本論文は、文化と芸術の帰属的性質―鑑賞者が特定のカテゴリに帰属させて捉えうる性質―が作品に価値をもたらすメカニズムを明らかにする。それにより、作品の価値は特定の慣習およびそれに基づく基準が共有されている集団ごとに相対的に享受されると主張する。

 新たな価値を創造したい。それは多くの制作者達の願いである。そして、その願いを叶える常套手段とも言えるのが、何らかの差異があるカテゴリの帰属的性質を取り入れるという方法である。帰属的性質は、慣習によって形成されたカテゴリに対する認識が先入観として鑑賞者に共有されることで機能する。例えば、〈アニメ〉や〈寿司〉は日本文化に帰属する性質として世界的に共有されており、これらを目にすれば多くの鑑賞者が即座に日本文化を連想できる。かつてのジャポニスムや現代のアプロプリエーション・アートに例を見るように、帰属的性質は、文化、時代、様式といった何らかの差異のあるカテゴリ間において一つ以上の境界を移動し、移動先の文脈と結合することによって、作品に新しい価値を生じさせることができる。

 しかし、帰属的性質を取り入れた作品が鑑賞される際には、次のような問題が生じうる。第一に、制作者の文化的な肩書きが作品の価値判断に影響を与えうるということである。例えば、制作者が日本人だから作品にも日本的な性質があるはずだという期待や、外国人だから日本的な性質をうまく扱えないだろうという偏見が、鑑賞者の側に発生することがある。第二に、帰属的性質によってもたらされる価値は、美的価値なのかという美学的な問題がある。帰属的性質はエキゾチックさ、革新性、真正性、道徳性などを誘発することで作品の価値に影響しうるが、これらの性質は帰属的性質に関する知識や文脈に依存的に認識される傾向がある。従来の美学が作品の感性的な側面を美的判断の対象としてきたこともあり、作品の知的な側面から生じる性質が美的判断において考慮されるべきかどうかをめぐっては、対立する意見がある。第三に、ある集団が帰属的性質から特定の価値を享受することで別の集団に不快感を与える場合、例えば文化的盗用のような道徳的な問題に発展する可能性がある。第四に、作品のアイデンティティが曖昧になる―すなわち、帰属的性質の帰属先のカテゴリと、移動先のカテゴリどちらの基準において評価すべきかということが明確でなくなる―可能性がある。

 本論文はこれらの問題を意識し、帰属的性質が作品に価値をもたらすメカニズムを明らかにする過程で、集団相対主義という観点を提示すると同時に、その妥当性と必要性を主張する。そして、文化と芸術という異なる領域におけるそれぞれの問題を、共通の理論的枠組みによって分析することで、本論文が提示する理論の普遍性を証明する。本論文は五つの章から構成され、第一章から第三章では文化の帰属的性質(文化的性質)に関する考察を行い、そこで構築した集団相対主義の理論を、第四章と第五章で行う芸術の帰属的性質(芸術的性質)に関する考察に応用する。具体的には、以下のような構成になる。

 第一章では、観光者と居住者の食事経験を例に、集団相対主義の観点を提示する。集団相対主義は、文化相対主義と関連付けられるが、文化相対主義で指摘されている、集団ごとの多様性を尊重する一方で、集団内部の多様性が見過ごされてしまう、という問題を本論文の集団相対主義は克服する。その手段として、集団基準と個人基準を分けて捉え、個人は複数の集団基準の共有や内在化が可能であると主張する。それにより、複数の集団間には明確な境界はなく、少しずつ異なるアイデンティティを持った個人たちによって構成される、スペクトラム的構造が広がっていることを示す。そして、作品を構成する知覚的性質と文脈的性質は、帰属的性質として認識されることで、作品のカテゴリ化を促し、差異による価値を鑑賞者に見出させることができるということを明らかにする。最後に議論を文化から芸術に接続し、現代アート作品は文脈的性質に依存的な価値の割合が増えてはいるものの、適合の美徳の観点からすれば、従来的な芸術作品とさほど異なっていないと結論付ける。

 第二章では、制作者の文化的アイデンティティが、文化的性質を含む作品の価値判断にどのように影響するかということを、文化的盗用の議論を手掛かりに検討する。それにより、文化の外部者には文化的性質を扱う〈美的ハンディキャップ〉、内部者には文化的性質を扱う〈資格〉という先入観が適用されることで、前者の場合にはマイナスの価値が、後者の場合にはプラスの価値が発生しやすいということを明らかにする。そして、マジョリティとマイノリティの間に働いている不均衡な力関係は、それを均衡にしようとすればするほど、かえって集団間の認識的な境界を強調してしまうというジレンマの存在を指摘する。その一因として、文化的盗用という概念が内部者と外部者という漠然とした集団の区別の上に成り立っているということを挙げる。この点を解消するために、内部者と外部者という区別を、第一章で論じた個人基準と集団基準の交わりの中で生じるスペクトラム的構造として捉えることで、流動的で相対的なアイデンティティが発生する仕組みの可視化を試みる。

