稿は、清水に関する先行研究を、大きく以下の三つの研究群に区分している。

 第一に、主に日中・太平洋戦後から60年安保闘争の時期までの平和運動における清水の活動に着目して、彼を戦後の出版メディアの中で活躍した政治的オピニオンリーダーとみなし、同時期の社会の中に位置づけようとする知識人論的な研究群である。こうした動向を代表する主要な研究として、小熊英二(2003)、竹内洋(2012)が挙げられる。これらの研究は、清水の社会学的の内容を分析の対象としていないという点で本稿の関心とは距離が大きい。

 第二に、戦前以降の社会学的著作も含む清水のテクストを分析の対象として、清水の思考と活動の変遷を明らかにしようとする思想史的な研究群である。主要な研究として、庄司興吉(1975)、天野恵一(1979)、庄司武史(2015, 2020)が挙げられる。これらの研究は、清水の思想的歩みをテクストベースで検討しているものの、彼の社会学的著作の主題、意義、問題意識に対する十分なフォローがなされていない。

 第三に、社会学内部の個別の分野から清水研究の学説史的な意義を回顧する研究群である。メディア研究の分野では吉見俊哉(2000)、Fabian Schäfer(2012)、社会学史の分野では河村望(1973-5)、秋元律郎(1979)などが挙げられる。これらの研究は、清水の社会学をそれぞれの分野に即した関心から部分的に扱ったものであり、さまざまな研究を通底する清水の問題意識が明らかになっておらず、個々の研究群の相互連関が不明確のままである。そのため、個々の研究に対する評価も不十分のままになっている。

 こうした研究動向に対し、清水の社会学を統一的に描くことを目指すという立場から、本稿は次のような視角を取って分析を進めた。

 第一に、上記の先行研究は共通して、清水が書いた自伝的著述をベースにして、清水の活動や思想を解釈しようとしている。しかしながら、本稿は清水の自伝的著述自体が、人間の人生の歩みを社会との闘争とみなすという彼の社会学的関心と密接に連関して書かれた作品であるという立場に立ち、その相対化を目指した。具体的には、分析の対象とする個々の社会学的テクストが扱っているところの内容、問題意識、受容のされ方を、テクスト自体の記述内容や社会学的概念、これまで扱われてこなかったテクストとの関係、出版に至るまでの経緯を点検することによって、彼の思想的行路を独自の仕方でトレースし直すことをめざした。

 第二に、同時代の人間関係の中で、清水がいかなる目的をもってその著作を書いていたのか、また、どういう読者がどのように清水の著作を読んでいたのかという点に着目し、清水の社会学を取り巻く同時代的なトポスを明らかにすることをめざした。そうすることで、清水の社会学的著作の内容をよりよく理解することができるのみならず、清水の社会学いかなるものとして同時期の社会に浸透していったのかを、それ自体社会学史の一コマとして論じることができるという見込みのもと分析を進めた。

 

3. 全体の構成

 本論文は、冒頭の「序」を除いて、1章から5章、そして終章という全6章の構成を取った。

 1章では、上記1.および2.で述べたところの問題設定、先行研究との関係、本論文の立場と方法をより具体的に論じた。その概要は上に論じた通りであるため、再論は避ける。

 次に、2章では、清水が社会学という学問を研究者としての主に1930年初頭から中盤までの時期における『社会と個人――社会学成立史(上)』(1935)、また『日本文化形態論』(1936)所収の論文といった諸期の清水の社会学的著述の分析を行った。その結果、これまでの研究ではマルクス主義から社会学へのなだらかな転向とみなされてきた1930年代の清水の思想的歩みが、「文化形態論」という立場からする社会学的な分析として一貫して捉えられることが明らかになった。さらに、清水がそこで問題にしている文化と人間の間に必然的に葛藤が生じるという事態にいかに向き合うべきかという問題意識は、1930年代後半以降の『青年の世界』(1937)、『社会的人間論』(1940)にも引き継がれていることが明らかになった。

 3章では、『流言蜚語』(1937)や「競闘」(1941)といった主に1930年代後半以降の著作の分析を通じて、「闘争」という概念を人間の私的な生活の中に浸透する基礎的概念として扱っていることを明らかにすることを試みた。その結果、『流言蜚語』のような著作が、単に流言の流布や災害時の混乱といった個別的な現象を解明することを目指しているのみならず、公と私の関係の動態を把握するための形態学的な分析枠組みを前提にしていたものであること、またその際に、清水がゲオルク・ジンメルに発する形式社会学やマックス・ウェーバーの闘争論、またはアメリカのシカゴ学派の草創期社会心理学といった、さまざまな学問的動向を独自に咀嚼して分析概念を編み出していたことが明らかになった。

 4章では、これまでの分析を前提として、生きることがすなわち闘争である、という清水の問題意識が強くあらわれている分析事例として、『社会的人間論』(1940)を中心とする彼の家族論を取り上げた。その作業を通じて、清水の社会学が同時代アメリカの社会集団論と社会的接触論を咀嚼することを通じて、人間のライフコースに対して社会的な矛盾や葛藤がどのような屈折を経て影響を与えると考えていたのかを明らかにした。加えて、5章にて検討する清水の叙述スタイルも含めて、先行する文芸作品――自然主義的な私小説――が清水の社会学的著述に影響を与えていることなどを明らかにした。

 5章では、日中・太平洋戦争後の清水がいち早く『私の読書と人生』(1949)をはじめとする自伝的著述を著し、自分自身の生涯の語りを『愛国心』(1950)や『社会学入門』(1959)といった社会学的著述の中にも取り込んでいくという事態の分析を通じて、最初期において社会学という学問に対して違和感のあった清水が、どのように社会学を受け止めようとしていたのかを明らかにした。その結果、清水が自分自身が社会学を上手く受け止められず、それを咀嚼しようと格闘した経験を振り返ることで、かえって一定の距離感をもって社会思想や政治的立場をとらえ、それとの関わりを人びとがそれぞれの仕方で捉えるためのツールとしての社会学の意義を見出したことを明らかにした。

 

4. 意義と課題

 本稿が以上に示してきた知見の意義は、二点に求められる。

 第一に、「人生」と「闘争」の相即不離な関係という視点から清水の著作読みなおすことを通じて、人間の日常的な生活と、政治対立や社会問題といった闘争の争点との距離を絶えず測定しようとする知識として社会学を捉えようとする視点が清水の社会学に通底していることを明らかにした。

 第二に、知識人論的な視点からの清水像の刷新である。清水の社会学者としての姿を捕えなおし、また、それがそれぞれの時代にどう受容されたのかを明らかにすることを通じて、社会学の視点からの教養論として捉えられることを明らかにした。

 最後に、今後の研究課題として、(1)清水の平和運動と社会学の連関を明らかにするという点、(2)1960年以後の清水社会学の展開に触れ、その後の転向問題などの重要な論点への示唆を与えるという点、を挙げておく。