本研究では「五遍行」という概念を取り上げる.「五遍行」とは,インド大乗仏教の一学派である瑜伽行派による,精神的・物質的構成要素(dharma,法)の分類概念のひとつである.同派は,作(さ)意(い)(manaskāra)・触(そく)(sparśa)・受(vedanā)・想(saṃjñā)・思(cetanā)の五つを,心に遍在する心作用であるとし,五つの「遍行」(sarvatraga)と称した.
瑜伽行派の心所説では,五遍行のほかに,欲などの五つの心所を五つの「別境」としている.この五遍行と五別境をあわせると,説一切有部(以下有部)の説く十大地法になる.つまり,瑜伽行派の五遍行と五別境は,有部の十大地法と密接な関係を有する.先行研究では,遍行・別境と十大地法との比較検討が行われた.その結果,別境五法の定義は有部のものと大きな相違が認められるのに対して,遍行五法の定義は,有部の説とほぼ同様であることが指摘されている.したがって,従来の研究では,瑜伽行派の五遍行と五別境は,有部の十大地法を継承し,瑜伽行派独自の考察によってこれを二分したものであるとされている.先行研究は,瑜伽行派が十大地法を五遍行と五別境に二分した主要な理由の一つとして,作意などの五心所は,アーラヤ識を含め,すべての識に相応する一方,欲などの五心所はアーラヤ識には相応しないという同派の考え方を挙げている.一方,先行研究は,アーラヤ識が作意などの五心所と相応するという説は,アーラヤ識の潜在性と適合しないうえ,その他の教説とも齟齬するということを指摘している.このことを説明するため,先行研究は,アーラヤ識が五心所と相応するという説は,有部アビダルマに説かれる識の性質(心所との相応関係など)をアーラヤ識の概念に追加したものである,と結論している.以上のことから,先行研究では,五遍行説は,有部の五心所の定義を継承しつつ,五心所の遍在する性質を八識に敷衍適用した,形式的な理論にすぎない,と考えられている.
しかしながら,先行研究における瑜伽行派の文献の扱い方には議論の余地がある.特に瑜伽行派の最古の文献である『瑜伽師地論』(以下『瑜伽論』)が五遍行を如何に理解しているかは十分に研究されていない.
本研究は,『瑜伽論』を中心に,初期経典や有部の論書との比較検討により,瑜伽行派の五遍行説を究明することを目指す.本研究は序章,本論の五章,結論,および付録から成る.
序章では,五遍行とその関連概念を紹介しながら,先行研究の概要および問題の所在を論じる.そして,本研究の課題と構成について説明する.
本論の第1章では,『瑜伽論』の「本地分」と「摂決択分」の説明に基づいて,初期経典,有部の論書,および瑜伽行派のその他論書と対照しながら,作意などの五心所に関する『瑜伽論』の説明を考察する.五心所のうち,作意と思についての『瑜伽論』の説明には特に問題となる点があるが,紙幅の都合で第1章において扱うことは難しい.それらの問題に関しては,第4章と第5章において詳しく考察する.
この考察によれば,作意に関しては,有部の論書,特に比較的古い有部の論書は修道論的な観点から論じる傾向があるのに対して,『瑜伽論』は,識を対象に向かわせ認識させるという作意の機能を重要視する.触に関しては,有部の論書では,触は感官,対象,識の三つの結合であるのか,あるいは,それとは別のものであるのかが一大問題とされるが,『瑜伽論』では特にこれを問題としていない.『瑜伽論』などの瑜伽行派の論書の説明を見れば,瑜伽行派の関心は,感官,対象,識の結合から受の生起に至る過程における触の作用にある.瑜伽行派は,触が対象の特徴を捉え,楽などの受に対応させ確定させるという作用を重要視して解説しようとしている.想に関しては,『瑜伽論』などの瑜伽行派の論書は,想と言語表現との関係を重んじて説明している.思に関しては,有部では意業との関係を重要視して説明するのに対して,『瑜伽論』ではそのことは殊更問題とされていない.『瑜伽論』,特に「摂決択分」の説明は識と認識対象との関係に限定してその作動の有り方を解説しており,禅定を背景として論じていることを窺わせる.
上記のように,従来の研究では,作意などの五心所に関する瑜伽行派の理解は有部の理解とほぼ同様であるとされてきた.しかし,第1章,第4章および第5章の考察で明らかにするように,五心所に関する『瑜伽論』の説明には,有部と同様の,あるいは近似する表現がしばしば見られる一方,有部の論書には見られない,独自の要素もいくつかある.そこには,瑜伽行派独自の問題意識が反映されていると考えられる.このことから,五心所に対する『瑜伽論』,および瑜伽行派の理解は,必ずしも有部の説を踏襲していないことが明らかになる.
第2章では,「遍行」という概念について,『瑜伽論』を中心として,瑜伽行派の論書における関連する記述を検討する.
