中国史研究において、漢代の儒教はこれまで儒教の国教化という枠組みで検討されてきた。建元元年、前漢武帝は董仲舒の対策を受け、同五年に五経博士を設置した。これにより儒教は一尊の地位を獲得し、以後二〇〇〇年にわたって中国王朝の中心的な政治思想となった。以上のような通説的理解に対し、戦後の歴史学研究では董仲舒の対策の真偽や五経博士の意義等に疑問が提出されるようになった。こうした疑問を起点として、多くの研究者が何をもって儒教は国教化したと言えるのかを様々な角度から問い続けたのが儒教国教化議論である。近年では儒教国教化という枠組み自体に疑問が呈されるようになっているが、国家・皇帝と儒教との結びつきが漢代の儒教において極めて重要な問題であったことは否定できない。漢代儒教と国家・皇帝との関わりを研究する上では、儒教国教化議論の枠組みそのものも含めて、同議論の何をどのように継承すべきかを考えなければならない。

 これまで儒教国教化議論が提出してきた主な論点には、儒家任用・天人相関説・礼制改革・讖緯思想があり、中でも讖緯思想は儒教国教化の論点になり得るのかについて評価が分かれている。さらに、近年では讖緯思想の重要性が唱えられるとともに、それに関わる漢代儒教の強い宗教性が議論されている。しかし、儒教の宗教性を重視する立場の研究ですら、国教化した儒教には礼教性が強く現れ、その宗教性は従属的なものであったと理解する。儒教の礼教的側面と宗教的側面、それらと讖緯思想の関係が儒教国教化議論に残された重要な課題である。

 本論文では上記の問題意識から、天と皇帝の関係を核とする国家に関わる宗教的要素(至上神・自然神・祖神信仰を中心とする伝統信仰と呪術・迷信)が、経義の整備と祭祀儀礼の改革を通じて礼教化(儒教の立場からの合理的秩序化・倫理道徳化・社会規範化)することを儒教国教化と捉え、漢代符瑞の性格や讖緯思想の成立と展開を中心に、その過程の解明を目指した。問題提起と先行研究をまとめた序章と、結論と展望をまとめた終章の他に、本論では以下の五章と附論で漢代符瑞と讖緯思想、ならびに儒教国教化を議論した。

 第一章では、武帝期以来の儒家官僚の進出と相まって儒家思想の影響が指摘されている宣帝期の符瑞と、郊祀との関係を検討した。宣帝の符瑞認識は、儒家と一致して遠近の符瑞を等しく評価し、後の礼制改革の理念である「承天」の思想を示した元康元年の認識から、元康・神爵の際より顕著となる、後に儒家に改革される郊祀を中心とした、先秦以来の巫祝の介在を前提とする祭祀によって符瑞を招来するという認識へと移行した。こうした変化は宣帝が霍氏政権の影響から脱して権威を獲得する過程と軌を一にしていた。符瑞に関わる限りでは、宣帝は権威を確立するため、先秦以来多くの君主が福を獲得してきた方法で祭祀を行うとともに、儒家思想から離れたのである。

 第二章では、成帝期に始まり王莽が完成させた郊祀改革の沿革を符瑞思想の観点から検討した。前漢皇帝は祭祀によって符瑞が到来したかのように表現するも、その祭祀では天地鬼神と符瑞に対して直接的には関与しなかった。他方、儒家は皇帝が徳を施すという人道的な形で天地万物に直接働きかけるという「誠」の理念に基づく礼制改革を通じて、こうした皇帝像の実現を目指した。この礼制改革は劉向以来の経文を重視する姿勢と神秘的な経書観を背景に、平帝期の王莽が天と結びついた祖先祭祀という形での「誠」を尽くす「孝」の概念を導入することで完成させた。皇帝はこの「孝」によって儒家の理念を取り入れつつも符瑞の招来を可能とし、章帝期の白虎観会議において「孝」としての郊祀を行って天の秩序を承け、自ら徳を天地万物に加えて符瑞をもたらす存在として公認された。

 第三章では、光武帝が何時・如何に讖緯の書を儒教と関連するものとして扱ったのかを考察した。光武帝の即位に先立って成立していた「孔丘秘経」説は、同時期の劉氏復興に関わる讖の全てに反映していたわけではなく、光武帝や群臣も即位段階では讖緯書の利用にあたって孔子や経書との関わりを強調していなかった。当時の光武帝にとって効果的な讖緯とは、郷里社会や河北討伐で築いた具体的な関係性に働きかける讖緯であり、一方で儒教性をもつ讖緯は光武帝に馴染みが薄く、その政治思想は帝の施政方針と齟齬しかねないものだった。建武五・六年頃に顕著となる公孫述や光武帝による儒教や儒教的讖緯の利用は、光武帝政権に必ずしも心服していない中原の人々に対し、儒教的な価値観に訴えかけることで、或いは扇動し、或いはその人心を収攬するためのものだった。光武帝が図讖の校定を開始したのもこれと同時期だったと推論した。こうした光武帝による儒教的讖緯の利用は儒教の社会への浸透を前提とするが、この前提が光武帝による儒教的讖緯の利用につながるには、後漢初年の政治的緊張を契機とする必要があった。

