本研究では砂川期の南関東地方を主な対象として、地域で異なる砂川期の石器群が行動論上どのように位置づけられるか検討を行い、当該期の居住形態及び集団の行動復元を試みた。

 砂川期は後期旧石器時代後半期の一時期で、最終氷期最盛期の寒冷な時期にあたり、年代的には約24,000~22,500 cal BP、編年的には武蔵野編年でⅡb期前半、相模野編年で第Ⅳ期前半、相模野段階編年で段階Ⅵに相当する。当該期では武蔵野台地と相模野台地では発達した石刃石器群が、下総台地では有樋尖頭器石器群が主に分布することが知られている。

 本研究ではまず砂川期とその前後の時期を含むⅣ下最新段階から終末期にかけての石器群の変化を検討した。放射性炭素年代測定値と二側縁加工尖頭形石器の型式的特徴、層序に主に着目し、相模野台地と武蔵野台地でAMS年代測定が行われた遺跡と複数文化層が確認された遺跡を中心に検討を行った結果、砂川期は前半と後半の2時期に分けられた。

 砂川期前半は年代では23,500 cal BP前後、地質層序では相模野台地でL2層~B1層下部、武蔵野台地でⅣ層中部~Ⅲ層に相当し、基部が尖る斉一的な大形~小形の石刃素材二側縁加工尖頭形石器が製作される。有樋尖頭器は大形で両面調整があるものが多く、男女倉型や東内野型の典型的なものもこの時期に確認される場合が多い。両面調整が多いため素材が不明なものが多いが、判明したものをみると石刃・縦長剥片素材が多い。

 砂川期後半は年代では23,000 cal BP前後、地質層序では相模野台地でB1層中・下部、武蔵野台地でⅣ層上部~Ⅲ層に相当し、基部が丸くなるものや打面が残る石刃・縦長剥片素材の中・小形の二側縁加工尖頭形石器が製作される。有樋尖頭器は周縁加工や片面加工の中・小形のものが増加する。また、後半になると石刃石器群でも全体的に黒曜石の割合が増える傾向がある。なお、尖頭器石器群は砂川期前半でも黒曜石が大半を占める場合が多い。

 これらの石器群の変遷は大宮台地や赤城山南麓などの周辺地域でも概ね踏襲されるとみられるが、下総台地及び信州黒曜石原産地周辺については尖頭器石器群優位かつ年代測定事例が少なく堆積も薄いため、細分ができなかった。

 その後上記の細分編年を基に各台地の石材消費状況と石器製作技術構造を検討した。

 相模野台地は石刃石器群優位で、主に凝灰岩とチャートを石材に使用していた。相模川上流部の凝灰岩原産地で初期工程が多く行われ、境川沿いでチャートが多く搬入・消費される特徴がみられた。また、メノウ・玉髄、碧玉の遠距離石材が主に大規模遺跡に少量搬入されていた。石刃石器群では大半の遺跡で初期工程を除く一次加工・二次加工が行われ、二側縁加工尖頭形石器及び部分加工石器が大量生産されていた。また、加工具も多く製作されるが、こちらについては継続的利用が多く、遠距離石材が用いられる場合も多くみられた。

 武蔵野台地は石刃石器群優位だが尖頭器石器群も一定数確認された。石刃石器群は主にチャートを、尖頭器石器群は主に信州産黒曜石を石材に使用していた。多摩川・入間川上流部のチャート原産地で初期工程が多く行われ、相模野台地と同様に主に大規模遺跡でメノウ・玉髄、碧玉の遠距離石材が少量搬入されていた。また、台地北東部から南部にのみ黒色頁岩と硬質頁岩、東内野型有樋尖頭器が搬入・消費されていた。相模野台地と同様に石刃石器群では大半の遺跡で初期工程を除く一次加工・二次加工が行われ、二側縁加工尖頭形石器及び部分加工石器が大量生産されていた。また、加工具も多く製作されるが、こちらについても相模野台地と同様の状況がみられた。尖頭器石器群では、黒曜石製の男女倉型有樋尖頭器を伴う石器群は遺跡内で二次加工を主に行い、東内野型有樋尖頭器を伴う石器群は硬質頁岩や黒曜石素材のものを単体で搬入する場合が多かった。

 下総台地は尖頭器石器群優位で、台地北西部は硬質頁岩と黒曜石を、台地北東部及び南部は嶺岡産珪質頁岩を主な石材として使用していた。また、房総半島や古東京川周辺で採れるメノウ・玉髄やチャートを主な石材とする場合もあった。房総半島南部では石刃石器群で嶺岡産珪質頁岩の初期工程が多く行われ、台地北東部では嶺岡産珪質頁岩の、台地北西部では硬質頁岩の大規模な尖頭器石器群が分布していた。尖頭器石器群では硬質頁岩を主とする石器群で主に二次加工が行われ、嶺岡産珪質頁岩を主とする石器群で初期工程を除く一次加工・二次加工が行われていた。尖頭器石器群は東内野型有樋尖頭器石器群が大半で、黒曜石製の男女倉型は単体資料にとどまる。

