本論文は、日本の大都市を代表する東京を事例にして、都心部と郊外部からなる、現在につながるような都市構造の端緒が形成された両大戦間期の時期に、どのように都市形成が進んだのかを明らかにするものである。

 日本においては特に第一次世界大戦以降、重化学工業化の進展に伴い、都市化が著しく進展したことが知られている。19世紀末に534万人だった市部人口は、1920年に1010万人に、1940年に2758万人に増加した。こうした市部人口の増加は、新興重化学工業都市の叢生によってもたらされた側面もあるものの、大都市の人口増加も著しいものであった。本論文が分析の対象とする東京の場合、1932年の市域拡張後の東京市を範囲とする地域の人口は、1920年の335万人から1935年には589万人に達した。

 こうした大都市の成長は、大企業の本社や銀行などの金融機関の都心部への集積と、旧来からの都市域を超えた郊外部の宅地化の進展がもたらしたものであった。本論文では、こうした東京の都市化を特徴づける地区を選び、その形成過程から大都市東京の形成を論じていく。具体的には、都心部については、①高層化が進み特徴的なオフィス街が形成された丸の内地区(現在の東京都千代田区)を、郊外部については、②工場立地に制約がない甲種工業地域に指定され、新たな工場集積地となった志村地区(現在の東京都板橋区)と、③都緑地を残すために開発に制限のある風致地区に指定され、良好な住環境を持つ住宅地を形成した洗足池周辺地区(現在の東京都大田区)を、事例とする。それぞれの地区は、東京において特徴的な商業地・工業地・住宅地を形成しており、これらの地区を事例として東京の形成過程を考えていく。

 加えて本論文は、こうした都市化に対応して制定された、都市計画法という法制度の運用過程についても分析を行う。1919年に制定された都市計画法は、都市におけるインフラ整備に関する初の全国法制であり、市域を越えた都市化を見据えて制定されたものであった。この新制度がどのように制定され、そして実際にどのように機能したのか。都市計画事業の中核をなし、都心部と郊外部を密接に連繋させることを目的とした、広域道路網計画の事業財源問題を事例として、この点についても考察を行いたい。

 「第1部 東京都心部発展の歴史的前提」は、東京の都心部に位置する丸の内地区の形成過程を、丸の内地区の土地所有者であった三菱の不動産経営の側面から確認する。現在の丸の内地区は日本・東京を代表するオフィス街であるが、丸の内地区がオフィス街として急速に発達し始めるのは、第一次大戦前後の時期のことであった。第1部はなぜ丸の内地区においてそうしたオフィス街が形成されることとなったのか、明治期にさかのぼって検討するものである。

 明治期の丸の内地区は多くの未開発地を残していたが、そうした状況でも東京駅用地の売却益や物置場としての土地利用が行われていたこともあって、三菱の不動産経営は順調に進展していた。明治期においてはオフィスビルの高層化は萌芽的なものにとどまっていたとはいえ、不動産経営の順調な進展は建物の高層化に対応した経営経験の蓄積につながった。職住分離を前提とした執務空間であるオフィスビルを利用する日本企業はこの時点ではまだ少数であり、日本の近代化とともに成長を始めた鉄道事業者や商社などが例外的にこれを利用するにとどまっていたが、企業が近代的な経営組織を整えるにつれ、企業業務に専念できる空間としてのオフィス需要が生じ始めていたことも確認できた。

 大正期になって東京駅が開業し、加えて第一次世界大戦の勃発とそれに伴う都市化の進展は、丸の内地区の貸事務所需要の急増をもたらした。注目すべきはこうした丸の内地区における貸事務所需要が第一次大戦後の不況期においても継続していることで、この変化は大戦時の一時的な好景気によるものでなく、都市の構造的な変化をもたらすものであったことを示している。三菱の不動産経営はこうした情勢変化に十分に対応できたとは言えないものであったが、そのことがかえって丸ビルという巨大なオフィスビルを建設することにもつながった。1920年代初頭でも30%弱の非建物敷地・空地が残っているなど、第一次大戦後にあっても丸の内地区の開発はいまだ途上にあり、都市の拡大に対応するだけの高層化の余地を残していたことも付言しておきたい。以上のように大都市東京の都心部に位置するオフィス街は、一企業の順調な不動産経営を背景に形成されたのであった。

 「第2部 都市郊外統制の構想とその帰結」では、市域を越えて進展する都市化に対応するために制定された都市計画法の意義を、事業財源として唯一法制化された受益者負担を軸に分析した。

