小津安二郎はなぜ「日本的」なのか――小津映画の「日本的なもの」に対する言説史的考察

具 慧原

 本研究は小津安二郎映画を論じる際に用いられる「日本的なもの」という概念が、1920年代後半から1980年代までの日本国内や西洋の言説においてどのように形成され、変容していったのか、その過程のダイナミズムを描き出すものである。小津映画の「日本的なもの」については、それに対する小津没後の西洋の議論が広く知られているが、日本国内の批評言説は未だほとんど検討されていない。したがって本研究は、まず1920年代後半から60年代前半までの日本国内の言説を吟味し、 従来の研究に欠けていた「日本的なもの」の意味内容の歴史的変遷および「日本像」の各時代における複数性を解明することに取り組む。そのうえで、ローカルな文脈の議論を踏まえ、1970年代から1980年代まで行われたグローバルな「日本的なもの」の議論を捉え直す。これを通して、1970年代と1980年代の議論の新しい意義や問題点を見出す。その結果、本研究によって「日本的なもの」の議論の全体像が提示され、小津映画の受容史に新たな光が投げかけられる。

 本研究は3部から構成される。戦前から1940年代半ばまでの日本国内における議論を検討する第1章と第2章が第1部、戦後の議論を取り扱う第3章と第4章が第2部、小津没後の西洋の議論を中心とする第5章と第6章が第3部をなす。

 第1章では、1920年代後半から1935年までの批評言説を扱う。この時代にあっては、「日本的」という概念は「西洋映画/日本映画」という二項対立の下で芽生え、日本映画は西洋映画に比べて低級なものとして否定されていた。しかしそのなかでも優れた日本映画の特質が定まり、それに伴って小津を「日本的」と評価する最初の論考が出現しており、そこでは小津とともに高く評価された何人かの監督が「日本的」と形容されている。小津に対する「日本的」という評価が生み出された背景には、アメリカニズムに満ちていた小津映画が『出来ごころ』から「日本的なもの」へと転向したことや、小市民映画に対する批評家たちの好み、そして「日本的なもの」の議論が活発化する映画界の状況が絡み合っていたことが、第1章を通して明らかになる。

 第2章では、まず1935年から1939年の批評言説を検討する。この時期に小津の「日本的なもの」が日本映画論のなかで論じられる際には西洋映画を評価軸として伝統的なもの・否定的なもの・優れた監督たちが共有する集団的なものとして捉えられ、同時に小津論においては現代的なもの・肯定的なものとしても捉えられている。このような事情を示したうえで、次に1940年代前半には西洋映画ではなく、戦時体制に相応しい日本人らしさが批評家たちの評価軸として前面化することで、小津映画に対する「日本的」という形容の意味内容が理想的な日本人像へと変遷していることを、『父ありき』の批評から確認する。『父ありき』の批評からは、太平洋戦争勃発後、当局の厳しい統制によって「日本的なもの」の議論が「日本人らしさ」に収斂する変化が生じている。とはいえ、その「日本人らしさ」においても論者によって含意するものが異なっていたこともまた示される。

 第3章では、戦後の1955年まで小津映画の「日本的なもの」の議論に否定的な観点が支配的になっていく様子を見出す。戦後の「日本的なもの」の議論を触発した『晩春』は、社会的映画を求める批評家たちの期待とは違い、現代とは無縁であると指摘されるものだったとはいえ、その「日本的」という形容は伝統的で肯定的なものとして用いられた。ところが小津映画が固着化することで批判の声が多くなることに伴い、「戦後の新しい方向/従来の保守的方向」という対立軸の下で小津映画は後者に分類され、「日本的なもの」も否定されていく。小津論においてはスタイル的側面から、日本映画論においてはリアリズムの側面から、「日本的なもの」は打破すべきものとして規定される。なお以上のような検討に加え、当時日本映画の海外進出によって形成された「海外に受ける時代劇/輸出向けではない現代劇」の二項対立にも目を向け、小津の「日本的なもの」が外国人には理解できない閉鎖性を帯びたものとして扱われていることをも指摘する。

 第4章では、「戦後世代の新人監督/巨匠」という対立軸が最も際立つ1956年から1963年までに焦点を当てる。1956年以降、戦後世代の新人監督たちが巨匠を倒すべき伝統として規定し、小津の「日本的なもの」は日本映画の脱却すべき古いものとして否定された。そうしたなかで小津批評においては、「日本的なもの」の議論が既成の批評家による批判、若い批評家よる批判、そして変わらない小津を受け入れてからの肯定といった、三つの流れが存在する。1960年代には小津の「日本的なもの」を俳句的と捉える見方も広く認められるが、これを通して第4章では「日本的なもの」が小津の晩年まで小津映画を解く手がかりとしてみなされたことが示される。最後に、小津映画が海外で高く評価されることで、「日本的なもの」が閉鎖的なものから脱皮しつつあったことが指摘される。