 各台地の石器群の出土状況や母岩の共有状況を観察すると、石刃石器群に尖頭器が、尖頭器石器群に尖頭形石器が共伴する状況が一定数みられた。また、尖頭器石器群では尖頭器や加工具の素材に石刃・縦長剥片を用いる場合が多く、尖頭器製作技術の一次加工に周縁型石刃技法を用いていると考えられる場合があった。従来は石刃石器群と尖頭器石器群は時期的に異なるか、それぞれ別集団による独立した石器群と考えられてきたが、これらの事実から、砂川期の石器群は石刃石器群だけではなく尖頭器石器群も各地域で同時期に存在し、両石器群は石材や場所に応じて使い分けられる技術が異なることにより残された相補的な石器群であると解釈した。

 上記の石器群の内容を踏まえて、南関東地方における当該期の集団の動きと、居住形態を検討した。

 まず、砂川期の台地ごとに優位となる石器群が異なる要因について検討した。相模野台地と武蔵野台地の近距離石材を用いる石刃石器群は、主要石器となる二側縁加工尖頭形石器の破損リスクが高いものの、原産地が近距離にあり石材採集コストが低いため採用されたと考えた。一方、遠距離石材を主に用いる下総台地の尖頭器石器群は、近距離に優良な石材産地がなく石材採集コストが高いが、主要石器となる尖頭器の破損リスクが低く柔軟性が高いため採用されたと考えた。両技術は状況に応じて使い分けが行われ、近距離移動(主に台地内遊動)時は石刃技法を、遠距離移動(主に台地外遊動)時は尖頭器製作技術を主に採用したと考えた。

 また、砂川期の石刃石器群では二側縁加工尖頭形石器の大量生産が行われ、台地内遊動が主となり資源予測性が高く特定の狩猟行動に特化していた可能性があることから、信頼性システムが採用されていたと考えた。一方、台地外遊動時及び下総台地では遊動範囲が広いため資源予測性が低く、長距離の遊動に適した装備として汎用性が高く破損リスクが低い尖頭器が選ばれ、保守性システムが採用されたと考えた。

 相模野台地と武蔵野台地では台地中央部の湧水池や源流部にそれぞれ拠点地が形成され、拠点地では石器・礫共に多数出土し、多種類の石材が確認された。拠点地から放射状の移動が主に行われていることから、両台地ではコレクターシステムが採用されていたと解釈した。一方、下総台地にも拠点地が形成されるが、石材が特化する傾向がみられ、線状の移動を行うことから、基本はコレクターシステムと考えられるが、典型的なコレクターには当てはまらないと考えた。

 下総台地で確認される東内野型有樋尖頭器という特殊化した型式が確認される背景として、上記のような下総台地独自の居住形態が背景にあると考えると共に、古思川・古渡良瀬川などの地形的障壁も要因の一つとして考えた。一方、黒曜石製の男女倉型有樋尖頭器は、南関東地方では数は少ないが広範囲に分布が確認されることから、特別な石器として扱うのではなく、尖頭器製作技術と石刃技法が状況に応じて使い分けられていたことによる行動上の差異と考えた方がよいのではないかとした。

 各台地の居住行動をみてみると、相模野台地では砂川期前半では台地中央部に拠点地をもち、そこから放射状にタスクグループの派遣を行っていたとみられた。最も多い石材採集行動は台地を北上して凝灰岩原産地へ行く行動で、次いで多いのは多摩丘陵を経由して多摩川上流部からチャートを採集する行動である。

 武蔵野台地も台地中央部に拠点地があり、そこを起点として放射状にタスクグループの派遣を行っていたとみられる。最も多い石材採集行動は台地を北西に進んで多摩川・入間川上流部のチャート原産地へ行く行動で、多摩川を更に遡って信州黒曜石原産地へ行く台地外行動も比較的行われたと考えられる。信州産黒曜石採集を行う際は長距離となるため、尖頭器を基本装備とし、パーティー編成が行われたと考えられる。

 下総台地では尖頭器石器群の拠点地から直線的な移動により石材採集を行い、目的とする石材を集中的に調達していたとみられる。石材採集行動は硬質頁岩の場合は主に下野北総回廊を北上して行われ、信州産黒曜石の場合は北関東回りで行われたと考えられる。嶺岡産珪質頁岩の場合は分水界沿いに房総半島を南下する行動が主体であったと考えられる。

 砂川期後半では、黒曜石需要の増大に応じて台地外遊動の頻度が増えたと考えられる。相模野台地では台地中央部の拠点地が減り、台地南部に行動範囲が広がる傾向がみられる。

 武蔵野台地では台地中央部に引き続き拠点地が存在するが、一部の拠点地がやや北東に移動する一方、台地西部と入間台地の遺跡が減少することから、信州産黒曜石採集行動を行う際に北関東回りのルートの利用頻度が増えた一方、多摩川を遡るルートの利用頻度が減った可能性がある。

 黒曜石の需要が増えた原因の一つとして、砂川期の石刃石器群は台地内遊動が中心であったことから、長期間の限られた場所での遊動により、資源分布にストレスが生じ、そのリスクを低減するために台地外遊動を積極的に行い、その結果黒曜石採集に結びついた可能性を指摘した。