遍在するという性質に関して,瑜伽行派の論書には,概ね二種の解釈が見られる.ひとつは,『瑜伽論』に見られる,すべての状態の心に,すべての地に,常に,心所が倶起するという解釈である.『瑜伽論』は,この四つは作意・触・受・想・思の五心所の特徴であると考え,「摂決択分」において作意などの五心所を「遍行」(*sarvatraga)という語によって総称する.この五心所以外の心所は,四つの特性の一部を有するか,あるいはそのいずれも有さない.「摂決択分」ではそれらの心所を「非遍行」と総称する.欲などの五心所はその代表的なものとして説明されている.遍行心所と別境心所についての『瑜伽論』の議論においては,「本地分」でも「摂決択分」でも,アーラヤ識との相応については全く言及が見られない.
一方,遍在するとは八識に共通して存在することである,という解釈もある.八識すべてが遍行心所と相応するということを初めて明言したのは『唯識三十頌』である.八識に共通して存在するという解釈は,『唯識三十頌』の影響によって生まれたものであろう.
すでに述べたように,先行研究では,瑜伽行派が十大地法を五遍行と五別境に二分した主な理由の一つは,作意などの五心所はアーラヤ識を含め,すべての識に相応する一方,欲などの五心所はアーラヤ識には相応しないということにあるとされている.しかし,第2章の考察により,瑜伽行派の最古の文献である『瑜伽論』は,八識との相応関係に基づいて五遍行と五別境を別に立てているのではないことが分かる.『瑜伽論』における遍行心所と別境心所についての議論は,心・心所の相応関係というより,むしろ,物事(vastu)が認識される過程における心所の状態と働きに着目して遍行心所と別境心所を区別していると言える.
第3章では,アーラヤ識の五心所に関する『瑜伽論』の記述を考察する.
先行研究では,アーラヤ識と心所の相応関係は『瑜伽論』「本地分」においては特に問題とされていなかったが,「摂決択分」に至って,アビダルマに説かれる識の性質がアーラヤ識の概念に追加された,と考えている.第3章ではこの見解を再検討し,「本地分」にはアーラヤ識と心所の相応関係を暗示する記述があることを指摘する.「本地分」のこの記述を分析することにより,『瑜伽論』のアーラヤ識が作意などの五心所と相応するという説は,必ずしも有部の思想を踏襲しているわけではなく,ニカーヤの思想に相通ずるものがあるということを指摘できる.また,第3章ではアーラヤ識の五心所の特徴に関する『瑜伽論』の記述を考察する.この考察により,アーラヤ識の五心所と六識の五心所は異なる性質を有することが明らかになる.
結論では,以上の考察を総括する.
付録Iでは,資料として,『瑜伽論』「本地分」と「摂決択分」の関連部分を抜粋し,校訂と和訳を施す.
付録IIでは,本論第3章でとりあげる『瑜伽論』「本地分中有尋有伺地」の説明の中の難解な一文について考察する.付録IIIでは,付録Iに示した「摂決択分」の抜粋の中の,アーラヤ識の所縁についての説明文に見られる *aparicchinnaという語について,先行研究の諸解釈を検討しつつ,「本地分」に関連する記述があることに着目して解釈を試みる.
繰り返しになるが,従来の研究では,五遍行説は,有部の五心所の定義を継承しながら,五心所の遍在する性質を八識に敷衍適用した,形式的な理論にすぎない,と見做されている.五遍行と十大地法の間に形式上の関連性があることは一目瞭然である.しかし,本研究で明らかにするように,五遍行に関する『瑜伽論』の説明は十大地法とは異なる関心を示している.その意味で,この説は六識の性質を機械的にアーラヤ識に敷衍したものであるとは言えない.アーラヤ識と五心所の相応関係は,一見したところ五遍行の定義と整合的でないという印象をうける.しかし,同じ『瑜伽論』の「本地分」と「摂決択分」では,アーラヤ識の心所と五遍行の理解が一貫しており,教説として成り立っている.
瑜伽行派のアビダルマに関する先行研究は,有部アビダルマとの比較にとどまり,初期経典に遡って検討することは殆ど行われていない.しかし,本研究で示すように,瑜伽行派のアビダルマは,有部とは異なる関心に基づいて,初期経典の教説を同派の理論体系において再整理および再解釈している.『瑜伽論』では,時には,初期経典の難解な教説に対して同派独自の解釈が呈示されていることもある.したがって,瑜伽行派のアビダルマを研究することは,同派の教理(例えばアーラヤ識についての考え方)に対する理解を深める上で重要であるのみならず,初期経典の教説を理解するための手がかりともなる.この意味で,研究者は瑜伽行派のアビダルマに,より大きな関心を払うべきであると言えよう.
以上の考察により,五遍行説についての瑜伽行派の理解を明らかにするとともに,瑜伽行派アビダルマの研究の意義を多少なりとも示すことができると考える.