 グローバルな文脈の議論を検討する第5章では、1950年代後半からの西洋における小津受容に触れたうえで、1970年代のアメリカで行われた議論を吟味する。小津映画が少しずつ知られていた1950年代後半から、アメリカとイギリスにおいて小津映画は「もののあわれ」や「禅」「俳句」と関連づけられた。この視座を受け継ぐ1970年代のアメリカの議論では、小津映画の無人のショットが注目され、それが禅の「無」や「もののあわれ」、和歌の「枕詞」と結びつけられ、小津映画の最も肝心な要素として賞賛される。第5章ではこの点に着目し、「日本的なもの」を否定する観点が常に存在した日本国内とは違い、1970年代のアメリカでの議論は「日本的なもの」を全面的肯定へと転換する新しい現象だったことを示す。

 第6章では、1980年代の日本とアメリカで行われた1970年代の文化論的解釈に対する反論を検討する。日本では主題論的アプローチから、小津映画のうちに禅や日本的美意識を読み取る見方が排撃され、アメリカではネオ・フォーマリズムのアプローチから、遠い昔の伝統と小津を無媒介的に結びつける1970年代の議論はオリエンタリズムにすぎないと批判される。これを通して、1980年代の議論は小津研究の新たな地平を開いたものの、小津のうちに「日本的なもの」を見る立場を否定することに力点を置き、そもそもなぜ小津映画が日本国内において「日本的」とみなされたのかを明らかにする視点を欠いており、そのために1970年代の議論と同様に、「日本的」という評価の歴史性を捨象しているという共通点があることを指摘する。

 以上の検討を通して、以下の結論が導き出される。まず日本国内の議論では、 第一に、小津は遅くとも1934年からすでに「日本的」と形容されていた。小津は『晩春』から「日本的」となったと通常認識されているが、これはそうした認識に再考を促す。第二に、「日本的なもの」は、時代的に変遷することで歴史性を帯びるものだった。小津に対する「日本的なもの」という概念は、1930年代半ばに形成されて以来、戦争や戦後といった時代状況を映しつつ、絶えず変容した。このように時代的変遷と絡み合うことで、小津映画の「日本的なもの」は日本映画史の流れとも呼応していた。それは日本映画の進展に伴って時代ごとに変わっていくさまざまな二項対立の下で議論されていたがゆえに、日本映画史を貫くキーワードと言えるものだった。第三に、小津映画の「日本的なもの」の意味内容は、同じ時代においても重層的に構築されていた。「日本的なもの」を肯定する見方と否定する見方は常に共存し、その内包は伝統に依拠するのみならず、伝統の再解釈としての同時代や現代、過去をも包摂しうるものとして多様に捉えられていた。第四に、「日本的なもの」の議論は、日本の文化を世界の文化においていかに位置づけるか、というグローバルな射程を持っていた。

 日本の激動期の象徴的存在たりうる小津をめぐる日本国内のローカルな言説を辿ってみることでと、本研究は「日本的なもの」に対するグローバルな議論の意義を示し、1970年代と1980年代の議論において留意すべき二点を新たに指摘できた。一つは、日本国内の議論とは違い、1970年代のアメリカでの議論は「日本的なもの」をほとんど禅文化に還元してしまっていることである。それにより、小津の「日本的なもの」は実際にグローバルな文脈に置かれた際に、かえって意味の狭い閉ざされたものを焦点とするにいたった。もう一つは、1970年代の議論と1980年代の議論は「日本的」という評価にある日本国内の歴史的文脈を捨象しているという点で、同じ前提の上に立っていたことである。1970年代のアメリカの論者たちは小津映画が実際におかれていた文脈を考慮しないことで、「日本的なもの」を解釈する準拠枠として禅文化を取り上げた。また1970年代の議論に反論する1980年代の議論も小津に対する「日本的」という評価の歴史性を見逃すことで、1970年代の議論の前提を許容してしまっている。

 本研究は従来の研究では捨象されていたローカルな議論を掘り起こしただけでなく、ローカルな議論を踏まえてグローバルな議論をも考察することで、小津映画研究の永遠なるテーマである「日本的なもの」の受容史を描き出した。これからも続いていくであろう小津映画の「日本的なもの」の議論にとって、本研究は一つの有益な参照点を提供しうるだろう。

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