 第四章では、後漢朝廷による讖緯の継承を、学官に立てられた今文学を博士が官僚候補生に教授する太学の学習から検討した。博士が教授する官学の章句には讖緯と一致する経説が含まれていた。こうした讖緯を取り込んだ章句の存在は、光武帝による讖緯を用いた章句の削減・統一事業が明帝期を経て章帝期の白虎観会議に受け継がれ、皇帝臨決の下に実現したものだった。後の後漢朝廷も末期まで一貫してこの章句を遵守するよう求めた。讖緯を取り込んだ官学の章句が太学で教授・学習されていくことで、讖緯はその解釈を安定させて持続的に継承されることが可能になった。

 第五章では、緯書や『白虎通』に見える天子を爵称とする考え(「天子爵称」)が示す天子のあり方と爵制的秩序の構造を検討し、「天子爵称」が出現した背景の考察を試みた。『白虎通』爵に見える「天子爵称」とは、天を頂点とし庶人を底辺とする中で、孝と礼を基準に天子から公・侯・伯・子・男や公・卿・大夫を経て士・庶人までを等級区分する君臣関係としての秩序を示す考えだった。この君臣関係は、毎年正月に礼によって規定された各自の贄を各自の君に実際に捧げることで具体的に締結された。二十等爵制下の天子と比較した場合、「天子爵称」下の天子は諸侯百官とともに形成した一つの秩序の内部にあって、天の下・万民の上であることが明確に規定されていた。こうした「天子爵称」が受容されたのは、天子一人が天命を独占することが難しくなっていた前漢後期から後漢前期の中で、皇帝が最も高貴で尊い天命を確保することを可能にするためだった。その結果として、後漢では天子・諸侯・卿大夫・士・庶人がそれぞれ身分相応に孝を尽くして符瑞を招来するという体系の中に皇帝も位置付けられることになった。

 附論では、三国呉の末年に立てられた国山碑を検討対象とし、同碑に刻まれた符瑞の傾向を見出すことで孫呉末期の地方社会と符瑞との関係を描いた。国山碑の符瑞は漢代以来の『瑞応図』等を踏まえたものが半数程度を占める一方で、前代の文献に見えない瑞兆も多数含まれている。後者に関して、国山碑には東晋南朝期の文献資料に現れてくる禹にまつわる伝承が反映されていることを指摘した。この伝承は漢代までに書籍に記された伝説が、江南の地で盛んに語り継がれるうちに変化・発展したものと考えられる。こうした瑞兆が国山碑に多く刻まれているのは、郷党の支持を受け、彼らと同様の信仰に身を置く郡県の属吏が、その信仰を背景とする現象を瑞兆と解釈して地方長官の判断を補佐し、民間の信仰に妥協的な地方長官がそれを中央に報告することで、国家から瑞兆と認められたためである。

 以上の儒教国教化の過程をまとめると次のようになる。宣帝期では儒家の符瑞思想はなお天と皇帝の関係を規定しきれず、宣帝は先秦以来の祭祀によって符瑞をもたらした。この傾向は礼制改革が進められた元帝期以降も続いた。平帝期の王莽は郊祀改革を進める儒家にとっての重要な思想であった「誠」を「孝」と結びつけて同改革を成功させた。しかし、王莽は儒教的根拠をもたない符命によって禅譲革命を行い、続く光武帝も挙兵や即位に用いた図讖の儒教性を強調しなかった。即位後の光武帝は平帝期の王莽の礼制を故事として継承しつつ、図讖の儒教性に対してなお強い関心を示さなかった。しかし、光武帝は建武四~七年頃から儒教的讖緯を重視するとともに図讖の校定を始め、讖緯を基準とする官学章句の削減・統一を図った。この事業が明帝期を経て章帝期の白虎観会議につながり、天と皇帝の関係が緯書に基づく「天子爵称」で規定された。「天子爵称」は毎年正月の郊祀儀礼で現実化した。後漢の祭祀儀礼の多くは光武帝期に讖緯を用いて整備が進められ、明帝の初年に完備・実施された。

 このように、宣帝期ではなお天と皇帝の関係に関与しきれなかった儒教は、元帝期から郊祀や宗廟の祭祀を通じて天と皇帝の関係に関与し始めた。平帝期の王莽によって祭祀儀礼の儒教化はほぼ完了するも、なお即位にあたっての天命には関与できなかった。しかし、前漢・新崩壊後の混乱の中で即位した光武帝は、ついに儒教的讖緯を受容することで天命までも儒教化した。明帝期には讖緯を用いた祭祀儀礼の儒教化が完了し、章帝期の白虎観会議で讖緯を含む経義によって天と皇帝の関係が明確に定められた。本論文はこのように、元帝期から章帝期において皇帝と天の関係が儒教的論理によって整理され、中国史における皇帝像として定着したことを明らかにした。これをもって本論文は、儒教が皇帝にまつわる古来の呪術性や神秘性をも取り込んでそれを礼教化する国教となったものと考える。以上が、本論文が明らかにした儒教国教化の過程である。