本論はフランス語・英語の両言語で作品を残した20世紀を代表する作家、サミュエル・ベケット(1906~1989)の中期作品における、受苦と共苦という問題に取り組むものである。あらゆる情が抑制されているように見えるベケットの作品は、知的試みの純然たる構築物のようにみなされることも少なくない。しかしベケットのあらゆる作品には苦痛の感覚が書き込まれている。論者が注目するのは、その苦痛の感覚が受苦〔passion〕として描かれていること、そしてベケットにおいては苦痛の感覚が常に共苦=同情〔compassion〕の願望と不可分に提示されるということである。
 ベケットにおける苦痛というテーマについてはこれまでも研究がなされてきたが、共苦についてはまだ十分な探求がなされているとは言い難い。本研究はその間隙を埋めるために中期作品、とりわけベケットの作家性を決定づけた前期小説三部作に注目し、以下の問題に取り組む。孤独な苦しみのなかにあるベケットの描く登場人物や「私」たちは、自らと共に苦しんでくれる誰かを絶えず探し求めている。それによって救済が訪れるわけでもなく、状況が好転するわけでもないのに、なぜ彼らは共に苦しむ者を求めるのか。共苦は彼に何をもたらしてくれるというのか。彼の共苦の願望にはどんな意味があるのか。本論はこのような問いに光を当てるため、全8章をかけて様々な切り口からベケットの中期作品における受苦と共苦の諸相を記述することを試みる。
 大枠としては第1章から第3章までが受苦、それ以後は共苦に関連する内容である。はじめの3つの章では、不幸や受難、受動性という切り口からベケット作品における受苦の諸相を探る。
 第1章では『モロイ』を取り上げ、2 人の主人公にみられる不幸の感覚に注目する。彼らはしばしば自らが不幸であるという感覚を口にする。彼らの不幸はキリスト教的な受難のイメージを借りてはいるが、何者によっても救済されないという点でヨブやキリストの受難と決定的に違っている。それはむしろ近代以前のパトスの相貌を帯びている。主人公たちが不幸を被るとき、パトスによるロゴスの侵犯が暗に描かれることになる。
 次の章ではベケット作品の登場人物や語り手にみられる受動性を、歴史的背景や伝記的事実と関係づけて分析する。とりわけ作家の第二次世界大戦の経験に注目すると、主人公たちの受動性を「攻撃的な意志」への一種の批判的応答として捉えなおすことができる。そしてベケット的な受動性を体現する、生まれないまま老いた胎児というモチーフは、『勝負の終わり』における地球の終末にシェルターに籠るイメージに接続されることを明らかにする。
 第2章でも扱ったベケット作品の登場人物の受動性を、第3章では作家固有の論理に基づいて分析する。ベケットが創造する語り手や主人公が受動性態度を表明することの根幹には、自らの意志がほとんど外的なもののように感じられるという「私」の分裂的な感覚がある。再び『モロイ』を対象に、意志に関する言及を分析しながら、ベケットが多用する主人と召使のイメージへと議論を展開させる。そしてその上で、「私」の内部で開かれる裁きというイメージに注目する。ベケットの主人公・語り手がイメージする「私」の内なる法廷においては、「私」が「私」に裁かれながら、「私」の孤独な受苦について証言することになる。この裁く/裁かれることに注目することで、ベケットにおける受動的な「私」が同時に加害者的存在でもあるという複雑なあり様を解き明かすことを試みる。
 第4章から最終章にかけては、これまでの章の議論を前提としてベケットにおける共苦の問題を考える。
 第4章ではベケット作品における同情や哀れみの失敗の問題を、身体イメージと関連させながら論じる。『モロイ』において、犠牲者としての「私」はただ精神的な「崩壊」だけではなく、肉体的な「崩壊」をも被ることになることは重要だ。ベケットが前提としているデカルト的な心身二元論が近代以後の世界認識の土台となってきたことを確認したうえで、まず登場人物のグロテスクな身体イメージが前近代的な秩序侵犯性を持っていることを分析する。秩序を侵犯する異様な身体は共同体から排除されるため、『モロイ』では同情されることを介して共同体に同質化することが目指されるが、同質化の試みは最終的に拒絶される。このような彼らの行動を見ていくと、同情や哀れみの情をかけてもらうことを望みつつ、それを恐れるという二律背反が浮かび上がってくる。ところで『モロイ』の主人公たちの病気になった身体の描写には、レプラ患者の表象の伝統を想起させる点がある。文学のなかではレプラ患者の身体は一種の限界領域として、哀れみを抱くことができるかどうかを問うものとして機能してきた。『モロイ』の崩れ落ちた身体もまた、哀れみを抱くことが可能かどうかを問う身体として現れるのである。
