本論文は、インド・ヨーロッパ語族の諸言語の共通祖先と措定されるインド・ヨーロッパ祖語から、同語族を形成する語派のひとつスラヴ語派がいかにして分化したのか、そしてスラヴ諸語の共通祖先と措定される共通スラヴ語(スラヴ祖語)がどのような音韻・形態法の体系をもつ言語であったのかという問題の全貌を解明することを目的とする。

 まず第一章では、先行研究の紹介を行うとともに、比較言語学を科学として成立させるために必要な研究態度と手法について議論した。スラヴ語比較言語学は膨大な研究の蓄積がある分野であり、20 世紀前半までに主要な論点が出揃ってしまっている。したがって、この分野をさらに発展させるためには、比較言語学の手法の科学哲学的な考察や生成音韻論といった新しい手法を活用する必要があるということを指摘した。その一方で、先行研究の一部が採用している手法に、仮説と空想を区別できないという欠陥が存在するものがあることを明らかにし、手法的に何でもありになってしまう状態を避けなければならないと主張した。それを踏まえて、研究全体に通底する理念として、19 世紀青年文法学派の「規則性仮説(Ausnahmlosigkeit)」という概念を取り上げて再評価した。

 近年では、先史時代に実際に起こったとされることを忠実に復元しようとするあまり、歴史時代の言語の変化に関する知見が新手法として次々と無批判に先史時代の研究に応用されていった。しかし、それらの手法は、音法則に例外を認めたり、文献に基づかない語形の再建を正当化したりするようなものであったため、悪用すれば任意の言語を任意の語族に結びつけることが可能となってしまうものであった。インド・ヨーロッパ語族は既にどの言語が属するかという点で十分な意見の一致があるため、そのことによる悪影響が意識されることはほぼなかった。しかし、系統に関して一致した意見がない言語、例えば日本語の系統論のような分野はその悪影響を強く受け、様々なイデオロギーがひしめき合う混沌とした状態に陥ってしまった。本論文では、比較言語学がそのような状態に陥ることをいかに防ぐかという問題意識のもと、語族は規則的な音対応に基づいてのみ決定されること、祖語の再建はあくまで音対応の説明のためであること、規則的な音変化による説明を徹底すべきこと、実際に起こった変化と方法論的に妥当な手続きの範囲内で辿れる変化にはある程度以上の隔たりが存在せざるをえないこと、そしてどのような仮説を高く評価するのかという基準を必ず明示すべきであることを指摘した。

 また、章末では、比較言語学と隣接分野との間での学際的な研究の可能性についても議論した。比較言語学は先史時代を解明する試みの一種であるため、一見すると歴史学や考古学といった隣接分野との学際的な研究が可能であるように思われる。しかしながら、これらの分野に成果を応用するためには、先史時代に存在したと措定される単語の意味を再建するための信頼のおける方法が必要となる。そのようなものは存在しないため、比較言語学は先史時代の文化を解明する強力な手段とはなりえない、ということを指摘した。それと同時に、近年盛んとなっている生物系統学の手法の応用についても、生物系統学成立の前提となっている単一の起源の存在が言語系統の場合には保証されていないことを指摘し、安易な応用は避けるべきであると結論づけた。

 第二章では、インド・ヨーロッパ祖語から共通スラヴ語に至るまでの音韻の変化のうち、アクセント以外の分節音の変化を論じた。母音の変化、子音の変化、語頭の音法則、語末の音法則という順番で論じた。論争のある全ての問題について、先行研究の対立仮説を列挙し、それらを相互比較して止揚することを基本的な方針とした。本論文独自の説明方法を採用した点としては、バルト・スラヴ語派内部の改新としての喉音の音位転換、派生環境における*sの有声化、*R̥の直前に*iと*uのどちらが挿入されるのかという条件に直後の喉音の有無が関係していること、聞こえ度を含む子音の自然類に基づいて子音連続の単純化を定式化したこと、語末の*V̄Nが比較的早期に鼻母音化したと想定したことなどが挙げられる。とりわけ、Winter の法則と後舌母音の前舌化については、全ての先行研究の仮説に無視できない数の反例が存在することを指摘した上で、それらの反例を含めて説明する新しい規則を定義した。インド・ヨーロッパ祖語から共通スラヴ語に至るまでには61個の音法則の定義が必要であることを示した。