 第三章では、文化的性質に真正性が求められる傾向があるということ、およびそれによって引き起こされる文化本質主義の問題について考察する。まず、文化的性質が外部者によって扱われたり、本来とは異なる仕方で扱われた場合、作品は文化的に不真正であると判断される傾向を指摘する。そして、作品を新しい文化的カテゴリにおいて捉えれば不真正ではなくなる、とする論者らの主張を〈カテゴリ新設論法〉として概観し、次のような問題点を指摘する。多くの場合文化的性質は、元の文化で浸透していた名前や形式を引き継ぐ形で扱われる。そうなると、〈同名異義〉問題により、元のカテゴリの集団基準を内在化させている鑑賞者の多くは、カテゴリ移行ができなくなり、必然的にカテゴリエラーを起こし不真正性を認識することになる。このようにして、集団間で常に複数の真正性が生じ続けることになる。また、真正性は道徳性とも関連付けられることを示した上で、その関係が作品の美的判断にどのように影響するのかということを分析し、次のように主張する。まず、作品に見出される不真正性は、不道徳性として認識されうる。不道徳性は、作品の美的価値と直接的に連動しているわけではないが、鑑賞者が鑑賞を続行できる許容範囲を超えた場合には、鑑賞者に作品の美的判断を放棄させる形で鑑賞に影響する。一方、不道徳性が鑑賞者の許容範囲内であった場合には、それは適合の美徳によって作品の美的価値を達成する手段となる場合もある。加えて、集団の道徳的基準が時代ごとに変化することに注目する。それはつまり、道徳的基準は時代ごとの不道徳性の許容範囲を設定するということであり、同時に時代ごとの美的経験の範囲をも制限しているといえる。したがって、過去の作品を現代の道徳的基準でとらえるのはカテゴリエラーであると主張する。

 第四章では、芸術と広義の芸術が互いの帰属的性質を取り入れ合った結果、芸術の境界が曖昧化しているということに言及する。例として、芸術の制度的批判、コンセプチュアル・ファッション、分子料理、前衛いけばなを分析し、芸術と広義の芸術が持つ類似性を指摘する。そして、異なるカテゴリが類似性を獲得する過程として、ハイブリッド、流用(盗用)、同化という三つのパターンを提示する。その過程で、芸術と広義の芸術の間には、文化的盗用におけるマジョリティとマイノリティのような不均衡な力関係が成り立っており、それにより帰属的性質が異なる仕方で価値を発生させていると主張する。最後に、類似性の種類を、生物進化における収斂進化と関連付けられる共時的類似性と、適応放散と関連付けられる通時的類似性に分類する。そして、どちらの類似性によってカテゴリの同一可能性を主張するのかを明らかにした上で議論する必要があると主張する。

 第五章ではまず、〈アイデンティティ連結論法〉―個別事例とその帰属先カテゴリのアイデンティティを連結させて捉えることによって、どちらか一方のアイデンティティを根拠にもう一方のアイデンティティを主張するという論法の問題点を指摘する。アイデンティティ連結論法は、個別事例が一つのカテゴリにしか帰属できないという前提の上に成り立っているが、個人が複数の集団に帰属しうるように、個別の作品も複数のカテゴリに帰属しうるということを見落としている。本論文は、境界事例が複数のアイデンティティを持ちうるという前提に立って、芸術としてのアイデンティティが生じる条件を検討する。その際、芸術の制度的定義と機能的定義を考察し、境界事例が芸術作品としてのアイデンティティを得るためには、制度と機能のどちらか一方ではなく両方必要であるという見解を提示する。そして、芸術においても集団相対主義的な観点が適用されるということを主張する。

 本論文が明らかにした帰属的性質をめぐる価値発生のメカニズムとは、より一般化して言えば、先入観が人の価値認識にどう作用するかということであるため、本論文が考察対象とした文化や芸術といった領域を超えて様々な分野に応用可能であると考える。加えて、集団相対主義の観点は、一つの正しさを導き出すことはできないかもしれないが、少なくともどのようにして衝突が起こっているのかを整理することができる―多様な価値観が隣接する今日においては、欠かすことのできない観点であるといえよう。