 ベケット作品において、同情や哀れみの問題は、結局のところ分裂した自己と自己の間に起こる、ベケット特有の哀れみの問題に収斂していく。その議論に割かれるのが第5章である。この章では「ダンテとロブスター」『ワット』『モロイ』を主に扱い、初期においてダンテの影響のもとに探求されていたベケットにおける同情が、中期以降、「私」と「私」の分裂体の間のナルシスティックな同一化願望と結びつく同情として探求されていることを描き出す。しかしベケットにおいて自己の同一化は否定される。同情や哀れみは同一化の実現されえない願望として、『わたしじゃない』の無力な哀れみの身振りのなかに残るのみとなる。
 最後3つの章では、共苦そのものを扱うのではなく、周辺的なモチーフを鍵にベケットにおける共苦の問題を探ってゆく。第6章で扱うのは、『マロウンは死ぬ』にみられる愛と哀れみの共同体の創出願望である。マロウンはホムンクルスを創出し、それらと共に死のうとする。彼が愛の結びつきを哀れみの結びつきと捉えている以上、ホムンクルスとの結びつきには哀れみが関係しているといえるが、それらと共に死に絶えるという試みは失敗する。ベケットがこの共同体創出の失敗を通して描くのは、「私」の主体化の失敗である。
 第7章で注目するのは、『名づけえぬもの』において同情の範囲から外れるものとして現れるワームの身体イメージである。ワームに纏いつく「蠕虫」のイメージは、伝統的に人間と結びつけられてきた側面を持ついっぽうで、人間にとって「私ならざるもの」・「非人間的もの」を意味するために使われてきた側面も持つ。『名づけえぬもの』では、虫のイメージは言語に重ねられ、「私」は言語に寄生されたものとして提示される。
 最終章は『名づけえぬもの』の涙の問題を取り上げる。この小説の語り手は自分が涙を流していることを報告するが、彼はなぜ泣くのだろうか(あるいは泣くと語るのだろうか)。他人のために泣くにせよ、自分のために泣くにせよ、泣くことは同情によって引き起こされるといえる。主体化できない「名づけえぬもの」は同情という感情の主体になることは不可能なはずだが、それでも泣くイメージを語ることからは、言語に他なるものに同化させる力があることが浮かび上がってくる。
 本研究は、以上のような問いをもってベケットの中期作品における受苦と共苦の諸相に光を当ててきた。様々な角度からこの問題に取り組むなかで見えてきたのは、ベケットの「私」にとって、共に苦しむ伴侶を想像することが存在の苦痛に耐える唯一の方法であるということだ。最初人の形をしていたその伴侶は、徐々に人でないものに解体し、最後には言葉で指し示すことすらできないものへと変化してゆく。「私」はその伴侶と同一化できず、分裂によって苦痛を余儀なくされる。それでも「私」は自らと共に苦しむ伴侶を想像し続けるだろう。ベケット作品に救済の瞬間は訪れないが、共に苦しむ者を「私」に与えてくれる。孤独な苦悶にそっと寄り添う者を想像すること。それが打ちひしがれた者の最後のあえかな希望の可能性なのかもしれない。
 苦しみをしのぐために虚構の存在を創造し、その者の存在の受苦を目撃し、その者に寄り添い、共に受苦に打たれるというベケットの「私」たちの様相は、そのまま私たちの文学や芸術の営みに重なる。なぜ人は虚構の存在と物語を創り出し、その者に感情移入したり、あるいは一時のあいだ、その架空の生を自らのものとして生きたりするのか。古来人間に取り憑いてきたこの問いに答えようとするかのように、自己を崩壊に追い込み、形あるものをすべて焼き尽くし灰に変えてもなおも止まらない一種の情熱をベケットは描く。自らの目の前の苦しみから逃避させてくれることだけが文学や芸術の力ではない。自分以外に誰も引き受けられない「私」の苦しみを肯定し、寄り添ってくれると感じさせる力がそこにあるのだ。そして時が経てば、誰にも知られないまま塵と消えるであろう「私」の苦しみを、代わりに証言し、記録し、今ここにいない誰かにも開いてくれる力が文学と芸術にはある。ベケットのテクストは文学や芸術に宿るその力を確かに感じさせてくれる。