 第三章では、自律分節素音韻論を用いて、インド・ヨーロッパ祖語から共通スラヴ語までのアクセントの通時的な変化を論じた。まず最初に、先行研究において、スラヴ語派のアクセント論の分析の前提として用いられているAcute とCircumflex という概念や、モスクワ学派が採用しているValencyという概念では、娘言語のアクセント体系を十分に説明することができないということを示した。

 バルト・スラヴ語派の音調のタイプは、AcuteとCircumflexの二種類ではなく、これまでにAcuteとして表されていた音は少なくとも二つ、Circumflexとして表されていた音は少なくとも四つに細分化し、最低でも六種類を区別することが必要となる。そのうえで、AcuteとCircumflexのかわりに、インド・ヨーロッパ祖語の喉音*Hから発生する高音調Hと、音調とは独立に振る舞う強勢という概念を導入し、その両者の有無と位置によって、AcuteとCircumflex よりも細かい点が区別できる分析方法を考案した。

 本論文で提案した理論の最大の利点は、印欧祖語の再建形が決定されればバルト・スラヴ語派の各娘言語の反映形としてどのような形が期待されるかもまた決定されるという、規則性仮説と同様の過去予測を含んでいる点にある。さらに、自律分節素による記述を採用した結果として、これまで別個の現象として解釈されていたDybo の法則とMeillet の法則が実際には同一の動機によって起こっていることなどを示した。また、論争の種となっていた所謂Acute の音声的実態の問題も、AcuteとCircumflexというバルト・スラヴ語学独自のカテゴリーではなく言語普遍的なレジスターの一種として解釈することで、先行研究の対立する主張を止揚することに成功した。

 第四章と第五章では、インド・ヨーロッパ祖語から共通スラヴ語に至るまでの形態語尾の変化を論じた。第四章は名詞屈折体系、第五章は動詞屈折体系についてそれぞれ検討した。全ての屈折語尾について、先行研究の対立仮説を列挙し、それに自らの仮説を加えて、規則性仮説の観点から最も優れた仮説を検討した。その際に重要視したのは、音韻ではない形態変化についての仮説を十分に反証可能な形にすることである。他に対立仮説が存在しない場合を除き、もはや検証が不可能な仮説については、そのことを明示したうえで棄却した。本論文で提案した主要な点としては、屈折語尾の*-m-と*-bh(i̯)-が本来それぞれ一般名詞活用と代名詞活用の語尾であったと主張したこと、名詞一般の複数属格語尾として*-oHomや*-ōmではなく*-Homを再建したこと、o語幹名詞の複数具格語尾として*-ōi̯sではなく*-oh1ei̯sを再建したこと、代名詞活用の単数具格語尾について、*-i̯-が含まれる形が古態を保存していると判定したことなどが挙げられる。

 結語では、インド・ヨーロッパ祖語から共通スラヴ語までの通時的変化の大部分が規則的な音変化によって説明可能であるという結論を述べた上で、比較言語学はどうあるべきか、どのような手続きで行われるべきか、という科学哲学的な面に十分な注意を払うことが今後の比較言語学の発展のために必要であるということを指摘した。本論文では、比較言語学的に正当とされる研究とそれ以外の線引きをどのように行うべきかという問題意識のもと、規則性仮説や最節約原理を重視するという価値判断を行っている。しかし、これは他の価値判断に基づいた方法論の設定を否定するものではない。その点を踏まえて、最終的に、本論文とは異なる価値判断のもとに比較言語学の方法論を構築する場合に、一般に満たすべき原則として、

①基準明示の原則(仮説の評価基準は必ず全て明示しなければならない)、

②同一基準・同一結論の原則(仮説の評価基準は、同じデータセットを用いればいかな る評価者(計算機を含む)によっても同じ結論が出るようなものでなければならない)、

③方法論責任の原則(イデオロギーを含んだ逆張りなどの正当でないとされる主張は、そのようなものを含む研究を低く評価したり無視したりすることではなく、正当な手続きの範囲内でそのような結論が出ることがないように方法論を整備することで排除しなければならない)

という三点を提案した。