 都市計画法の制定に関する複雑な政治過程の結果、生み出された強力かつ不安定な受益者負担は、法制定後には行政域に左右されない公課として内務省内で積極的に定置され、活用が目指された。このことは、都市計画法に基づく都市計画・都市計画事業がともに行政域を越えて実行できることに照応する面もあったとも考えられる。ただ、都市計画事業の実際の執行の局面をみると、こうした想定通りに受益者負担が課されたわけではなかった。都市計画法に基づく都市計画事業は、事業の執行者として行政庁、事業の費用負担者として公共団体を想定していたため、都市計画事業を実施していく過程で地方議会において予算を議決する必要があった。東京市外の都市計画事業の場合、ここで執行者・費用負担者として立ちあらわれたのが東京市外を包含する行政域を持つ東京府であった。府の産業政策の一環として市外環状放射道路を計画していた東京府では、これを都市計画事業として実行することとし、受益者負担は道路の建設が行われる郡部地域の受益に応じた負担とみなされ、賦課されていくこととなった。第3部で扱う事例でも確認できるが、東京府は行政として東京市郊外部の都市インフラ整備に関わっており、府県であるにもかかわらず都市公共団体的な役割を果たすようになった。

 「第3部 都市化と東京郊外地域社会」では、工場地域における区画整理事業と、風致地区における公園整備事業を事例に、都市化に対応した地域社会の様子を探った。この二つの地域の事例では都市計画法によって制度化された用途地域制に沿った都市形成が行われており、都市計画が地域社会にどのような影響を与えたのかを見ることが出来る。

東京府板橋区志村地区において進められた区画整理事業は、用途地域制の工場地域であることを意識した市街地整備を行った。こうした都市計画に沿った市街地整備が可能となったのは、低地部と台地部にまたがった土地所有が行われており、低地部に工場立地が進むことで台地部の宅地化が進むという、これらの土地所有者に有利な構造を持っていたこと、そして旧行政村志村を範囲とする地域意識の存在が、広域にわたる区画整理事業を通じた都市開発を行うことにつながった点が挙げられる。

 一方で風致地区において結成された地域住民組織である風致協会の行った事業の過程からは、旧来の農村秩序に沿った都市形成の不全の過程も明らかになった。洗足池周辺を都市公園として整備するにあたって、それまで農業用水のため池として洗足池を所有・利用していた池下流部の旧来からの地域有力者たちは、消極的な態度をとった。これに起因した風致協会の機能不全を解消したのは、地域住民として様々な自治活動を行っていた新住民であり、電鉄企業から事業資金を引き出し、風致協会の活動を新たな地域社会の核とした。

 では、ここまで見てきたことを踏まえて、戦間期以降の大都市東京の形成とはいかなるものであったと言えるのか。本論文で指摘したいのは、その多元的な形成過程である。本論文では戦間期以降に都市化が急速に進展していく、都心部と郊外部の特徴的な地域を分析事例としたが、これらの地域の変化に対して、通常であれば都市公共団体として対応すべきである東京市が果たした役割というのは、ほとんど確認できない。その一方で、実際の都市形成にあたっては企業・東京府・行政村として一体的な意識を持つ地域社会・新住民たちの活動など、様々な主体がこれに関わっていた。こうした多元的な都市形成過程は、東京郊外部の水道整備過程を分析した先行研究でも確認されている。

 多元的な都市形成過程を可能にした要因はいくつか考えられる。まずは本論文が注目してきた都市計画法の存在が挙げられるだろう。行政域を越えた都市化に対応するための法制度であった都市計画法は、都市インフラ整備の主体を市に限定していなかったため、本来は都市公共団体ではない東京府が、広域から集めた都市計画特別税を使って都市インフラ整備を行うことも可能であった。池を中心とした旧町村域をまたいだ範囲を風致地区に指定することも可能であり、結果的には旧来からの行政域をまたいだ領域を範囲とする、洗足風致協会という新たな地域社会の核を作り出した。その一方で、任意の範囲を対象にして事業を行うことが可能だった区画整理事業の場合、市域拡張に伴い行政村が無くなった後であっても、旧来の行政村の範囲を対象に区画整理事業の連鎖的な拡大を進めることも可能であった。先行研究が指摘するような都市計画事業をめぐる利害集約の難しさを考えれば、このような様々な形で利害集約ができ融通が利く都市計画法の構造というのは都市インフラ整備の進展につながった可能性がある。都市計画法がその字義通り計画的な都市インフラの整備が出来なかったとしても、都市計画法が戦間期以降の都市インフラ整備に対する貢献がなかったということではないだろう。